和ごころ

『日本の家は木や草や紙で作られていて、実に粗末なものだ!』と言われてきましたが、本当にそうなのでしょうか。レンガや石を積み上げた家に比べたら、 火や洪水に耐える力は弱いに違いがありません。ところが、木や紙がもっています材質の柔らかさは、じつに人にも自然にも優しい細やかさにあふれているのではないでしょうか。そんな繊細さを持っている家屋は、世界のどこにも見当たりませんね。一間六尺(1.8m)の寸法で、家のすべてが規格どおりに作られて いて、五尺の人の身丈に、長すぎず足りな過ぎないことに感心させられてしまうのは、私だけではないかも知れません。

通りと隔てた戸をあけますと、玄関までは石畳が敷かれてありました。玄関は、客人を歓迎する気持ちを表していて、玄関の「三和土(たたき)」に立ちますと、そこは広すぎず狭ますぎず、立って頭を下げ合いながらの挨拶を交わすには、程よい広さなのです。視線を横に向けますと、よく磨かれた廊下があって、ガラス越しに庭が見えま す。靴を脱いで上がり、廊下を通って、右手の障子を開けて客間に入りますと、きめ細かな波のような井草表(いぐさおもて)の畳が敷かれてあります。新しい 井草表の畳は、気を落ち着かせるに程よい「草の香」を放っていました。八畳ほどの畳の部屋は、縦横に上手に畳が組み合わされてあるのです。部屋と部屋は、 襖(ふすま)で仕切られていて、大人数の来客のときには、それを外しますと、十人でも二十人でも容れることの出来る大広間になってしまうのです。襖の上には長押(な げし)があって、その上には双方の部屋が、決して密室ではないことが分かるように、明り取りや換気の用を果たす飾木工の「欄間」がありました。ほどほどに 二間を分けてあったのです。

客間の奥には、横六尺、奥行き三尺ほど(畳一畳分でしょうか)の「床の間」がありました。そこには、毛筆の 字と画で書かれた掛け軸があって、磨かれた「黒平水晶」の置物があり、一時は、刀を置くための鹿の角もあったと思います。家を越すたびに、父が大切にして いたものが一つ減り、二つ減って行ってしまったのですが、どこに行ってしまったのでしょうか。物に執着心のなかった父のこと、どなたかに差し上げてしまっ たのでしょうか。そんな床の間の光景もよみがえって参ります。

我たち兄弟は男の子四人でしたから、相撲や喧嘩で、障子も母が張りなおせばすぐに破り、襖の芯は折れ、畳は擦り減り破れていました。まあ育ち盛りでしたから仕方が無かったかも知れません。今日日、私のひとつ二つの願いは、そんな 部屋の畳の上に、大の字になって寝転がって、天井をじっと眺めてみたいのです。それは贅沢でしょうか。障子の和紙を透き通って射し込む陽の光が部屋全体に 広がっている、そんな風に寝転んでいたら、『雅!』、『雅ちゃん!』と呼ぶ父や母の声が聞こえてきそうですね。また、廊下の先の奥の風呂場にある、「檜 (ひのき)」造りの風呂桶に、井戸で汲んだ水を張って、薪(まき)で炊いた湯に、「檜」の香りをかぎながら、湯気が立ち上る湯に肩までつかって、「赤とん ぼ」でも歌ってみたいものです。『湯加減は、どう?』との母の声も聞こえることでしょうか。


このような「和風建築の美」というのは、世 界に誇ることの出来る日本独特の文化や芸術に違いありません。日本人の心、また美意識を育て上げてくれた極上の文化に違いありません。そんな伝統や文化を 再評価し、感謝し、誇りたいのです。あ、忘れていました。もうひとつ「押入れ」がありました。そこには、家族みんなの盛りだくさんの懐かしい思い出が仕舞 い込まれているはずなのですが。(2009316日月曜日付けの「ブログ」からの転載分)

(写真上は、kabekami.net「庭園」、下は、sekkei.exblog.jp「障子と畳の和室」です)

新宿

「新宿」、山手線と中央線の交差駅で、京王線や小田急線や西武線の始発着駅でした。今では、地下鉄の路線がいく本も入っていますが。それにしても、かつて路面を走っていた都電も消えてしまい、今では都電・荒川線だけが残るのみになってしまったのはとても寂しいものです。地下鉄の日比谷線に恵比寿から乗り込み、「日比谷」で三田線に乗り換えますと、山手線巣鴨に接続します。この駅の1つ先に、地下鉄三田線の「西巣鴨」があります。電車の乗り換え案内に、『都電・荒川線は乗り換えです!』と車内放送が流れてきます。つい誘われて、降車して昔懐かしい都電に乗りたくなるのですが、「志村坂上」の家内の入院先に行く必要があって、いまだに果たせないままでおります。今度いつか、降りて乗ってみようと思っていますが。学校に行っておりましたときに、キャンパスを出ますとすぐそこに都電が走っていまして。『チン、チン!」』とやってくるのに乗り込むと「銀座」に行くことができました。なにも用がないのですが、時間をもてあましては、「銀ブラ」をよくしたものです。

