.
.
小学校に入学するために、三男の私に、東京の日本橋の百貨店の三越で、帽子と編み上げの靴、上下の小学生服にワイシャツと靴下、ランドセルに下穿きと下穿き入れを、採寸して、父は注文してくれました。昭和二十年代の半ばのことでした。私が入学を予定していたのは、中部山岳の山の中の村立小学校でした。村長の息子も、そんな入学準備をされなかったのにです。
父の私への期待は、上の二人の兄以上であって、兄たちにはしなかったことを、私にはしてくれたのです。普通、長男と末っ子には、親は特別扱いをするのに、私の父は、『また男の子か!』の三男の私に、特別な寵愛を示してくれたのです。もちろん終戦間近に入学した上の兄たちには、物資不足の時代的な背景があったのですから、そうすることができなかったのですが。それでも、兄たちと弟は、公立中学で学んだのですが、私だけを、父は私立の中学に入学させたのです。
ところが、入学前に、肺炎に罹ってしまった私は、街の国立病院に入院しなければならないほど重篤な病状でした。死ぬか生きるかを通って、村立小学校の入学式の日には、父の用意してくれた、その制服を着て出ることができませんでした。それで退院した後に、街から写真屋さんを呼んで、きっちりと父の用意してくれた物を身につけて、記念写真を撮ってくれたので、その写真だけが残っています。
父の果たせなかった夢を、きっと三男の私に託したかったのだと思います。有名大学で学んで、有名企業に務めるか、官僚にでもなるか、『末は博士か大臣か!』、そうであって欲しかったのかも知れません。そんな父の期待を知ってか知らないでか、一つ一つと、裏切ってしまう私でした。三流大学に入学し、名のない研究所に、私は就職してしまったのです。それでも、その研究所の所長が、有名大学の教授だったことを知った父は、私を連れて、この所長に挨拶に行ってくれたのです。
まだ父は、私に期待していたのでしょう。その所長の肝入りで、ある高校の教師として送り出してくれたのです。将来は、その所長が務めていた大学に招聘され、講義を担当させるつもりでした。しかし、その学校に二年いて、私は、不義理にも、一身上の都合で退職してしまったのです。そして、アメリカ人起業家の手伝いを始めたのです。それには生活保証も、将来の保証もありませんでした。
でも、私は、そうして得た仕事を《天職》だと確信して、34年間働き、退職したのです。そして全てを整理して、中国にやって来たのです。そうしましたら知人の紹介で、大学の日本語科の教師をさせて頂くようになったのです。教授にも、博士にもなれませんでしたが、外国人講師として、全く考えも思いもしなかった国で、あの教壇に立つことができたわけです。もし父が生きていて、私のその後を知ったら、喜んでくれたかも知れません。
自分に、何か能力があったのでもなく、ただ、素晴らしい人との多くの《出会い》によって、《扉》が開いて今日も、中国の片隅の街の中で、お手伝いをさせて頂いて、家内と生活することができているのです。これは自分の計画以上のことに違いありません。好き人生を生きて来たのだと、今は 思っています。もう何年、こうして居られるでしょうか。
.