水害

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もう半世紀以上も前に学んだ「地理」に、造山活動や造陸活動という項目がありました。今でも、そんなことを教えられているのでしょうか。火山活動や洪水が繰り返されて、地球が造形されてきたという学びです。関東平野は、そこに流れ込む、渡良瀬川や利根川や多摩川や荒川などの主要河川が氾濫し、土砂を押し流して堆積して造られたのです。荒れ狂う様な濁流が唸り声を上げていたのでしょうか。

今回の西日本の豪雨の災害で、そんな様子を思い起こさせる様な動画を見て、思い出したのです。母から聞かされた「創造物語」の中にある、「ノアの方舟」の時代は、雨が40日40夜、降り続けたとありました。地球の水門が全て開かれ、地球を水が覆ったとあります。どんな光景だったのでしょうか。

中国の貴州自治区や河南省などの周辺に住む、"ミャオ族(苗族/実際は<モン族>で苗族は漢人による蔑称だと言われています)"には、昔から口承で語り継がれた物語の中に、この「ノアの方舟」に似た話が残されています。祭礼の時などに、歌ったり舞ったりしながら表現されているそうです。アルメニヤにあるアララト山には、氷河の中に埋没された巨大な木造の個体があると、旧ソ連の飛行士が見つけたとの報告を聞いたことがあります。

今年の雨季、始まったばかりの台風シーズンの雨の降り様を見て、また岡山県倉敷市真備町の洪水の様子の写真を見て、さらに世界中で起こっている暴雨による洪水、水害の頻発に、あの全地を覆った洪水が再び起こるのではないかと思わされてなりません。父が最後に住んだ家が、多摩川の流れの近くにありました。大雨に後に、その濁流に中に身を任せて、無謀にも泳いだことがありました。命知らず、怖いもの知らずでした。

東日本大震災の時に、仙台平野を流れる川が、津波が遡上していく様子を、テレビで観ました。家も車も家畜も畑も人も、みんな飲み込んで行ったのです。ただ息を飲みながら、首を横に降りながら無言で眺めていました。何が起こっているのか、上空からの中継では、鳥瞰的に分かるのに、地上にいた運転手や人は、ご自分のいる位置が分からない様子でした。

先日、雨後に、田舎道を走る車に乗せていただきながら、車の中から、「虹」が見えました。水で滅ぼさないという、《契約のしるし》なのです。運転されていた友人が、この「虹」をスマホで撮影していて、ハラハラの連続でした。倉敷や呉では、酷暑の中、復旧作業が続いていて、空を仰いで「虹」を探すゆとりはなさそうですね。早期の復旧を願っております。

(アララト山に着いたノアの箱舟<Simone de Myle、1570年>です)

スマホ




わが家の南側のベランダ越しに、この小区の通り道があります。日曜日の夕方、お母さんと小一くらいの男の子が、正門の出口の方に通って行きました。男の子は、手提げ鞄を、つまらなそうに振りながら、お母さんの後ろを、1mほどでついて行きます。お母さんは何をしてるかと言うと、右手に“スマホ”をかざして見ながら行くのです。こう言った光景が、この街で頻繁に見られます。

私の子ども頃のには、割烹着(かっぽうぎ)を着た母が、竹製の買い物カゴを左手にして、私の左手を、右手で取って、連れ歩いてくれていました。何か話しかけたりしながらです。何時も、「母業」に集中していたのだと思います。勤めに出ている婦人たちの様に、お化粧だってしたいし、好い服や靴を身につけたかったでしょう。でもそう言った願いは引っ込めていたの様です。朝一番に起きて、朝餉(あさげ)の支度をし、食べ物だって残り物を食べ、家の片付け終えて、終い湯に入り、最後に布団に入っていました。
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危なっかしいのは、乳母車を押しながら、スマホに見入っているお母さんがいることです。辺りに目を配って、危険を避け、わが子を保護しなければならないのに、そう言った注意を怠っていることです。年寄りと小さな子供を除いた大人の、6、7割は、”スマホ中毒“に罹っているのではないでしょうか。若者は、9割方でしょうか。

そんなに情報収集が必要なのでしょうか。ゲームが面白いのでしょうか。まるで独りの世界に入り込んでしまって、会話が少なくなって来ているのを感じます。友達同士、恋人同士、親子でも、双方がスマホに見入っていて、相手に関心を示さないのです。

昔、幻を見た人がいました。みんなが四角い箱に集中しているのを見たのです。やがて“テレビ”が出て来ました。そして、“PC”、そして今や“スマホ”で、みんな四角な箱状の物を見入っているではありませんか。見た幻は、見事に的中していたわけです。人生って短いのです。家内の母親が、『”こんちは“と言ったら、もう“さようなら”を言う様な短さです!』と、自分の来し方を振り返って、そう言っていました。

スパーマーケットの授業員も、手持ち無沙汰のついでに、“スマホ”を見ていますし、時々ですが、バスに運転手だって、虜(とりこ)にされているのです。この街だけのことではなく、世界中が、こう言った傾向になっています。 “命みじかし 恋せよ乙女 紅き唇さめぬ間に”と歌ったことがありますが、「恋」はともかく、《すべき事》が、集中すべき務めが他にあるに違いありません。あのお母さんと息子は、どんな関係を築こうとしているのか心配になってしまいました。

(夏に何度か訪ねた上高地の「河童橋」、「つゆくさ」の割烹着です)

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