年の瀬に思う

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農耕民族の生活は、お天気任せで、蒔いた種や植えた苗の成長は、ただ手を合わせて祈りながら、水をやったり草を引いたりして、作物の生長を見守りながら世話をしてきたのです。冷害や、日照りの水不足、病害虫の異常発生、働き人の病気と、様々なことに見舞われながら、耐えて、そうし続けてきた営みなのです。ですから、豊作の秋を迎えた年の喜びは、言葉に言い尽くせないほどだったのでしょう。

わが家では、父が会社勤めをしていましたから、農家の生活ぶりを知らないで、私たち兄弟は育ちました。それでも、生活の中には、農耕民族の慣習や伝統が、多く残っていたのです。その際たるものが、「正月」の朝食でした。父は、明治の最後の生まれでしたから、大晦日には、「年越し蕎麦」を、きちんと食べて新年を迎える人でした。元旦の朝は、暮れに近所の米屋さんに注文しておいた「延べ平餅」を、物差しで測りながら切って、専用の木箱に収めて置いた餅を、父が焼き、母が、鳥肉と小松菜と三つ葉の入った醤油味で作られた「お雑煮(ぞうに)」を食べました。それに、母が何日もかけて作って「重箱」に、飾るようにして入れてあった「おせち料理」を、家族六人で炬燵に当たりながら食べたのです。当時は、どの家庭でもこう言った光景が見られたのでしょう。

紅白の蒲鉾、伊達巻、ごまめ、昆布巻、数の子、黒豆、栗きんとん、酢だこ、小魚の串さし佃煮、なます(大根と人参の酢の物)、煮里芋、煮ごぼう、それにハムなどが、重箱に詰められていました。今思い返しますと、彩りが鮮やかで、まるで「芸術品」のようでした。ある時、「お屠蘇(とそ)」の代わりにぶどう酒を、父が飲ませくれました。酒を飲まなかった父が、ほんのり赤ら顔になっていたことがあったのです。ああ言った家族の団欒があって、愛され、世話され、叱られ、褒められて成長できたのです。

農家の女性が料理をしないで、作り置きの料理を食べて、年の初めを愛でて過ごして、雪が溶け、北風が止む春の到来を待ち望んだのです。だから、「正月」は特別で、独特な習俗や食文化を残したのでしょう。この辺に、「日本文化」の独自性があるように思われます。正月からスーパーが営業している現代では、「おせち料理」も出来合いが売られ、お肉も惣菜も豊富ですし、大所帯から核家族になっていますので、少々濃い味で作り置きをしておく必要がなくなってしまいました。一緒に「情緒」も消えてなくなってしまっているのは、ちょっと寂しいものがあります。家の中にも外にも、伝統宗教の飾りも用具もまったくない、スッキリしていた育った家が懐かしい年の瀬です。

(写真は、暮れに出回る「シクラメン」です)

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