愛称

.

.
人や物などに「愛称」があります。あまり流行らなかった自分のニックネームは、<じゅん坊>でした。映画俳優のジェームス・ディーンを「ジミー」、夏目漱石の作品の「坊ちゃん」や「赤シャツ」、これは改名かも知れませんが旭川野球場を「スタルヒン記念球場」、鎌倉と江ノ島との間を走る鉄道を「エノデン」、今では一路線になってしまった東京の路面電車を「トデン(以前は<シデン>)」など、「渾名(あだな/仇名)」、「通称」などで呼ばれる人・物・事が多くあります。

アメリカのモンタナ州に行った事がありますが、そこは" Big Sky Country "、空が広がり、美しいから、そう呼ばれているのを聞いて好いなと思いました。ちなみに私の長女が住んでいるニュージャージーは"The Garden State"、ニューヨークなどの東海岸の大都市に、野菜や果物や花などを出荷するので、そう呼ばれています。次女のいるオレゴン州は"Beaver State"、川に生息するビーバーにちなんで、そう呼ばれています。

ところが日本の県にもニックネームがあるのだそうです。長野県は、2年前から"宇宙県"とPRしている様です。寒い季節には訪ねる事がありませんでしたが、夏に訪れた信州は星が綺麗な高原で、県自身が内陸の高地に位置しています。東京大学の天文台など天文研究施設も多く、県は「宇宙に一番近い」と売り込んでいるそうです。その影響でしょうか、鳥取県は、去年あたりから"星取県"で売り出しているのです。県下の町村は、空が綺麗で澄んでいるので、「天の川」が好く見えるのだそうです。それで夜空を綺麗に守るための県条例を決めているとか。

こう言った風に、都道府県や市町村が、自分の住む場所の特徴をアピールして、もっと親しまれる街作りをして欲しいものです。日本中には、「小京都」と呼ばれ、京の都の風情を残す街が、結構多くあります。最近中国からの観光客は、物を買うためだけではなく、日本の伝統や文化に関心を向けているそうです。とくに福岡県朝倉市が注目されていて、<筑前の小京都>と言われる、"秋月藩"の城下町を、多くの中国のみなさんが訪ねている様です。

関東には「小江戸」などと呼ばれ続けてきた街も幾つかある様で、<古き良き日本>を、もっと大事にして残して行きたいものです。コンクリートや鉄筋の硬さよりも、木草、藁、紙、土の柔らかで温もりのある素材や材質で作られた日本を残して欲しいのです 。日本文化が作り上げられている特徴が、そう言った物だからです。.

私の住んでいる街は、何年も前から「有福之州」と言う名で呼んでいます。パンフレットにも、空港や駅や高速道路沿いの看板などにも、そう掲げられています。和やかで穏やかで柔らかなものを、人は誰もが求めているからなのでしょう。『もう"ハード"なものは十分!』と思うからでしょうか。

(富士山を背に走る「江の島電鉄」の電車です)
.

喜び

..

「干支(えと)」とは、"ウイキペディアによりますと、『中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。起源は商(殷)代の中国に遡る。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。』とあります。

よく聞いたのが、父が徴兵検査で、《甲種合格(こうしゅごうかく)》だったと言う<甲>で、一番を意味していたことでした。その後に<乙(おつ)>、<丙(へい)>、<丁(てい)>と続き、十段階があります。自分の生まれ年が、「申年(さるどし)」だと言うことで「猿」で、弟は「戌年(いぬ)」で「犬」なのだそうです。自分が猿に似ているなどとは一度も思ったこともありませんので、全くという程、意識しないで生きてきました。

「人」は、「人」として生まれ、生きているのであって、微量の物質が、偶然の積み重ねで変化し進化して「人」となった、と学校で教わりましたが、私のこの単純な頭でも、それは納得できないでおります。この町の北にも動物園があり、猿が檻の中にいます。よく見ますが、これが自分の祖先であるのだなどと思うことなどありません。はるかに緻密で高等な自分を、猿と同列に置く事ができないのです。科学者の頭の中の「仮説」によって、人の成り立ちの答えを、そう出しているのです。

そんな事で、私たちには四人の子ども、四人の孫があるのですが、彼らの生まれた年の「干支」を知らないのです。こちらにきて、学生のみなさんも、自分が、<何年生まれ>だとか言っているのを聞いた事がありません。日本人の様な拘りが、みなさんにはない様に 感じています。

