260年もの鎖国の中から、突如として欧米諸国の介入で、開国に踏み切った日本は、「殖産興業」、「富国強兵」を掲げて、たち遅れを取り戻すために、必死の努力を重ねて、開国30年ほどで大英帝国と肩を並べられるほどの国力のある国に急成長を遂げました。植民地に甘んじていたアジア諸国の中で、一人気を吐いていたのです。経済が肥大化する中で、軍事力も大きくなっていき、ついには資源や市場を求めて中国大陸に進出し、米英を敵に回して戦争に突入してしまったわけです。敗戦によって、決定的に息の根を止められた日本でしたが、奇跡的な復興を遂げたのは、世界中の脅威の的でした。
「朝鮮戦争」の戦争特需があって、日本の産業界は驚異的な進展を遂げ、ベトナム戦争の特需もあって、米に次ぐ経済大国となったことは、アジア諸国に自信を与え、躍進への意気を奮い立たせたわけです。現在では、韓国もインドもインドネシアも、豊かな経済をもつ国となってきております。
さて、日本の経済を動かした財界人には、傑出した人物が多くおいでです。戦後、解体された「住友財閥」の系列会社に、「住友化学工業」という会社があります。この会社の社長や会長をつとめた「長谷川周重(のりしげ)」もまた、凄腕の企業人でした。この方の秘書をされた方との関係が、とても興味深かったと聞いておりますので、紹介させていただこうと思います。
「秘書」をgooの辞書でみますと、『要職の人に直属して、機密の文書・事務などを取り扱う職。また、その人。セクレタリー。「社長―」 』とあります。長谷川に仕えて、万端怠りなく事務やスケジュールをこなし、手先となってことに当たるT秘書は、長谷川の言動におかしなことを見つけると、黙っていられないで、はっきりと指摘してしまうのだそうです。こういった部下というのは、使いにくいに決まっています。『はい!』と言って事務処理に励むだけでいいのに、それ以上のことを言う始末だったのです。人事権もあるのですから、配置換えしたり、左遷することは容易にできたことですが、長谷川は、しませんでした。
彼は日曜日ごとに「講演会」に集い、過ぎた一週間のことを静まって思い返し、自分の言動を反省していた人だったのです。自分が言い過ぎたり、間違っていることが示されると、決まって月曜日には、それを詫びるのだそうです。ある月曜日、T秘書に、『この前はご免。言い過ぎて済まなかったね・・』と小声で言い、部下への非礼を心から詫びたそうです。部下の人格を尊重し、彼の家族の生活のことを思うと、権威を振りかざすことはいけないことだと自覚したからそうです。だから、謙虚に謝れたのです。
人は高い立場に就き、人々に見上げられるようになると、なかなか、自分の非を認めたり、謝罪することができなくなってしまうのです。自分の立場を低くしてしまうように感じて恐れるからです。ところが、この長谷川周重は、沽券(こけん)にこだわったり、権威の濫用から遠くにいて、一人の人として、《謙虚さ》を身につけていたのです。
日本史に出てくる武将たちの多くは、オジでも子でも、さらに父親でも、政敵とみなすと、即刻腹を切らせ、首をはねさせてしまうほどに横暴だったことが分かります。としますと、部下などでしたら物の数ではありません。軽々しく権力を行使することを、自ら諌めて組織の中で、生きた 長谷川周重には驚かされます。
大企業の社長や会長の要職にある人は、何十万もの部下の頂点に立っているわけです。その部下には妻子がいます。子どもたちには、教育などの多くの必要があるわけです。部下の家族の「生存権」にまで配慮したトップを持っ企業でしたら、どんなに素晴らしいことではないでしょうか。権威の座で私腹を肥やす人の多い中、 長谷川周重の様な人がいた企業が、祝福されないはずがありません。
ある時、ある事業部門の経営が悪化し、そこを整理することになりました。そのトップに居る人から相談がありました。『あなたの数十人の部下には、妻も子も、お父さんも母さんもおいでです。彼らの身の振り方を考えてあげて下さい。そうして、あなたの今後を考えてみられたらどうでしょうか。きっと最善に導かれて、再就職の道が開かれますから!』と言って激励したのです。ところが、彼は、自分の妻子を養うことの危機感に苛まれて、誰よりもはやく転職先を見つけて、退職してしまいました。後になってこの方は、『私のために、別の部署の責任を任せたかったのだそうで・・・』と言っていました。日本の政界にも財界にも教育界にも、いえ世界中の国のそういったトップに、長谷川周重のような心意気の人材が欲しいものです。