基点

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どこの国にも、「基点」となる中心地があるのでしょう。アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスに行きました時に、大統領府の近くに「オベリスク」と言われる塔を見上げたのです。それは「記念碑」の一つで、67mの高さがありました。その旅の帰途、家内の上の兄が長く暮らしているブラジルを訪ねました。その首都のサンパウロの中心地にも、「オベリスク」があって、「ここを起点に、ブラジル全土に、道路網が広がっているのです!」と聞きました。

そうしますと、ラテン系の国によく見られる、この「オベリスク」の日本版というのは、「日本橋」ではないでしょうか。「江戸五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道)」の基点で、明治維新以降は、日本の「道路元標」が置かれているからです。あの弥次さん喜多さんが東海道を歩いた、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の旅は、この「日本橋」が出発点でした。

1
お江戸日本橋七つ立ち 初上り
行列揃えて あれわいさのさ
こちや 高輪 夜明けの提灯消す
こちやえ こちやえ
2
恋の品川女郎衆に 袖ひかれ
のりかけお馬の鈴が森
こちや 大森細工の松茸を
3
六郷あたりで川崎の まんねんや
鶴と亀との米まんじゆう
こちや 神奈川いそいで保土ヶ谷へ
(以下省略)

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父の会社が、この日本橋にありました。何度か行きましたが、首都高速道路ができてからは、高架道路の下に隠されてしまいました。東京の町の最も大切にしなければならない場所であるのに、そんな風にせざるを得なかった「近代化」や「便利さ」というもには、文化や伝統や風情の保護の仇敵なのでしょう。曙を遮ってしまうコンクリートの橋脚は、弥次喜多の旅立ちには似合わないからです。そういえば、私の同級生が数人で、日本橋から京都まで、空手着に高下駄を履いて上洛したことがあったのを思い出しました。また、ブラジルに行きました時に、サンパウロの空港に迎えてくれた義兄も、人生の旅を終えて、祖国に帰ることなく、天のふるさとに帰って行ってしまいました。

(写真上は、ブエノスアイレスの「オベリスク」、下は「日本橋」の夜景です)

東京音頭

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「東京の市民が誰でも歌えるような歌を作ろう!」ということで、1933年に、元歌から、西条八十の作詞、中山晋平の作曲で作られたのが「東京音頭」でした。

ハア 踊り踊るなら
チョイト 東京音頭 ヨイヨイ
花の都の 花の都の真中で サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 花は上野よ
チョイト 柳は銀座 ヨイヨイ
月は隅田の 月は隅田の屋形船 サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア おらが丸の内
チョイト 東京の波止場 ヨイヨイ
雁と燕の 雁と燕の上り下り サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 西に富士ケ嶺
チョイト 東に筑波 ヨイヨイ
音頭とる子は 音頭とる子は真中に サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

ハア 昔ゃ武蔵野
チョイト 芒の都 ヨイヨイ
今はネオンの 今はネオンの灯の都 サテ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ
ヤートナ ソレ ヨイヨイヨイ

明るくて、リズミカルで、さらに日本伝統の民謡で、幼児から老人に至るまで歌えた、あの時代を反映した歌です。ある時、私の義母が、突然、この歌を歌い出したのです。少々痴呆症が出てきた頃だったでしょうか。手を打ちながら、歌い出したのです。ついぞ聞いたことのない歌と歌声に、家内も私も目を丸くして驚いてしまいました。青年期だったのでしょう、きっと懐かしく楽しい出来事があって、当時流行っていた、この歌の歌詞とメロディーと共に、記憶の中に組み込まれていたのでしょうか。ふと思い出して、唇から突いて出てきたに違いありません。

長生きして、子どもや孫たちが、「ジイジが変な歌を歌い始めたよ!」という<ボケ期>が、やがて来ることでしょう。健全な歌でしたら無害ですが、戯れ歌を歌っていた過去のある私ですから、自分の本性が露わにされてしまうのでしょうか。恥ずかしさは本人には、もうないのでしょうけど、子や孫には恥ずかしい思いはさせたくないものです。「ジイジはどう生きて来たのだろうか?」と訝しがる彼らの顔が見えてくるようです。まあ、そんなことにならないように、今を、きちんと生きていかなければなりません。そんな心配までするようになったことが、信じられません。年齢を重ねることにも、素晴らしいことがありますので、ご心配なく。