でも、大方は通学途中の「渋谷」や「新宿」で降りる機会が多かったのです。何時でしたか札幌から来ていた同級生と一緒に、「伊勢丹」の隣にある「末広亭」に、落語を聞きに行ったことがありました。『行ったことがない!』というので連れていってあげたのです。何度行ったことでしょうか。

「落語」といえば、文豪の夏目漱石は、足しげく寄席通いをした人だったそうで、彼の文学の骨子になっているのは、江戸伝来の「落語」だとも言われています。庶民の話し言葉が、文学の中の会話に組み込まれ、表現されていったようです。フランス語が、ジャン・カルヴァンによって、ドイツ語が、マルチン・ルターの貢献によって作られたと言われるのですが、日本語は、夏目漱石の作品の影響が多大だと言われますが、もう少しさかのぼりますと「落語」に行き着くことができそうです。そうしますと、「バカぱなし」といえなく、『たかが落語、されど落語!』といわなければならないのではないでしょうか。

落語の世界で名人と言われた噺家が何人かおられます。古今亭志ん生、柳家小さん、三遊亭金馬、桂春団治など何人も「名籍」を上げることができます。六代目の三遊亭円生は、その筆頭でしょうか。円生師匠は6才の時に、20席ほどの演目を持って、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが、この円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と言って話し出す落語なのですが、そ れだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好きな人間とされてしまいました

「え~一席、『国は大きい方がいい!』、そう中国の胡錦濤主席が言います。『いいえ、国ってのは小さいにこしたことはない!』と、バチカン市国のローマ法王がいい、二人の間で、ああでもない、こうでもないと論争が始まっていまいました。そこに猫に追われて、方法のていで逃げてきた鼠が一声、『チュー!』。お後がよろしいようで。」

(写真上は、東京都交通局の「昔の新宿・都電)、中は、雑誌サライ所収の「六代目三遊亭圓生」、下は、「夏目漱石」です)

マリ


『チョコレート!』、なんと響きのよい言葉でしょうか。『森永ミルクチョコレート!』、『明治ミルクチョコレート!』、『ロッテガーナチョコレート!』と聞いただけで、唾液腺の働きが猛烈に活発になってしまいます。見たら、もう他のものへの関心は全くなくなってしまうのです。それこそ食べたら、『ここは天国かしら!』と至福の時になってしまいます。こんなおいしいお菓子が、ほかにあるでしょうか。だれが作ったのでしょうか。ノーベル賞や文化勲章を、ぜひ受賞していただきたいものです。歴史を調べてみますと、どうもアメリカの原住民が食用にしていたのを、アメリカ大陸の発見者のコロンブス一行がヨーロッパのスペインに持ち帰って作ったのだそうです。大衆化していくのは、カトリックの修道士たちの手によったとのことです。日本に渡来した記録は、18世紀に、長崎の遊女が、オランダ人にもらった記録が残されています。日本初の製造販売は、風月堂によりますが、大量に製造販売をしていったのが、1918年に、森永製菓によってでした。

最初に食べた日のことは、はっきりと覚えていませんが、小学校の頃、立川の国立病院に診察に行ったときに、駅のそばの店で、ガムやピーナッツや干しぶどうなどと一緒に、母に買ってもらったのを覚えています。こんな好物のチョコレートですが、私の愛読しているブログに、こんなことが紹介されていました。

「チョコレートの原料のカカオ豆は、高温多湿の熱帯西アフリカの「マリ共和国」が、一つの主産地です。この国の10~14才くらいまでの多くの子どもたち(男女)が誘拐されて、多くが行方不明になっているとの情報が以前からあり、一説には、2万人もが消息不明で、どうも「カカオ農場」で、現在も働かされているようです。〈中略〉マリの田舎でおばあさんが、子どもたちに、『働けばお金がもらえる仕事があるよ!』と優しい声をかけて誘い出し、隣の国コートジボワール(象牙海岸共和国)の国境の町までバスで移動させ、そこで他の人に渡し(子供奴隷の誘拐組織は、子供1人につき230ユーロ・27000円で取引されています)、バスやオートバイでカカオ農園に子どもたちが運ばれている事がわかった。子どもたちは数人づつカカオ農園に分配され、毎日毎日休みもなく子供の手には大きすぎる程のカカオを粗末な大きなナイフで切り落として、集める仕事が待っていた。働いて何時まで待ってもお金は全然貰えないので、また空腹のあまり食事やお金の支払いを請求すると、殴られたり罵声を浴びさせられたり暴行を受けている。ボロボロの汚れたシャツをまとい、明らかに栄養失調の痩せた暗い顔をした子どもが何人か見られたが、とにかく酷い扱い方である。〈攻略〉」とです。