長く住んだ町に隣人の長男が、『息子は、<◯◯年の虎>なので、気性が荒くて、嫁の来てがない!』と言っていたのを聞いた事があります。易や暦で、自分の息子の運勢を占って、一喜一憂する人生など、したくないものだと思ったのです。お父さんからもお母さんからも、双方から、その事を聞いたのです。自分の息子の問題を、生まれた年のせいにしてしまうのは、勿体無いなと思った次第です。

そんな事にとらわれずに、生かされてきた事を顧み、三百六十五日を、感謝と反省と、そして喜びで生きて行きたいものです。新しい日を喜んで迎え、その一日を感謝で終えたら、生きる意味が増してくるのです。そして、また迎える日に期待しながら、床に着くのが好のです。

(江戸の町の「たこあげ」の風景です)

.

.

.
正月の三日間を「三が日」と言います。ある方は、講演内容を三点にまとめて話す"3poits messege" 、夜空を見上げて見る刃物のような「三日月」、興味津々でし始めるのですが飽きっぽい 「三日坊主」、辛抱強く事をし続けるのを「石の上にも三年」、信長を討ったのはよかったのですが明智光秀の「三日天下」、人を慕わしく待ち続ける「一日三秋」、そんな「三」にまつわる言葉や諺が結構多いのです。

教育界で言われてきたのが、幼い頃の性格は、年をとっても変わらないということで、幼児期に受けた感化が一生にわたるのだと言う「三つ子の魂百までも」があります。また、教えを乞う先生と横に並んで歩くことなど失礼千万、その敬意を、三尺ほど下がって付き従う姿勢を表す「三尺下がって師の影を踏まず」です。中国の社会では、教育者は絶対的な尊敬を受けています。その証拠に「教師節」という日が定めれれていて、先生に感謝を示すのです。

ここ中国で有名なのは、『中国の三国時代、蜀の劉備が無位無冠の諸葛孔明を軍事として迎えるために、礼を尽くしてその草庵を三度も訪ねたという故事に基づく』礼を尽くす事を言う「三顧の礼 (さんこのれい)」でしょうか。日本人は、中国から 「礼」も学んで、それを実行してきています。中学に入った当初、上級生には敬意を表すために脱帽し、『おはようございます!』、『ありがとうございました!』、『さようなら!』』と言って頭を下げて礼をしていました。

あの有名な儒家の孟子の家族は、初めに「墓場」の近くに住んでいました。それで子の孟子は<葬式遊び>をしてばかりいるので「市場」の近くに引っ越します。すると、孟子は<商いの遊び>ばかりし始めます。住んでいる環境に息子が影響されやすい事を知ったお母さんは、今度は「学校」の近くに引っ越したのです。そうすると孟子は<礼儀作法の真似ごと>をするようになり、その地にで育てることにした「孟母三遷の教え」があります。

中国語を学んでいた時に、「故事成語」の授業があって、そこで学んだのが、法令や決まりをめまぐるしく変える「朝三暮四」でした。『宋の国に狙公という人がいた。猿を可愛がって群れをなすほど養っていた。サルの気持ちを理解することができ、猿も同様に主人の心をつかんでいた。自分の家族の食べ物を減らしてまで、猿の食欲を充たしていた。ところが急に貧しくなったので、猿に与える餌の茅(どんぐり)を減らすことにした。猿たちが自分になつかなくなってしまうのではないかと心配したので、まず猿たちを誑(たぶら)かして言った。「お前たちにどんぐりをやるのに、朝は三つで暮は四つにする。足りるか」すると猿たちは皆起ち上がって怒りだした。そこで狙公は急に言い変えて、「それじゃ、朝は四つで暮は三つにしよう。足りるか」と言うと、猿たちは皆平伏して喜んだ。』という話からの成語です。

女性の行動を表した「女三人寄れば姦(かしま)しい」など、日本も中国も「三」で纏(まと)めたり、括(くく)ったりするのが好きなのでしょうか。「三強」、「三哲」、「三景」とか、「三大◯◯」と言うのです。そういえば表彰台も、大体が「三台」です。一度、登壇してみたいなと思いながら生きてきましたが、叶えられずじまいです。もう今年も、三日が過ぎてしまい、今日は、普段の日に戻っているのでほっとしています。

(AIRDOによる世界三大夕日の「釧路港」です)
.

