地産地消

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こんな「川柳」が、ある新聞に載っていました。

鎖国して地産地消でやれた江戸 

実に面白いと、感心してしまいました。「地産地消」というのは、住んでいる地域で生産した食料で、その地の人々の「食」を賄うことを言っています。つまり、江戸の街に住む人たちは、近郷近在のお百姓さんが作る米や野菜、漁民の獲る海産物、家内工場で作る味噌や醤油、油や豆腐や油揚げなど、薪や炭と言った燃料、生活の上下水、トイレの汲み取りに至るまで、生産と物流の都市機能が十分に発達していたことになります。

当時のパリやロンドンに比べても、江戸の都市機能は、大変に発達していたのです。近在のお百姓さんが、荷車に野菜を積んでやって来ます。「厠(かわや)」のものと、その野菜を交換して帰って行きます。それで「堆肥(退避)」を作って、美味しい野菜生産のための「土作り」をするのです。この「循環機能」が、上手に働いていたことも、驚くべきことだったわけです。自然農法として普通のことだったわけです。少し臭い話をしましたので、今度は、「生活用水」のことに触れてみましょう。太宰治が入水して有名な「玉川上水」は、江戸市民の生活用水として、1653年に工事を開始し、人工的に作られたものでした。おどろくべき、「水道事業」だったのです。これは「江戸六上水」の一つで、多摩川から取水して、江戸市中に供給され、「飲料水」として使われていました。

江戸の街作りは、驚くべきもので、「百万都市」を機能させたわけです。幕末にこの江戸を訪れた外国人を感心させてやまなかったそうです。土木の技術も水準も、雲泥の違いの現在よりも、かえって優れていたのではないでしょうか。モッコに土を盛って、人力で担いで土砂を運んで、河川や上水道の掘削や埋め立てをして、あのような事業をしたのですから驚かされるのです。江戸幕府に、それほどの財力と人材があって、そのような首都機能を円滑にしたことは特筆すべきことです。

もちろん、長崎の出島から、ヨーロッパの近代工法などを学んだことは確かですが、「鎖国」という制限の中で、知恵を振り絞って国づくり、街作りをしたことは、私たち現代に生きる日本人の「国の誇り」であってよいと思うのです。きっと私利私欲に捉われない役人たちがいたからでしょう。東京は、「首都高」などの改修や改築の時期だと言われています。古い文献にある記録を見直し、江戸から学ぶことをお勧めします。

(写真は、現在の立川市砂川を流れる「玉川上水」です)

よき生き様

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不二を見て 通る人有(あり) 年の市 与謝蕪村

この夏、「スカイツリー」の展望台が、富士山をかすかに感じることができました。かつて江戸の街から、富士山が、よく見えたのでしょう。高いビルも、大気汚染の公害もない時代だったからです。「年の瀬」は、江戸の昔から、慌ただしく人が街中を行き来していたのでしょう。最近はどうなのでしょうか。あの年末の独特な雰囲気から遠ざかっていますので、『さあ、いらしゃーい!いらっしゃい!』の掛け声を聞いておりません。師が走り、主婦も学生もサラリーマンも、何かに追いかけられているように、せわしなく往来している、あの風情が懐かしく感じられます。

わが家の隣にある大型モールには、年末セールというよりは、「クリスマスセール」で、ジングルベルが建物中に流れている時季になっています。中国は、「旧暦(農暦)」の正月、「春節」を祝いますから、新暦の日本とは違って、「年の瀬」の賑わいはありません。来年は、一月三十日が、新年の始まりになっています。その時には、おじいちゃんやおばあちゃんが、孫に新しい服を買ってあげ、親は、おじいちゃんたちに服を買うのでしょう。みんなが新調の服装で、新年を迎えるのです。家族全員で、新しい年の始まりを祝い、特別な食事を共にとり、感謝し、祝福し合うのです。子どもたちは、「お年玉」をもらう習慣あり、日本と同じです。