(写真は、地下鉄の「銀座駅」です)

都バス

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誇り高い、「ゴールデン免許所持者」となって、もう相当な年数になっています。実に名誉なことですが、ある人に言わせますと、「捕まらないだけのこと!」なのだそうです。日本を離れて、今夏で満八年、九月からは<九年>に入るのですが、この間、運転をしたのは、ほんのわずかな時間しかないのです。捕まるには運転時間を要しますから、ネズミ捕りにかかりようがないわけです。それで、優良運転者なわけです。先週も、レンタカーで出掛けることも考えたのですが、運転感覚を戻すためには、数日の慣らし運転をしなければならないのですから、首都圏や東名を走ったら、多くの運転手に迷惑をかけるにちがいありませんので、やめたのです。電車とバス、今日は病院まで奮発してタクシーに乗ってしまいました。さすがの私たちも、帰り道は、人民元換算の「50元」のタクシーを節約して、二人で「18元」の都営バスに乗り、そこからスーパーに寄って買い物をし、歩いて帰ってきたのです。

あれば便利、なくても大丈夫なのが都心で生活する者の強みなのでしょうか。バスにタクシー、地下鉄もJRも私鉄もあって、これで息子の自転車がありますから、自家用車など不要なのです。今夕は、都バスの運転席の左の一番前の一人席に座って、小学校の低学年の子どものように、また田舎者のようにじっと運転ぶりを観察していました。ハンドル操作、ブレーキの踏み方、カーブのスピード加減、両脇を走る車への気配り、右折時の対向車の通り過ぎるのを待っている様子、信号遵守、歩行者や自転車へのいたわり、どれ一つ取っても、素晴らしい運転技術でした。今更ながら驚かされてしまったのです。けっして苛立ったり、怒ったり短気を起こしたりしません。五十代でしょうか、職業運転手の在り方、生き方のモデルのようでした。自己を律して、感情を穏やかに保てるから、こう言った仕事を長年し続けられるのでしょう。自分は「失格だ!」と思ったのです。

私の住んでいる華南の街の公共バスの運転手のみなさんの運転テクニックは抜群に優れています。横から近付いてくる電動自転車を、ちょっとしたハンドルさばきで交わしてしまうのです。すんでのところ、衝突寸前数十センチほどで、急停車ができます。大ハンドルを使って前の車の前に出ることもしています。ところが乗客は、急ブレーキと急ハンドルで、前後左右に大きく振られ、揺すられて、踏ん張ったり、しがみついたり、家内などは横転しそうで、座ってるおじさんの膝の上に飛ばされて、ちょこんと座ったりなのです。上手ですが、みんなのことをあまり考えていません。私は、今日の夕方、あの都バスの運転手を観察していて、こう考えたのです。彼にお願いをして、「日本的運転技法講習会」の実演講師になってもらおうと真剣に考えたのです。

天津でバスに乗っていた時のことです。バス停かと思ったら、「包子」を売っている店の前にバズを止め、美味しくて贔屓なのでしょう、その「包子」を買いに行ってしまいました。乗客は、文句ひとつ言わないで、そんな彼を眺めていました。店から袋を下げ、ひとつを食べながら戻って来て、運転を再開したのです。「えっ、こんなのありなの?」と思ったことでした。「礼」を教えてもらった国の「礼」の回復のために、ぜひ開催したいものだと、東京の空の下で思っている一月末の夕べです。

(写真は、東京の「都バス」です)

あの時があって

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記憶の中には、「におい」もあるに違いありません。あの時の、あの場所の、あのにおいです。今回、訪ねた街に、電車から降り立った途端、自分の記憶の中にあるのと同じにおいを、「あっ、あの時の匂いだ!」と感じたのです。駅の横にあった食堂からでも、ガソリンスタンドや、喫茶店からのにおいではありませんでした。

