感謝の思い

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『もう一度肺炎になったら死ぬことを覚悟し、十分に注意して生活して下さい!』と言われてから、何度目の誕生日でしょうか、異国の空の下で、昨日、迎えることができました。小学校入学前に、風邪をこじらせて肺炎にかかり、街の国立病院に入院しました。どのくらいの期間、入院したのか覚えていませんが、木造の古い建物で、人が歩きますと、床がギシギシと音を立てていたのです。この街にあった連隊の兵舎を利用した病舎だったのだと、父から聞きました。入院中の私を、母はつきっきりで献身的に世話をしてくれたのです。その甲斐があって、退院することができ、今日まで生き延びることができました。

入院中のベッドが寒かったので、父の祖父が、イギリス海軍に技官として遣わされて学んだ帰りに、お土産に買ってきた「純毛の毛布」を、実家から取り寄せて使わせてくれたのです。退屈していた私は、ハサミとか紙を家から持ってきてもらって、工作をしていたのですが、しまいにはシーツとか毛布まで切り刻んでしまったのだそうです。ある時、大勢の人が病室に入ってきました。後で聞いたら、この県の知事さんが、私を見舞ってくれたのだそうです。偉そうな人がいたのだけ覚えています。

すんでのところで落雷を避け、台風で荒れた海で溺れかけ、上の階のガス爆発で九死に一生を得たり、交通事故をすんでのとこで避けたり、自転車の転倒で車道に投げ出されないで歩道に倒れたり、まだまだ数え上げるますと多くの危険や死に直面したことがあるのです。こういう私のことを、「しぶとい奴」と言うのでしょうか、いつも思うのですが、『自分は<おまけ>を生きてるんだ!』と。母が生きてる時に、自分に誕生日が来るごとに、『産んでくれてありがとう!』と電話をかけて、産んで育て、死線をさまよった時にしてくれたお世話に、心から感謝をしてきました。母が召され、去年も今年も、もう、それが叶えられなくなった自分の誕生日になりました。でも四人の子どもたちが覚えていてくれて、『おめでとう!』と今年も言ってくれ、教え子も同僚の教師も言ってくれたことが、また嬉しかったのです。

今の時を、このように異国で過ごすことは、祖国に何も持っていない私にとって、最善の生き方に思えるのです。これは強がりではなく、自分の「生き始めたこと」の仕上げを、ここでしているつもりでいます。あ、訂正しなくてはなりません。祖国には、素晴らしい友人や父母を同じくする兄弟たち、息子たち、娘たちがいることを忘れてはなりませんね。健康で、満ち足りて、年が越せそうです。父が、『雅、死ぬなよ!』との思いで、欠かさないで買っておいてくれた「バター」を病後に食べていたのを思い出します。それででしょうか、今日も、近くのスーパーで、「黄油」と呼ばれるバターを買ってきました。

(写真は、「バター」です)