『雅、お年玉!』と言って父からもらったことが思い出されます。ところが、自分の子供もたちに上げたことがあったのか、忘れてしまいました。我が家は、私がしていた、サイド・ビジネスで、元旦には、スーパーマーケットの床掃除をするのが恒例でした。みんなに手伝ってもらったことが、よくありました。それで、学校に行けたのですから、感謝な機会だったのです。仕事を終え、二階の休憩室のコタツに、みんなで入って、家内が持って来てくれた「おせち料理」を食べたのです。あゝ言う「団欒」のひと時は、もう二度と戻ってこないのでしょうね。でも、ああ言った経験が、子どもたちにあって、今の彼らがあるとすることで、好いのでしょう。何時でしたか、その時の店長さんが優しい方で、「福袋」を、子どもたちが貰ったことがありました。彼らは大喜びをしていました。あの頃の子どもたちの年齢に、孫たちが近づいてきています。

こちらに来るまで住んでいた街の我が家の窓からも、山越しに、「富士山」の八号目付近から頂上にかけて、晴れた日には見え ました。やはり、春夏秋冬、いつ眺めても綺麗な山でした。江戸の街は、年末の市が立って、ごった返すような賑わいだったのに、悠然として富士山を眺めている人を、蕪村は見掛けたのでしょう。世の中の流れに巻き込まれないで、泰然自若として生きている人がいたのです。その人は、蕪村自身だったのかも知れません。『おい、俳句なんか読んでる時じゃあないぞ!』という声を聞いても、馬耳東風だったのでしょうか。この余裕、よき生き様ですね!

(写真は、横浜の「みなとみらい21」の向こうに見える「富士山」です)

面子

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映画全盛の頃、立川駅の南口の改札を抜けて、左に行きますと、東映の映画館があり、よく観に行きました。その映画というには、時代劇だったのです。その当時の私たちの遊びの一つは、林の中に入って行っては、適当な木を切って作った「刀」で、集団でやりあう「チャンバラ」でした。スクリーンに映っていたのと同じ動作の再現だったわけです。小学校の国語では教えてくれない、『おぬし』とか『せっしゃ』と言った台詞を覚えて、使うのです。それが、『おまえ』と『おれ』だと分かって使うのです。さらに、『めんぼくない』とか『かたじけない』も、よく真似たものです。

全神経を集中させて観て聞くのですから、何でも覚えてしまったわけです。漢字で捉えないで、耳で覚えるというのが、「ことばの学習」で、一番好いのではないでしょうか。『漢字でどう書くの?』と聞くと、『辞書を引け!』と言っていた父が買ってくれたのが、初版の「広辞苑」でした。それを手にしたのは、小学校の5年の時だったのです。ぶ厚い辞書を引いては、漢字の習得に心掛けたのです。意味を調べて、類似語を引くと言ったことを繰り返して、「ことば」を覚えたのです。ああ言うのを「知的遊戯」と言うのでしょうか。とても面白かったのです。

「めんぼくない」は、「面目ない」でした。その意味は、そう語る侍の表情や、相手とのやり取りで、『「めんぼく」っていうのは侍が持っていて、目には見えないけど、とても大切なものなんだ!』と、何となく分かったのです。町人や芸人やお百姓は、そんな言葉は決してしゃべらなかったからです。この日曜日に、私たちの住んでいる街の中心を流れる河の下流にある街に、車で行きました。車中で、「面子(めんつ)」が話題になったのです。これを類語辞典で調べてみますと、「面目 ・ 立前 ・ 点前 ・ 表 ・ 顔面 ・ 立て前 ・ 建て前 ・ 顔 ・ 建前」と出ています。中国人や日本人だけではなく、イギリスやフランスやどこの国でも、『誰でももっていて、人として保つべき大切なものだ!』と言う結論になりました。

その朝は、いつになく背広にネクタイの服装で、おめかしして出掛けたのです。『セーターとGパンでは失礼になるから!』、「礼儀」として、そうすべきだと思ったからでした。外国人の「点前(てまえ)」としてでした。これって、好い意味で「面子」とか「面目」を保つことなわけです。『面子があるから、こうしないわけにはいけない!』というよりも、「礼儀」だったのです。

映画の中で、侍が楊枝をくわえてる場面がありました。『あっ、「武士は喰わねど高楊枝」なんだ!』と、子どもの私は納得したのです。ひもじい侍は、絵になりませんし、「いざ鎌倉」の時に駆けつけられません。どうしても「型」や「格好」が重要とされてきたのです。それは『貧しくとも、身だしなみはきちんとして生きよう!』との生きる姿勢なのでしょう。さて、人としての「面目躍如」を期して、2013年の今年を終えたいものです。

(写真は、「面子」と書いて「めんこ」と読む、子ども頃に遊んだカードです)