1970年に、初めて、この地域を訪ねたのです。同じ一月だったでしょうか、研修会が開かれて、参加したのです。ニューヨークの会社から講師を迎えて、持たれたものでした。「遠江(とおとうみ)」と呼ばれてきた静岡県西部の街です。遠州灘から吹いてくる潮風、真っ青に澄み切った空、まっ帰路に熟したみかん、お茶の香が何となくしてくる街で、四日間ほど一緒に寝泊まりをして学んだり、話し合ったりしました。

当時は、公民館や結婚式場などを借りて、セミナーが持たれていました。経費を節約しなければならなかった中小企業だったからです。それはそれなりに、懐かしく、しかも充実し、習得したことも驚くほどのものがあったのです。あの時の講師は、東南アジアやアフリカの支社にも出かけて、同じようなセミナーを持っていたようです。ボクサーの過去を持った異色のビジネスマンだったのです。あの頃の情景が、においと共によみがえってきたのです。

若かった私たちは、夢を語り合ったり、将来を自分の心中に思い描いたり、結婚や家庭などと言った個人的なことにも思いを向けていたのです。四十数年も前のことですが、あの時があって今があるのだということが分かります。先週末、その頃の同僚の家を訪ねたわけです。「朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや!」とは、「論語」にある一節だったでしょうか。孔子も、友を歓迎し、友と語らうことを楽しんだのです。彼と夫人も、私たちの来訪を喜んでくださったのです。こんな嬉しいことはありません。生きているって素晴らしいことですね!

(写真は、「温州みかん」です)

旧交を温めて

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静岡県の西に、掛川と新所原を結ぶ、第三セクターの「天竜浜名湖鉄道」があります。かつては、浜名湖の北側を通る旧国鉄のローカル線でした。この土曜日に、家内と二人で、品川から新幹線の「こだま」に乗車して、掛川で降りました。そこから、この路線の電車(ジーゼル車だったでしょうか)に乗り継いで「天竜二俣駅」まで、電車の旅をしたのです。以前の旅は、車でしかしませんでしたが、今は、電車やバス利用になっております。

一両編成で、土曜日の午後でしたから、クラブ活動帰りの学生や小さな子ども連れのお母さんが前の席に座っていました。家内は、自分の孫を見るように、目尻を下げて、三人の男の子のすることを見ていました。一番下はヨチヨチ歩き、次男は幼稚園児、上の子は小四くらいだったでしょうか、若いお母さんは、怒鳴ることもキリキリすることもなく、たんたんと世話をしていたのです。次男の行動は、「やっぱり、」で一番面白かったのです。

ここに、古くからの友人夫妻がいて訪ねたわけです。<旧交を温めた>ということになるでしょうか。彼の家に泊めて頂くつもりでしたが、久しぶりに帰国した私たちにと言うことからでしょうか、隣町にある、森林公園の中にある宿泊施設に泊めて頂いたのです。静かで景観がよい宿で、ゆっくりと旅の衣を解くことができました。翌日の昨日は、彼らの友人たちとも交わることができたのです。二十代に出会ったのですから、ずいぶんと長い交流になります。お互いに、髪の毛は白くなって外貌は変わっていますが、生き方や情熱や目の清さは変わらないでいたのです。さざ波のように懐かしさがこみ上げてまいりました。お昼には、息子がお世話になった方の奥様の手作りの「麻婆豆腐」をご馳走になり、この地域で有名なお茶や羊羹や源氏パイなどのお土産を頂いてしまいました。

この方たちもアメリカ人の企業家と一緒に働いてきたのです。その企業家は、私が一緒に働いた方の親しい友人の一人だったのです。そういうことから出会って、よく行き来してきたわけです。もう、私たちを世話してくれた方たちは、召されててしまいましたが、このことも、また懐かしい思い出話に、花を添えてくれるわけです。訪ねたのは、諏訪湖から流れ下る天竜川が二俣になっている地形に位置している街ですが、ついでくださった緑茶を飲み、みかんを食べますと、そう言った出会いや交わりをした日々が、昨日のことのように思い出されてきました。日本が近代化し豊かになって、家並みも道路も綺麗になってしまい、古い日本の佇まいを見ることができなくなって、ずいぶんと寂しい思いをするのですが、旧友に再会して、その心が変わっていないこを知ることは、大きな慰めでした。