甘味なチョコレートには、このようないたいけのない子どもたちの苦く辛く酷い労働があることを知って、ただ戸惑っている昨今であります。多くの子どもたちが、秘密裏に重労働に強制的に従事させられ、賃金も支払われないような、まさに「奴隷」のように働かされているのですね。この事実を知ったマスコミが、大手のロックフェラーが経営する穀物商社カーギル・ネッスル社の経営者に詰問しても答えず、無視したのだそうです。独裁国家の独裁者が問題とされている昨今、このような前近代的な労働搾取が行われ、誘拐事件や人質といった問題を、無視しながら会社経営をしている実態も、どうしても看過できないものです。今後、チョコレートは美味しいのに変わりがありませんが、苦味を覚えながら、マリの子どもたちが親元に帰るか、正統な賃金で働くことができるように願う時としようと決心しております。

《児童の商業的性的搾取に反対する世界会議「宣言」》 http://homepage3.nifty.com/naga-humanrights/shiryo1/child-sakusyu1.htm

をお読みいただきたいと願っています。

(写真上は、http://mikado.gunmablog.net/d2009-01.html所収の「チョコレート」、写真中は、I AM BLOGGING NOW所収の「マリ共和国の子どもたち」、写真下は、「マリ共和国地図」です)

仁医

昨日の夕方、長男の運転する車に乗って、家内が2週間ぶりに退院し、嫁と孫の待つ家に帰ることができました。

そういえば2月15日の夕飯後のことでした。激痛を訴えた家内のために救急車を呼んだのです。『掛り付けの病院に電話を入れて、受け入れを尋ねてください!』と駆けつけてくれた隊長さんに言われ、長男が◯大附属病院に電話をしましたら、『近くの病院で診てもらって下さい!』との返事でした。この隊長さんが、電話で受け入れ病院を見つけてくださり、近くの救急病院の「朝霞台中央病院」に搬送してしてくれました。夜勤の救急医の◯井医師が、丁寧に応急手当をしてくださいました。すでに一ヶ月も家内を診察し、検査して、病状とデータを持っている病院が最適とのことで、◯大に4度も電話で、受け入れをお願いしてくれましたが、診療を断られたのです。危急を要しましたので、彼が何カ所も電話で探してくださって、「板橋中央総合病院」に搬送の手続きをしてくださいました。もう11時をとっくに過ぎていましたが、板橋の病院は快く受け入れてくださいました。当番医のH医師が診察してくださり、即入院の措置をとってくださって、15日の未明に入院したのです。翌朝、◯大からの電話で、『5万円の部屋があるが入院しますか? 』と言ってきたようです。もう入院し、危機を脱していましたので、診療拒否をした病院の治療にすがろうとの思いは、家内も私も、まったくありませんでした。

朝霞台の先生は、電話で応対した◯大の当直医、二名の名前を、『記録しておいてください!』と、名を教えてくれました。彼は、大変に義憤していたのです。最後に出た医師は、家内の主治医の部下で、主治医に聞いての診療拒否の返事だったようです。私は、命の危険のある急患、しかも一月も診てきた患者を、こう言った形で他の病院と医師に委ねてしまう医療姿勢に怒りを覚えて、「内容証明」で院長に抗議しようと思いましたが、大人気ないのと、受け入れてくださった、「板橋中央総合病院」の医師団の懇切丁寧な診療に感謝して満足でしたので、取りやめました。朝霞の先生の言葉によると、死の危険のある重篤な病状だったと言っておられましたから、なお更のことでしたが。そういえば、搬送してくださった救急隊長が、この◯大の名を戴いた練馬の姉妹病院について、『あの病院はちょっと・・・』と、言葉を濁していたのを思い出したのです。そんな病院でも、自分の患者を受け入れてくれる病院を、見付けて紹介もしなかったのは、致命的な問題のようです。それに引き換え、朝霞の先生の配慮にはなおのこと感謝を覚えてなりません。

田舎の名のない病院の医師の方が、実(じつい)も、義も、腕もあるのを知って、《大病院志向の姿勢》の無意味さを教えられて感謝した次第です。ついでももう一言、言って止めることにします。こう言えば、きっと溜飲を下げることができるからです。でも、やめましょう。だって家内は、『この板橋の病院に委ねることができるように、私を大きな力で導いてくれたので、誰も恨んでいませんよ。こちらの医師や看護師のみなさんの医療姿勢に大変感謝していますからね!』と言って平然としているからです。

