これまで、数多くの人と出会い、そして「サヨナラ」をしてきました。最も身近なのは両親です。天の配剤としか言いようのない出会いでしたし、その恩に報いたいと思ったのに、それが果たせない、父との突然の別れだったのです。戦後の物資欠乏の時に、餓えさず、裸にせずに育ててくれたことには、感謝の言葉もありません。95で召された母が、老いて行く姿をしっか見納めて、こちらに戻りました。
子どもの頃に、よく喧嘩をした2人の兄と弟との出会いも感謝でした。四人兄弟で撮った写真が残っいます。上の兄が大学生、下の兄が高校生、私が中学生、弟が小学生の時に、それぞれが制服を着て、街の写真屋さんに行って撮ってもらったものです。その後、何度か四人で撮った写真があるのです。昨夕、訪問客があって、その最初の写真をお見せしたのです。
実は、その小中高大の四人兄弟の写真が、母の生みの親の臨終の床の枕の下に置かれてありました。母が送ったのではなく、母の故郷にいる、お世話になった方に、その一葉の写真を送ったのが、多分複写されて、奈良に住む母の生母の元に、何かの方法で届けられていたのでしょう。一度も会うことが叶わなかった孫たちを、時々、その写真を取り出しては、どんな思いで眺めていたのでしょうか。祖母は、十代で母を産んで、養女に出して、私たちの母を産んだことを隠して嫁いでいったのです。
この祖母なしには、私たち兄弟が生まれることがなかったのですが、人生の数奇さに翻弄された母にとっては、その別れは、辛い経験だったのでしょう。台湾に売られようとして警察に通報されて、すんでのところで保護された子どもの頃の経験を、母が話してくれたことがありました。もちろん私が大人になってからでしたが。
実母の葬儀の時に、奈良の父違いの妹から連絡があって、母は会葬したのです。その時、その経緯を聞かされ、その写真を手渡されたのです。実母が、自分の産んだ四人の子を認めて、思い続けてくれたことを知ったことは、母にとっては、大きな慰めや、子育ての報いになったのではないでしょうか。それもこれも、人生の現実ですね。親族の様々な思惑や進言で、人生が厳しいものにされるのですが、その辛い経験が、益となっていくことにも繋がるわけです。
17才の母が、奈良に生母がいると、親戚から初めて聞かされて、急遽訪ねています。しかし、『帰ってほしい!』と言われて、母は生母の元を辞したのだそうです。17才の母には、それも実に辛い経験だったのでしょう。そう言った経験が、子たちを産むことによって報われ、私たちを精一杯育て上げてくれたことに繋がったのです。
(母の故郷の島根県出雲市の近くの里に咲く「有明菫(すみれ)」です)
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