スポーツの世界でも、文学や芸術の世界でも、医学などの自然科学の世界でも、《ニッポン女子》の勢いがすごいですね。元気で、溌剌として、世界に伍して活躍しているのに驚かされます。「女三界に家なし」とか「三従」とか、男の陰で抑圧されて来た、東アジアの世界で、最近の活躍が目立ちます。
父と母を見ていて、結局は、強がりを見せていた父よりも、何時も『はい!』と父に従っていた母の方が、肝が座っていて、何が起こっても動じないで、冷静に全体を見ていた様に思うのです。母は、幼い日に<メソメソ>を十分にしたからでしょうか、子育てしていた頃に<メソメソ>しているのを見たことがありませんでした。
家事を終え、夜遅くに終い風呂に入って、床につき、朝一番に起きて、朝食の支度をする、これを毎日毎日繰り返していて、文句ひとつ言いませんでした。家族を送り出した後に、自分の時間があって、それを楽しんでいたのでしょうか。子どもたちが大きくなってから、週一で、中央線に乗って新宿に行き、街歩きや買い物をしてくるのが楽しみだったそうです。”高野フルーツパーラー“か、“デパート”の食堂街で、何か食べるのみ楽しみだったのでしょうか。そんな息抜きの芸当のできる女(ひと)ではなかったのです。
<女々しさ>のない母だったのです。でも、けっこうみんなのいない所と時間に、泣いたこともあったのかも知れません。十代で、カナダ人の家族との出会いがあって、その頃から「本」を読む様になって、歌ったり、人のことを思ったりする習慣が、身についていた様です。よく、食事の後片付けをしてから、駅裏にあった家での「読書会」に出掛けて行っていました。
「しっかり者」でした。縫い物も料理も器用だったので、料理研究を自分でして、色々と考えながら、男五人の食事を作ってくれていました。ちらし寿司、カタ焼きそば、ハンバーグ、カレーライスなどは絶品でした。母の幼友達が、『お転婆で、今市小町だったのよ!』と、子どもの頃の母のことを教えてくれたことがありました。
お転婆仲間の幼馴染がいて、満州にご主人と出掛けて、その後、行方知らずになったのだそうです。母を思い出すと、今日日の《ニッポン女子》の活躍が頷けられるのです。恥ずかしがらず、衒(てら)わず、自分の境遇に抗(あらが)わずに、今の責任に生きていた古い女子だったのです。そんな岡さんたちに育てられた世代が、私たちでしょうか。もちろんナイロン・ストッキングの強さも聞いています。
(アジア大会の女子サッカー、なでしこジャパンの横山選手のシュートです)
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