年の瀬に思う(3)

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戦国の世を平定し、最後に天下を統一したのは徳川家康でした。江戸に幕府を置き、260年に及ぶ「徳川幕府」の支配を確立したのです。キリスト教を禁教とし、海外渡航の禁止、海外貿易の独占、武家御法度(参勤交代など)の諸政策を整えたことに、長きにわたる政権を確かにできた理由があります。鎖国の中で、長崎の出島のみを、海外と通じる唯一の場所として定めたのですが、もう一つ、「朝鮮通信使」の出入りを許可し、対馬藩を窓口として送迎していたのです。

この「通信使」は、室町時代に始まっており、150年ほどの中断の後に、豊臣秀吉の時に迎えております。再び1607年に、徳川秀忠の時に再開され、1811年まで、都合12回も来日しています。これは、徳川幕府の将軍の代替わりの祝賀のための表敬訪問でした。一回の使節団の数は、450人ほどの人が平均的にやって来ており、100人ほどの水夫は大阪に留まり、350人の大所帯で、江戸に入ったと言われております。文化や習慣習俗の違いによる軋轢があり、殺傷沙汰もあったそうです。朝鮮半島の南端の釜山から船出し、対馬、瀬戸内海を経て、大阪に入港し、そこから陸路を江戸にいたったのです。4ヶ月から半年ほどの時間を要する旅だったそうです。

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通信使のメンバーは、「正・副使」のほかに、「書記」、「通訳」、「画家」、「書家」、「医者」、「僧侶」、「楽隊」などが随行したのです。トラブルの記録が残っていますが、朝鮮側は、それらを『日本の故意による捏造だ!』としているようです。将軍への祝賀の反面、「倭人」と言って蔑みましたが、京都や大阪や江戸の整備された街の豪華な様子に驚嘆していたとの記録が残されております。また当時の日本から、多くのことを学んで帰国したのです。

生活習慣の違いによるトラブルがあったのですが、すぐに解決していたのです。ですから今のような険悪な関係はなかったのではないでしょうか。古くからの両国の歴史を振り返って 、好い国交の回復がなされることは可能なのではないでしょうか。前大統領は日本で生まれながら「嫌日」に終始し、現大統領は父君が親日家であったのに、日本嫌いを表明して止まないでいます。竹島や日本海や慰安婦の問題の解決の努力をしたいものです。いつも思い出すのは、「京城(ソウル)」で仕事をしたことのある父が、時々、その頃を懐かしんで歌っていた「アリラン(峠)」」の歌詞です。問題になっている「峠」を、こちら側から、あちら側から、共に越えて行きたいと願う年の瀬であります。

(写真上は、十二月に咲く「磯菊」、下は、「朝鮮通信使」の絵です)

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