年の瀬に思う(4)

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今年のいつ頃からでしょうか、街中の多くの塀に、「中国夢」と幼児の絵の横に印字されたポスターが掲出され始めました。英語ですと、”China Dream”でしょうか、今年のスローガンのようです。案の定、中国版「今年の十大流行語」の一つに、これが選ばれていました。また、中国版「ツイッター」の「微博」で多く使われた言葉は、「逆襲(これは日本の人気テレビ番組で流行った『倍返し!』の翻訳)」、また、「オヤジギャル」の翻訳の「女汉子(<汉子>とは男を卑しめていうことば)」が選ばれたようです。フェイスブックの 『いいね』を意味する「点賛」も入っていました。

日本と中国は、漢字文化ですから、共通の思い、共有する文化があるわけです。特に中国の青年たちに、日本から発信された文化が受け入れられていることは確かです。外交的に高い垣根や塀があっても、それをを超えて行く力あるからでしょうか。文字のなかった日本が、中国から漢字をお借りして、この漢字の偏や旁や冠から「ひらがな」と「カタカナ」を作り出し、日本語の文字としたわけです。明治期以降は、ヨーロッパの言語を翻訳した多くの言葉、「和製漢字」が、中国に向けて逆輸出されてもいます。魯迅は、日本文学をよく読まれたので、自分の作品の中で、中国の漢字ではなく、日本漢字を多用しています。

いつの日にか、中国と日本の両国で、「今年の共通流行語」、「今年の共通漢字」が共同で選ばれ、両国で同時発表される日がくると好いですね。そんな夢を見ている年の瀬です。

(写真は、上海万博で復元された「遣隋使船」です)

年の瀬に思う(3)

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戦国の世を平定し、最後に天下を統一したのは徳川家康でした。江戸に幕府を置き、260年に及ぶ「徳川幕府」の支配を確立したのです。キリスト教を禁教とし、海外渡航の禁止、海外貿易の独占、武家御法度(参勤交代など)の諸政策を整えたことに、長きにわたる政権を確かにできた理由があります。鎖国の中で、長崎の出島のみを、海外と通じる唯一の場所として定めたのですが、もう一つ、「朝鮮通信使」の出入りを許可し、対馬藩を窓口として送迎していたのです。

この「通信使」は、室町時代に始まっており、150年ほどの中断の後に、豊臣秀吉の時に迎えております。再び1607年に、徳川秀忠の時に再開され、1811年まで、都合12回も来日しています。これは、徳川幕府の将軍の代替わりの祝賀のための表敬訪問でした。一回の使節団の数は、450人ほどの人が平均的にやって来ており、100人ほどの水夫は大阪に留まり、350人の大所帯で、江戸に入ったと言われております。文化や習慣習俗の違いによる軋轢があり、殺傷沙汰もあったそうです。朝鮮半島の南端の釜山から船出し、対馬、瀬戸内海を経て、大阪に入港し、そこから陸路を江戸にいたったのです。4ヶ月から半年ほどの時間を要する旅だったそうです。

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通信使のメンバーは、「正・副使」のほかに、「書記」、「通訳」、「画家」、「書家」、「医者」、「僧侶」、「楽隊」などが随行したのです。トラブルの記録が残っていますが、朝鮮側は、それらを『日本の故意による捏造だ!』としているようです。将軍への祝賀の反面、「倭人」と言って蔑みましたが、京都や大阪や江戸の整備された街の豪華な様子に驚嘆していたとの記録が残されております。また当時の日本から、多くのことを学んで帰国したのです。

