年の瀬に思う(2)

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江戸の三百年間の鎖国の時代には、『日本人とは?』という問いかけを自らにする必要はなかったのでしょう。長崎の「出島」だけが、外の世界、中国やオランダとの接触の場でした。たまに、台風による難破船が漂着し、肌の白い、鼻の高いヨーロッパ人を救助した漁民たちが目撃した程度でした。一般人は、全く外の世界との接触を持たないまま過ごしていたわけです。ところが「大航海時代」がやって来て、スペインやポルトガルやイギリスなどが、海外交易に乗り出し、植民地をアジアやアフリカに求め始めたのです。

日本の近海にも、度々やって来るようになり、船の乗組員が、水や食料の供給を求め、やがて「開国」を迫るようになってきたわけです。もう「太平の世」のままではいられなくなってきました。その頃、長州藩の高杉晋作は、江戸幕府の派遣員として、清の時代の「上海」を訪ねます。そこで見たのは、イギリスによる植民支配の惨状でした。不公平な貿易による搾取、財政の混乱、人々の阿片中毒、「太平天国の乱」による混乱、そのような隣国の様子に、衝撃に覚えたのです。『このままだと日本も同じように植民地化してしまう!』という怖れを抱きます。時代の流れに抗うことができないで、日本も開国し、「明治維新」を経て近代化の道を突き進んで行きます。「遅れ」を取り戻そうとして、「欧化政策」に躍起とし、産業も軍事も教育も医学も、ヨーロッパ諸国から学び始めるのです。

こう言ったヨーロッパ人との接触が多くなった時期に、『いったい、われわれ日本人とは何か、誰か、この時代をどう生きるか?』という問いかけを自らに課します。特に、日清戦争と日露戦争に勝利した時期に、次のような「日本人論」が論じられていきます。内村鑑三が「代表的日本人(1894年)」、志賀重昂の「日本風景論(1894年)」、新渡戸稲造が「武士道(1899年)」、岡倉天心が「日本の目覚め(1904年)」と「茶の本(1906年)」です。内村と新渡戸と岡倉の書いた四冊は、「英語」で書かれたのです。つまり読者は、欧米諸国の人たちで、彼らに向かって書かれたわけです。『俺たち日本人とは・・・』と言った、日本と日本人の認識を認めたことになります(岡倉以外は、「札幌農学校」に学んだ人だったのです)。

「アイデンティティ」という言葉があります。アグネス・チャンによると、この言葉の意味は、『私は誰?』、『どうして此処にいるの?』、『これから何をするの?』の答えを求めることだと言っています。この三つの問いに、『答えを持っているだろうか?』、明治の人々は、それを考え始めたのです。「平成」の御世(みよ)の私たちにも、この答えは必要です。ですが、この「全地球」規模で関わり、考えなければならない今、自分の国以上の広がりの中で、外の世界を見ないと、行く道を誤りそうでなりません。一国の繁栄や安定だけではなく、国境を越えた広がりでの中で考えていくべき時代なのではないでしょうか。「大気汚染」、「食糧と人口」、「領土や資源やエネルギー」、「青少年問題や犯罪」などは、すでに国境を越えた課題になってきているからです。そうしないと、明日の地球はなくなるかも知れません。

それ以上に、『人間とは何?』を、考える時ではないかな、と感じている年の瀬であります。

(写真は、メキシコ原産の「ポインセチア」です)

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