昨日の夕方、掛川の駅まで車で送って頂きました。道道四人で、それぞれの今を語らいながら、これからを覚え合えることは、嬉しいことと感謝した次第です。彼の事務所の玄関には、奥様が生けられた「ロウバイ(蝋梅)」の香りが満ちて、私たちの訪問を歓迎されているようでしたが、その残り香が、車内に漂っているかのようでした。駅頭で、奥様と家内はハグを交わし、彼と私は握手して再会を願い合いました。

(写真は、「蝋梅」の花です)

靴音

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今回の帰国の目的の一つは、家内の病院での診察にための通院でもあります。この数日、家内の贔屓の病院、広尾にある日赤医療センターに通院のお供をしております。何度も大怪我で入院したり、リハビリでの通院の私のお供をしてくれた家内のために、謝礼の気持ちで、手を取って同伴しております。数年前に、救急搬送してもらった板橋の病院で、胆嚢摘出手術をした彼女の術後の診察や、「緑内障の疑いがあります!」と、駅ビルで診断された再診察、中国の市立病院に入院中に、医師に言われた脳神経科系の診察のためです。軽い風邪ひきの他は、4回の出産入院しか病院や病気との関わりしかなかった家内ですが、念のための診察に出かけております。「病院ずくめ」のこの頃です。

昨日は、脳神経外科と眼科にまいりました。眼科では、「緑内障の疑いはありません!」との診断でした。最近では、一人の医者の診断だけでなく、<セカンドオピニオン>を聞くことが勧められていますので、良い結果を得られて安心したようです。彼女の診察のために、廊下の椅子に座って、二時間半ほど待ちました。時をあがなうために、ノートとペンを持参しましたので、依頼されている講演の原稿書きをしていました。結構充実した時間だったのです。私の前を、医者や看護婦、医療検査や事務の職員、掃除をされる方、患者と付き添いの家族など、ひっきりなしに右左に行き来していました。歩き方や靴音が、実に個性的で様々なのを、今更のように興味津々に感じたのです。

「自分は、どんな靴音を立てながら歩いているのだろうか?」と気になり始めたのです。すぐに立って歩いてみようと思いましたが、家内が診察を終えて出てきましたので、会計までの廊下を、自分の靴音に聞き耳を立ててみたのです。忍者のような忍び足だと思って期待したのですが、履き古した靴音が、結構高かったのは意外でした。椅子に座っている方には、きっとそう聞こえていたのでしょうか。

ずいぶんと長く歩いて来ました。「這えば立て、立てば歩め!」と両親に期待され、激励されて歩き始めて、昨日は病院の廊下を歩いている自分が、何と無く不思議な感覚に捉えられていました。意気揚々と小躍りしながら、また意気消沈しながら歩いた日があります。父に叱られて家を追い出されて、寝ぐらを探し歩いたこともありました。そういえば、母を背負って通院のお供もして歩いたことだって思い出されます。これから、どれほどを歩数を積み重ねるのでしょうか。

今日は、家内と一緒に、何度もお邪魔した静岡の友人のところに行くことにしています。東海道をテクテクと「草鞋ばき」で歩いて行けたら面白いのですが、二十一世紀の私は、娘に買ってもらったお気に入りの靴を履いて、新幹線の「こだま」に、品川から乗る予定でおります。夕方までに着くつもりですが、車中で駅弁を食べてみようと思っているところです。そんなことを思っていたら、煙をはきながらせわしなく車輪を回していた蒸気機関車の「ポッポー!」の音が聞こえてきそうな、朝ぼらけの床の中であります。

(写真は、「草鞋(わらじ)」です)

大寒

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あれこれと考えた末、『蕎麦を食べたい!』ということになって、長女と次男と四人で、お昼に出かけました。大通りからちょっと奥まった路地裏に、「生蕎麦」と染めた暖簾(のれん)のかかった店がありました。路地に入ったとたん、あの出し汁の醤油の匂いが、立ち込めていて、そこはかとなく懐かしさを感じたのです。『お母さんは?』、『お父さんは?』、『けいちゃんは?』で、天ぷらそば、うどんすき、カツ丼、おごってくれる長女は、うな重とかき揚げそばを注文したのです。うな重はみんなで一味づつとのことでした。