生活習慣の違いによるトラブルがあったのですが、すぐに解決していたのです。ですから今のような険悪な関係はなかったのではないでしょうか。古くからの両国の歴史を振り返って 、好い国交の回復がなされることは可能なのではないでしょうか。前大統領は日本で生まれながら「嫌日」に終始し、現大統領は父君が親日家であったのに、日本嫌いを表明して止まないでいます。竹島や日本海や慰安婦の問題の解決の努力をしたいものです。いつも思い出すのは、「京城(ソウル)」で仕事をしたことのある父が、時々、その頃を懐かしんで歌っていた「アリラン(峠)」」の歌詞です。問題になっている「峠」を、こちら側から、あちら側から、共に越えて行きたいと願う年の瀬であります。

(写真上は、十二月に咲く「磯菊」、下は、「朝鮮通信使」の絵です)

年の瀬に思う(2)

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江戸の三百年間の鎖国の時代には、『日本人とは?』という問いかけを自らにする必要はなかったのでしょう。長崎の「出島」だけが、外の世界、中国やオランダとの接触の場でした。たまに、台風による難破船が漂着し、肌の白い、鼻の高いヨーロッパ人を救助した漁民たちが目撃した程度でした。一般人は、全く外の世界との接触を持たないまま過ごしていたわけです。ところが「大航海時代」がやって来て、スペインやポルトガルやイギリスなどが、海外交易に乗り出し、植民地をアジアやアフリカに求め始めたのです。

日本の近海にも、度々やって来るようになり、船の乗組員が、水や食料の供給を求め、やがて「開国」を迫るようになってきたわけです。もう「太平の世」のままではいられなくなってきました。その頃、長州藩の高杉晋作は、江戸幕府の派遣員として、清の時代の「上海」を訪ねます。そこで見たのは、イギリスによる植民支配の惨状でした。不公平な貿易による搾取、財政の混乱、人々の阿片中毒、「太平天国の乱」による混乱、そのような隣国の様子に、衝撃に覚えたのです。『このままだと日本も同じように植民地化してしまう!』という怖れを抱きます。時代の流れに抗うことができないで、日本も開国し、「明治維新」を経て近代化の道を突き進んで行きます。「遅れ」を取り戻そうとして、「欧化政策」に躍起とし、産業も軍事も教育も医学も、ヨーロッパ諸国から学び始めるのです。

こう言ったヨーロッパ人との接触が多くなった時期に、『いったい、われわれ日本人とは何か、誰か、この時代をどう生きるか?』という問いかけを自らに課します。特に、日清戦争と日露戦争に勝利した時期に、次のような「日本人論」が論じられていきます。内村鑑三が「代表的日本人(1894年)」、志賀重昂の「日本風景論(1894年)」、新渡戸稲造が「武士道(1899年)」、岡倉天心が「日本の目覚め(1904年)」と「茶の本(1906年)」です。内村と新渡戸と岡倉の書いた四冊は、「英語」で書かれたのです。つまり読者は、欧米諸国の人たちで、彼らに向かって書かれたわけです。『俺たち日本人とは・・・』と言った、日本と日本人の認識を認めたことになります(岡倉以外は、「札幌農学校」に学んだ人だったのです)。

「アイデンティティ」という言葉があります。アグネス・チャンによると、この言葉の意味は、『私は誰?』、『どうして此処にいるの?』、『これから何をするの?』の答えを求めることだと言っています。この三つの問いに、『答えを持っているだろうか?』、明治の人々は、それを考え始めたのです。「平成」の御世(みよ)の私たちにも、この答えは必要です。ですが、この「全地球」規模で関わり、考えなければならない今、自分の国以上の広がりの中で、外の世界を見ないと、行く道を誤りそうでなりません。一国の繁栄や安定だけではなく、国境を越えた広がりでの中で考えていくべき時代なのではないでしょうか。「大気汚染」、「食糧と人口」、「領土や資源やエネルギー」、「青少年問題や犯罪」などは、すでに国境を越えた課題になってきているからです。そうしないと、明日の地球はなくなるかも知れません。

それ以上に、『人間とは何?』を、考える時ではないかな、と感じている年の瀬であります。

(写真は、メキシコ原産の「ポインセチア」です)