明治は遠くになりにけり


 

十代の終わりだったと思いますが、父の会社に連れていかれた時、一人の方を紹介されて、挨拶したことがありました。父が、『桐野利秋のお孫さんの桐野さん。』と言ってでした。この桐野さんの祖父が、幕末の志士、薩摩藩士の桐野利秋でした。この方は、薩摩藩の藩士で、西郷隆盛、西郷従道、大久保利通と共に、幕末の政変の渦中で活躍された人物なのです。西郷、大久保に比べると、それほど有名ではありませんでしたが、「幕末」から明治初期を生きた一人でした。

父の会社の顧問に、「明治維新」に関わった人物の係累がいるということを聞いて、一遍に、幕末と明治を身近に感じるようになったのを覚えています。長州藩や土佐藩、そして薩摩藩の若手の侍が、日本の近代化のために立ち上がったのですから、この時期の出来事は、実に興味津々だったのです。

明治元年で、西郷隆盛は40才、大久保利通は38才、坂本龍馬は生きていれば32才、高杉晋作は生きていれば29才、木戸孝允は35才、桐野利秋は30才、幕府方の勝海舟は45才でした。若い世代が、日本の夜明けのために東奔西走して封建社会から、近代社会へと移行させたことになります。

明治10年に起こった、「西南戦争」の首謀者で、「人斬り半次郎(桐野の別名が中村半次郎です)」とか汚名を着せられますが、人を切ったのは、信州上田藩の赤松小三郎で、しかも藩命によるものだったそうです。もちろん「示現流」の剣の使い手で、幕末最強の侍だったのは事実です。きっと、後に面白おかしく記す小説に、そう描かれたものによるのでしょう。

明治維新政府の要職にあったのですが、西郷隆盛が官職を辞して、薩摩に戻る時に、桐野利秋も一緒に下野(げや)しています。故郷に戻った桐野は、鹿児島の農地の開墾のために鍬を握ったのです。そして「西南の役」が、明治10年に起こります。桐野が首謀者と言われていますが、歴史家は、1人であのようなことは起こり得ないのだと結論しています。西郷隆盛と共に、戦役で、40才で亡くなります。「賊軍の将」とされますが、大正五年に、復権されています。

男っぽい生き方をされた、まさに「古武士」のような人でした。私がお会いしたお孫さんの桐野さんは、椅子に掛けられた初老の紳士で、穏やかな方でした。

(鹿児島市の市花の「夾竹桃(キョウチクトウ)」です)

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