カウボーイ

.

.
テレビ映画が全盛期だったのは、中学生の頃でした。とくに、アメリカ物で、日本語に吹き替えた番組には、字幕を読まないで好いので、物語に入り込める様に感じて、まるで、西部の草原を牛を追ってる"カウボーイ"になってるような気持ちになって、見入っていたのです。自分が日本人であり、東京に住んでいるのを忘れて、アメリカの西部の草原や砂漠にいる様に、忘我の心境だったでしょうか。

「ララミー牧場」とか「ボナンザ」とか、「ローハイド(Rawhide)」、カウボーイではなかったのですが、<賞金稼ぎ>が主人公で、街から街へ、犯人を追って行く活劇の「拳銃無宿」などは、勉強どころではなく、朝から、夜のテレビの放映時間が楽しみでした。 その頃、母が、よく作ってくれたおかずが、「ハンバーグ」でした。肉屋で、牛肉をミンチにひいてもらって、それに微塵切り(みじんぎり)にした玉ねぎと人参を加え、パン粉と卵と調味料で練り込んだ具で、厚みのある小判の様な形に手で作り、フライパンで焼いて、トマトやキュウリやブロッコリーなどの西洋野菜をつけたり、時には、ポテトサラダを添えたりしてくれました。

カウボーイたちは、一日の仕事を終え、野営し、料理番が食事をこしらえるのです。牛肉、ポテト、豆、スープ、固いパンが、夕食に出されて車座に座って食べていたのです。これは「ローハイド」に、よく出てきた場面です。そうすると、私は、母手作りのハンバーグを、お皿の上で、形を崩して、ご飯と混ぜて、フォークで食べると、その車座の中に自分も座って、一緒に食べてる様な気持ちになったのです。ですから、私の"カウボーイ料理"、"アメリカ料理”は、形を崩したハンバーグとご飯の混ざった物でよかったのです。ドイツのハンブルグで作られた物なのに、いいんです、私の思い入れにある食べ物なのですから。

この「ローハイド」のカウボーイの隊長の名が、"ギル・フェイバー"でした。3000頭もの牛を、テキサスからミズーリーまで陸路を運ぶのです。補佐役が、若かった日のクリントン・イーストウッドの演じた"ロディー"で、彼が忠実に仕えていたのが印象的でした。面白かったのは、カウボーイ仲間が、隊長を呼び捨てすると、ロディーが、『フェイバーさんだろ!』と、"Mr(ミスター)"と言い直させる、ちょっと<日本的>な下りが、中学生の私には面白かったのです。

体育教官室の前を通って、体育館での授業に、私は行こうとしてました。『大◯は・・・』と、<先生抜き>で大声で言って通ったのを、大◯が聞いていたのです。授業が始まると、開口一番、顔を赤く激して『準、出て来い!』と言うのです。『一対一で勝負しよう!」と言うのです。バスケットボールの勝負でした。どちらが勝ったと思いますか、私でした。 この大◯先生には、好い意味で可愛がられたのです。同じ中高の先輩でした。私が高校に入った時に、県庁の職員になり、退職してしまったのです。この方は、<先輩>でしたから、<さん>呼びしてました。

結構、西部劇も、《従順》とか《リーダーシップ》とか《仲間意識を強める事》とかが学べたのを思い出します。ただの娯楽番組ではなかったので、随分と人気があったのでしょう。風呂好きの私は、カウボーイが、水場を認めて移動していき、水が貴重で、ほとんど風呂に入らない様でしたので、アメリカに行って、"カウボーイ"になりたいとは思いませんでした。でも彼らの生活ぶりは、よく分っているつもりです、はい。でも、私の""カウボーイ料理"には、味噌汁と沢庵とラッキョがついてたので、"メイド・イン・ジャパン"だったのは笑えますね。

(1887年に撮影された本物の「カイボーイ(牛追い人)」です)
.

平和

.

