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一度訪ねてみたい街の一つが、「会津」です。栃木の友人宅にいました時、東武鉄道を利用したのです。特急に乗りますと、「会津若松」に行くことができたのです。その時は、行く機会があったのですが、足を延ばすじまいでした。。
この会津の「白虎隊」を歌った歌が、昔ありました。作詞が島田磬也、作曲が古賀政男で、1937年(昭和12年)に発表され、戦時下で、戦意高揚の歌だったのでしょう。
戦雲晦(くら)く 陽は落ちて
弧城に月の 影悲し
誰が吹く笛か 識らねども
今宵名残りの 白虎隊
紅顔可憐の 少年が
死をもて守る この保塞(とりで)
滝沢村の 血の雨に
濡らす白刃も 白虎隊
〜詩吟〜
南鶴ヶ城を望めば砲煙あがる
痛哭涙を飲んで且彷徨(ほうこう)す
宗社亡びぬ我が事おわる
十有九士屠腹して斃(たお)る
飯盛山の 山頂(いただき)に
秋吹く風は 寒けれど
忠烈今も 香に残す
花も会津の 白虎隊
花も会津の 白虎隊
戊辰戦役(ぼしんせんえき)で、官軍の攻撃に、鶴ヶ城を死守していたのが「白虎隊」でした。藩黌(はんこう)の「日新館」で学んでいた少年たちが、『これまで!』と、飯盛山で自刃したのです(16〜17歳の紅顔の19人の美少年たちでした)。1868年、慶応4年、明治元年の夏のことでした。「潔い死」と言われるよりも、「白旗」を掲げて、父や母や弟妹のために、恥を忍んで生き残って、その使命を果たす責務が、彼らにはあったのです。
「死の美化」をするには、あまりにも悲し過ぎます。太平洋戦争末期、多くの青年たちが、死んで行かれました。やがて終わる戦争なのですから、日本の復興のために生き残って欲しかったのです。私の級友たちの、父を慕う思いが、今も蘇ってきます。「生き恥」などが、再び、叫ばれることのないことを心に念じます。
(会津若松市の市花の「あおい」です)
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