これこそが、言葉に尽きる15日間の「医療体験」の顛末でした。私は今回、はじめて救急車に、家内は、幼かった次男に付き添っての経験がありますが、自分の病気での経験ははじめてのことでした。救急隊員の方々も、救急病院の医師や看護師や事務職員の適切で臨機応変な応接に感動させられた春のような経験でもありました。彼らには、食べるための仕事という以上の《使命感》を感じさせられたのです。◯井医師は、朝から休まずに、夜の11過ぎまで働いていたと聞きました。さて、この金曜日には、あの晩の当番医のH医師の診察が待っています。その診断で、手術の日取りが決まることでしょう。無事に終わることを信じ、孫たちの激励に励まされている、「仁医」と出会えて心の高揚する「雛祭り」の前の晩であります。

(写真上は「朝霞台中央総合病院」、下は「板橋中央総合病院」です)

ブーメラン


「若気の至り」、みなさんにはおありでしょうか。同じ学校に入った同級生が、『お前って、ケンカが強いんだってな!』と話しかけてきたことがありました。彼は都内の私立高から、私は都下の私立高から入学したのですが、彼が、そういった情報をどこから得たのか不思議でした。彼と私のそれぞれの同級生が、同じN大の同期生で、どうも私のことが噂になっていたようで、そこで話されたことが、私に伝わってきたのです。「噂話」というのは独り歩きしていって、不思議な方法で戻ってくるので、「ブーメラン」のようだなと、ときどき思わされています。

高橋和巳が「堕落」という小説を書きました。戦時中、満州で青年期を送った人物が主人公です。満州国の設立のために、その若い力を注いで、人に言えないような危ういことをして、夢敗れ敗戦を迎えるのです。日本に帰国してから、彼は一変して、「社会事業」を始めるのです。その彼の功績が認められて、ある全国紙の社会事業部門の表彰を受けることになって、その式に出席します。忠実に彼の働きを支えてきた女子職員と同行するです。表彰台に登って、栄誉を受けた彼は、その晩、かつての仲間たちが設けてくれた祝賀会で、それまで断つていた酒を飲んで、彼らの祝福を受けるのです。その日、地方都市で、誰にも目を向けられない戦争の落とし子への地道な彼の奉仕が、世間に知らされることになったのです。それと同時に、彼の隠されていた過去が露になっていく、そういった筋書きです。その晩、同行の職員を犯してしまいます。そして賞としてもらった金を胴巻きに巻いて、都内の歓楽街に繰り出すのです。その路上で、これも酔った若者たちの集団と出くわします。老いぼれた田舎者の彼を、からかおうとでも思ったのでしょうか。手を出された彼は、降る雨を避けるために手にしていた傘を、腰に構えると、年寄りとは思えないような巧みさで、一人の青年の腹部を突いてしまいます。この傷害事件を通して、彼の功績が瓦礫のようにして崩れ落ちて、「堕落」の坂を、真っ逆さまに転げ落ちていってしまう、こう言った終章で話が終わるのです。

私は、この小説を読んでからというもの、人の生涯を、一つの流れの中で捉えることを学ばされたのです。この主人公の「善行」は、『過去を償いたい!』という良い動機だったに違いありません。軍国主義、東洋制覇、満州国建国、父の世代の当時の青年たちにとっては、それは自分の命を費やしても余りある世界が広がって見えたのではないでしょうか。国を愛し、父や母や弟妹を愛するには、満州国建国は日本の生命線だと教え込まれたら、それこそが報国の生き方だと思ったのでしょう。しかし、隣国侵犯は法にも人道にも悖った蛮行だったのです。ですから私たちの国が敗戦を喫したのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。「愛国」とは、教育や技能水準を高めて、内に力を蓄えて、国際競争力を武力ではなく技術力で強めることにあります。さらには隣国と助け合い、協力しながら、ともに近代化の道を進むことではなかったでしょうか。ちょうど敗戦後に、焦土の中から立ち上がって、科学技術の面で再生の道をたどったようにしてです。

誤った過去が精算されるのかというと、そうではないのだということを、高橋和巳は、この小説で訴えたかったのでしょうか。男兄弟4人、いえ父を入れますと5人の男の世界で育った私は、何が得意かというと「ケンカ」なのです。負けたことがないというのは、実は怖いことなのです。あの主人公のように、若者に絡まれたら、昔取った杵柄で、拳を振るうのではないかと恐れるのです。付け焼刃のような善人顔の私は、右手を切り落としてでも、あの蛮行をくりかえしたくないと思い続けております。もちろん、私には功績などありませんから表彰される機会はないのですが。「償い」よりも「悔い改め」、これが必要なのだろうと肝に銘じている、春三月であります。

(写真上は、「ミリタリー傘.JPG」の「傘」、下は、【法輪堂】ブログ の「拳」です)