.
大晦日、映画を観ました。台湾から来て、この街で働いておられるご婦人が、『とても好い映画があるから観たいらいいですよ!』と、一緒に、「日本蕎麦」と「台湾風うどん」の"ダブル麺"の「年越し蕎麦」で、 夕食を一緒にした後に、iPadを操作して観られるようにしてくれたのです。

妹尾河童(せのおかっぱ)が、自分の自伝として書き上げた「少年H」を、2013年に映画化した作品でした。腕白(ヤンチャ)な小学生の主人公「肇(はじめ/Hajimeの<H>で<少年H>)」と妹、その両親が、戦争色が徐々に濃くなって、閉塞して行くような世相の神戸の街で過ごす様子が描かれています。

Hは絵が上手で、御多分に洩れず、戦時下の少年たちの憧れは、帝国海軍の「軍艦」で、それを描くところから映画が始まります。お父さんは、洋服の仕立てや寸法直しを生業(なりわい)にし、家族を養っています。お得意さんは、外人居留地の外人さんたちで、採寸にHを誘って、お父さんは出かけるのです。外人さんたちも、徐々に帰国して行き、お得意さんは減少して行きます。リトアニアで、杉浦千畝領事代理が発行した通過ビザで、敦賀に上陸したユダヤ人たちが、神戸で船の出航を持っている間、お父さんは、彼らの服の修理を無料でしていました

日本の社会が日支事変から太平洋戦争に拡大されていくのですが、穏やかなお父さんと仏教徒からの回心者の信仰深いお母さんとの信仰は、続けるのが難しくなる時代でもありました。でも両親とも、変節をせずに、信念を曲げずに、あの時代を生きたのです。反米色が強くなっていく社会の中で、アメリカ人の宣教師との関わり、帰国した彼らから絵葉書をもらったりしたことで、Hは、同級生から揶揄されたり、「ヤソ」と机に落書きされたりします。でも反撃せずに耐えたのです。

送られてきた絵葉書に印刷されていた、ニューヨークの”エンパイヤステイトビル"の大きさに度肝を抜かれ、そんなアメリカの凄さを友だちに話した事が、悪意にとられたことでいじめを受けたりします。そこには、<狭量な日本人の心>が描かれていたり、共産主義者への弾圧、しまいには、外国人をお得意さんとしていたお父さんは、スパイの嫌疑をかけられて、警察に拘留されて、拷問や殴打のめに遭ったりします。負け戦で、更に社会が窒息化し、猜疑心(さいぎしん)ばかりが大きくなっていくのです。

お父さんは、拷問を受けても、常に穏やかでした。それが物足りない息子でした。特高の警察官に放り投げられた時に、額から血を流すほどの怪我しても、お父さんは怒ったりしないで、常に冷静なのです。そういうお父さんを受け入れるのに、もがき、ながら、Hの心は揺れて行きます。更に戦時色、敗戦色が強まり、ついに神戸の街も、米軍機の投下する焼夷弾(しょういだん)の攻撃を受けて、焼け落ちてしまいます。

お父さんの<命>であるミシンを燃え盛る家から、お母さんと二人で持ち出すくだりが、<父思い>の少年だった事が印象的に描かれていました。終戦の詔勅(しょうちょく)で、戦争が終わった後、運び切れずに放置されていた、父愛用のミシンを、お父さんは瓦礫の中に見つけ出し、修理します。そして、使えるようにして、お父さんは、《やり直し宣言》をして、戦後を、ミシンを踏みながら、家族を養って生きて行くのです。

疎開先から帰ってきた妹が、大事に持ち帰ってきた米を炊いたご飯で、飢えた隣家の子どもたちに分けてしまう、そんなお母さんの行動に、Hは不満ですが、お父さんはそう言ったお母さんを誇っているように見えたのです。不自由な仲を、助け合う心を忘れなかった事は、お母さんの心の中に宿り、それを堅持してきた《潔さ(いさぎよさ)》が印象的でした。

1940年に、東京で開催予定のオリンピックが、戦争で開催不能になりました。しかし、戦後の復興の中、1964年にオリンピックが開催されました。そして、2020年、オリンピックが、再び東京で開催されようとしています。Hが少年期を過ごしたような時代が、また来るのでしょうか。

2018年の年頭に、ただ平和を願う思いで、心はいっぱいです。たとえ戦争が起きても、《心の平和》だけは持ち続けていたいと決心しております。『地に平和があるように!』

(平和を象徴する「ストック」です)
.