スマホ




わが家の南側のベランダ越しに、この小区の通り道があります。日曜日の夕方、お母さんと小一くらいの男の子が、正門の出口の方に通って行きました。男の子は、手提げ鞄を、つまらなそうに振りながら、お母さんの後ろを、1mほどでついて行きます。お母さんは何をしてるかと言うと、右手に“スマホ”をかざして見ながら行くのです。こう言った光景が、この街で頻繁に見られます。

私の子ども頃のには、割烹着(かっぽうぎ)を着た母が、竹製の買い物カゴを左手にして、私の左手を、右手で取って、連れ歩いてくれていました。何か話しかけたりしながらです。何時も、「母業」に集中していたのだと思います。勤めに出ている婦人たちの様に、お化粧だってしたいし、好い服や靴を身につけたかったでしょう。でもそう言った願いは引っ込めていたの様です。朝一番に起きて、朝餉(あさげ)の支度をし、食べ物だって残り物を食べ、家の片付け終えて、終い湯に入り、最後に布団に入っていました。
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危なっかしいのは、乳母車を押しながら、スマホに見入っているお母さんがいることです。辺りに目を配って、危険を避け、わが子を保護しなければならないのに、そう言った注意を怠っていることです。年寄りと小さな子供を除いた大人の、6、7割は、”スマホ中毒“に罹っているのではないでしょうか。若者は、9割方でしょうか。

そんなに情報収集が必要なのでしょうか。ゲームが面白いのでしょうか。まるで独りの世界に入り込んでしまって、会話が少なくなって来ているのを感じます。友達同士、恋人同士、親子でも、双方がスマホに見入っていて、相手に関心を示さないのです。

昔、幻を見た人がいました。みんなが四角い箱に集中しているのを見たのです。やがて“テレビ”が出て来ました。そして、“PC”、そして今や“スマホ”で、みんな四角な箱状の物を見入っているではありませんか。見た幻は、見事に的中していたわけです。人生って短いのです。家内の母親が、『”こんちは“と言ったら、もう“さようなら”を言う様な短さです!』と、自分の来し方を振り返って、そう言っていました。

スパーマーケットの授業員も、手持ち無沙汰のついでに、“スマホ”を見ていますし、時々ですが、バスに運転手だって、虜(とりこ)にされているのです。この街だけのことではなく、世界中が、こう言った傾向になっています。 “命みじかし 恋せよ乙女 紅き唇さめぬ間に”と歌ったことがありますが、「恋」はともかく、《すべき事》が、集中すべき務めが他にあるに違いありません。あのお母さんと息子は、どんな関係を築こうとしているのか心配になってしまいました。

(夏に何度か訪ねた上高地の「河童橋」、「つゆくさ」の割烹着です)

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