『雅、蕎麦を喰いに行こう!』と、よく父に誘われたり、電話のない頃には、自転車にまたがって店に注文しに行かされました。駅前と、逆方向の坂を登りつめた都営住宅の前とに、二軒あったのです。父が好きだったのが、「カレー南蛮」でした。『ボクはザル!』、『俺は卵とじ!』と母以外、我々四人兄弟が口々に食べたいもにを言っていたでしょうか。決まって母は、『何でもいいわ!』でした。まだ時間の流れが<のたり>としていた時代の、子どもの頃が懐かしく思い出されてしまいました。店主が、片手ハンドルで左肩に、注文品全てを盆にのせて自転車で配達してくれました。汁一滴こぼすことのない器用さは圧巻でした。

気前のよかった私の父に似ている長女が、この頃は「仕切り役」になっています。我が家は、こう言った食事時には、「突っつき合い」になってしまうのです。これって非難し合うのではなくシェアーです。『それ、どんな味?』と言っては、食べ比べして、『次は、これにしよう!』と言うわけです。これは、父親の私がし始めて、家族の間で伝染してしまった<悪習慣>の一つなのです。昨日も、テーブルの上を丼が行き巡っていました。久しぶりの日本蕎麦とうどんと鰻を、汗をかきながら食べて、『おいしかったです!』、『ごちそうさま!』と店主に、それぞれ言って店を出たのでした。

「大寒」の頬に当たる路地裏の風が心地よかったのです。『甘いもを食べようか!』と言って、ケーキ屋に入ってコーヒーと紅茶とで、<別腹>を満たしたのです。息子は、『仕事!』と言って先に家に帰って行きましたので、彼にショートケーキを土産に買って帰りました。美味しい日本の一日を、家族で過ごせて幸せを満喫させられた一日でした。長男と次女の家族がいなかったのは、ちょっと物足りなかったのですが。幸せの日本でもあります。

(写真は、「山茶花(さざんか)」です)

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今朝、食パンやオレンジジュースを買いに、近くのコンビニに買いに出かけました。冷たい北風が吹いて頬に冷たかったのですが、真っ青な青空でした。日曜日の朝の東京は穏やかです。この「東京」を歌った歌は、やはり「帝都」ですから、大変に多いのです。1929年(昭和4年)に映画の主題曲として、西條八十の作詞、中山晋平の作曲の「東京行進曲」が世に出ました。

1 昔恋しい 銀座の柳
  仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文(ふみ)書く 人もある
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
  いっそ小田急で 逃げましょうか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

銀座、丸の内、浅草、新宿という繁華街を歌い込んで、大ヒットした歌でした。父十代の最後の頃の歌だったことになるようです。江戸から東京と呼び名が変わってから、六十年ほど経っていたのです。大原の宿で同宿の台湾の大学生と出会いました。「日本はどうですか。」と聞きましたら、「とても綺麗です!」と言っておられました。そうですね、恵比寿の駅で降りて、駒沢通りを歩きましたが、街の中のどこもが、自分の家の庭のように綺麗に清掃されているのです。息子の家に着いた晩に、千葉県沖の震源だとする地震があって、一瞬でしたが、体が大きく揺れたのです。

北京もソウルもマニラもシンガポールも、それぞれの国の政治や経済や教育文化の中心として、「首都機能」を果たしているのです。昨日は、「大学センター試験」が行われ、今日も二日目が行われるそうです。どこの国の若者も、自分の生まれ育った国のために、更にはアジア、世界のために、有為な人となって欲しいと、心から願ってやまない、一月第三週の日曜日の朝です。

(写真は、母校の「記念館」です)

奥ゆかしさ

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山深い里で一泊した私たちは、とても居心地がよかったので、連泊することにしたのです。朝食を済ませてから散歩に出てみました。民宿の女将の紹介で、この地の「道の駅」に行くことにして、ぶらぶらと歩き始めたのです。いつからでしょうか、日本の街道沿いに、この「道の駅」という施設ができ、その近郊で取れる農作物が、名と写真の入ったラベルをつけて売られています。また、芸術家たちが移り住んできて、創作された民芸品や絵画や織物や陶器なども売られているのです。

その朝、膳にのっていなかったトマトを買いました。毎朝、必ず食べている物が食べられないのは、忘れ物をしているようでしたから。宿に帰って、水洗いをして食べたら、本当に美味しかったので満足した次第です。家内は草木染めのスカーフ、私は同じハンチングが安かったので、これも買ってしまいました。目的のない散歩でしたから、すみからすみまで棚の上に置かれたものを、手にとっては見てしまったのです。そんなことをついぞしなかった私の心に、ゆとりができてきたからなのでしょうか、面白かったのです。

そんなことをしていましたら、昼時になっていましたので、その「道の駅」で営業していた食堂に入って、大書きされてあった名物でしょうか、「大根うどん」を注文したのです。膳が運ばれてきて、伝票をそっと置いて行かれました。五十前の女性でした。伝票を挟んだホルダーを裏返しにしてありました。どの食堂に入っても、そうしていたのを半年ぶりの帰国でしたので、今更ながらの新しい感覚でそれに感心してしまったのです。表向きにしてあったら、「二杯1200円」の金額を見られ、それの方が合理的で実際的なのにです。

どうしてでしょうか、こう言ったことは、中国でも韓国でもアメリカでも、決して見られないことなのです。これって日本人の「奥ゆかしさ」だと言われています。「せっかく、美味しい名物の<大根うどん>を食べていただいてるんだから、代金なんか意識させないで、ただ美味しく頂いて欲しい!」という、ほんのちょっとした心遣いなのです。日本人特有の配慮なのです。実に不思議な心の動きに、久しぶりに接して、思いを新たにした、京北の大原での昼時の出来事でした。

(写真は、大根の「花」です)

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京北に「大原」と言われる地があります。昔は「大原女(おはらめ)」で有名でしたし、昭和の時代には、この地を歌詞に歌い込んだ「女ひとり」で、恋に疲れを覚えた女性の共感を呼んで有名になった土地なのです。ちなみに、永六輔が作詞し、いずみたくが作曲した、次のような歌詞でした。

1 京都大原 三千院
  恋に疲れた 女が一人
  結城に潮瀬の 素描(すがき)の帯が
  池の水面に 揺れていた
  京都大原 三千院
  恋に疲れた 女が一人

2 京都栂尾(とがのお) 高山寺
  恋に疲れた 女が一人
  大島紬(つむぎ)に つづれの帯が
  影を落とした 石畳
  京都栂尾 高山寺
  恋に疲れた 女が一人

3 京都嵐山(らんざん) 大覚寺
  恋に疲れた 女が一人
  塩沢絣(かすり)に 名古屋帯
  耳をすませば 滝の音
  京都嵐山 大覚寺
  恋に疲れた 女が一人

これまで帰国時には、家内と一緒ではなかったのですが、今回は同伴帰国をし、娘の提案もあったりで、「京都近郊に一泊してみよう!」ということで、京都駅から鴨川の流れに沿って、バスに揺られて、「大原の里」を訪ねることができました。朝まだき雪の露天風呂に入って、俳句を一句詠みながら、京の田舎情緒にひたることができました。その日の初めての客になった喫茶店で、そこの女性マスターと家内と三人でしばらく語らいました。私たちよりも半周りほど年かさのこのご婦人は、ここで五十年も店を切り盛りしているとのことでした。京都市内に通勤するご長男家族と同居し、一人で店をしておいででした。「今度来られたら、店が閉まっていても,隣の家には必ずいますから訪ねてくださいね!」と言われて辞しました。京都弁でしょうか、大原弁なのでしょうか、年配の女性の言葉の柔らかさに、久しぶりの日本を感じさせてもらいました。

古都の田舎の風情は、旅人の心を十二分に癒してもらい満足でした。若かった父と母が、この地で過ごしたと聞いたことがありましたので、そんなことも思い出しながらでした。帰りのバスを、「烏丸通」で降りて、チェーンの喫茶ルームに入って飲んだコーヒーも、とても美味しかったのです。こう言った感覚を、「雅(みやび)」と言うのでしょうか。

(写真は、「大原女」に扮したものです)