妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情けあり
友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱

「高歌放吟(放歌高吟)」と言うのは、若かりし頃の一つの特性なのでしょうか。あたりを気にしないで、覚えた歌を歌い放って、夢や理想を表現したのです。「蒙古放浪歌」とか、「ゴンドラの唄」、「馬賊の歌」、母から教えてもらった「無情の夢」、軍歌などを好んで歌ったのを覚えています。まだまだ歴史も現世も、まったく未熟な時代に、お酒が入って歌っていました。ある時、私の歌に聞き入っていた、初老のおじさんが、『君、才長けた女なんぞいるものか、そんなもの夢だ、幻だよ・・・』と言われたことがあります。

この歌は、与謝野鉄幹が詠んだ詩に、曲が付けられて旧制の高校や大学の学生が、好んで歌ったのだそうです。バンカラな風情が溢れて、あの時代の青年の理想的な気概が込められていたのでしょう。鉄幹は、質実剛健な詩を詠みましたが、実生活は硬派ではなく、女性に自堕落な軟派だったので、私は好きではありませんが、若い日に、彼の詩に魅せられたのは事実です。文学の世界とは、書き手の性格や生活とは違った《虚構の世界》だというのが当を得た見方なのでしょう。私小説は、赤裸々な生活を描写はしますが、それも事実の誇張であったり、虚飾に満ちていて、故意の扇情にすぎないのでしょう。

さて今日日、若者が、あゝ言った風に歌うのをついぞ見かけたことがないのですが。お酒をやめてしまって、酔うと歌ったですから、そういった世界から遠のいてしまいましたから、聞く機会がなくなったのかも知れません。そぞろ歩きながら、肩を組みながら合唱するといった光景は、きっと、もう過去のことなのかも知れません。中国での生活で、出会った興味ある光景がいくつかあります。一つは、中国で道を歩きながら、自転車に乗りながら鼻歌を歌っているのです。気分がいいのでしょうか、今流行っているからなのでしょうか、それとも自分への激励歌なのでしょうか。もう一つは、肩を組みながら歩いている様子です。お母さんと息子、おじさん同士なのです。日本の十代の中頃の少年が、お母さんと手をつないで歩いたり、肩を組むなど、周りを気にしてまずありえません。ところが中国の私たちの住む地域では、よく見掛けるのです。また。40代くらいの男性二人が、そうしているのです。おかしな二人ではなく、まさに親友同士なのです。

そういった姿を、中国でよく見かけるので、家内は私と腕を組みたがるのです。私は硬派で軟弱なのが嫌いに生きてきましたが、この何年か、彼女の要求を、やっと受け入れられるようになりました。健康だった妻が病んで弱くなったこともあって、そうすることが自然になったのです。昔、《才長けた妻》を夢見て、あのおじさんの呪文にひっかかって、『いない!』と結論したのですが、長所と短所を合わせ持つ私、いえ短所のほうがはるかに勝って多い私が、妻に長所ばかりを期待しても始まらないのに気づいたのです。

鉄幹にとっての晶子は、そうだったのかも知れませんが、私にとっての家内は、才も美も情も、晶子には劣るかも知れませんが、「実(じつ)」のある《良き半分》でることだけは確かです。相手に理想を求めるなら、私も相手の理想に近づかなければならないことになりますね。ときどき男の左腕に、好きな女の名で《〇〇命》と彫られているのを見掛けましたが、『今でも《◯◯命》のかな?』と、ふと思い怪しむ、入院中の妻の恢復を願う見舞い帰りの私であります。

(写真上は、「自分史 私と映画と人生と」に掲載のもの、下は、京都府情報局の写真です)

異常なし!

きょうの「内視鏡検査」の時、担当医が、『お酒やタバコをやりますか?』と聞きました。内視鏡を、喉から入れたのですから分かっていたのに、規定通りに聞いてこられたのです。『25の時に両方ともやめました!』と答えたのです。その断酒と断煙の決断が、今でも正しかったと思っています。あのまま無茶飲みしていたら、今頃は、肝臓や肺を壊して死んでいたことだろうと思うこと仕切りなのです。そう思っている私に家内は、何時でしたか、『いいえ、病死よりも、きっと女に殺されているでしょう!』と、はっきり言われてしまいました。それを聞いていたアメリカ人のご婦人が、さもありなんとでも思ったのでしょうか、呵々大笑して笑い崩れてしまいました。そんなに恨まれるようなことを女性にしてきた覚えはないのですが。今、息子の家の二階にいますが、それは家内の《誤解》です。

ご自分の会社の会計の手伝いをさせてくださった社長さんがいました。2~3年、お手伝いさせていただいたでしょうか。彼がときどき、うなぎ屋や、蕎麦屋や、焼き鳥屋でご馳走してくれたのです。何時でしたか、町一番のうなぎ屋で、彼が日本酒の生酒を、猪口に一杯注いで、飲むように、私に勧めてくれたのです。ほとんどの場合は、お断りするのですが、その時は、断る理由がなかったからでしょうか、彼と同じようになってあげたかったのでしょうか、何十年ぶりに飲んでみました。それが喉を通ったときに、『うまい!』と、思ってしまったのです。でも、お酒はそれっきりです。

学校を終えて社会人となって職場に入った私は、好きでもない酒を、仕事の中で誘われるままに習慣的に飲むようになっていました。若気の至りで、その量が増え続けてていて、生活も乱れ始めていました。地方に出張すると、私立学校の理事長や校長が、夕方になると宴席を設けてくれるのが常でした。父の世代、いえ父よりもひと回りもふた回りも年配の地方の名士が、東京からやってきた若造を、接待してくれるのです。そんな繰り返しをしていた私は、『このままだと滅んで、自分の人生は終わってしまうのではないか!』との恐れが心を満たしたのです。それが1つの理由で、私は悪習慣から離れたのです。

その頃、福岡県の久留米にいた、上の兄家族を訪ねました。大学の運動部に入っていて、大酒を飲み、たまには殴られたこともある兄が、全く考えられないような、変えられた生活を、そこでしていたのです。彼の家に二泊ほどしたときに、彼の生き方に感染したのでしょうか、無軌道な生き方をやめるような気持ちに、背中を押されたのです。翌年、都内の高校で教えるようになりました。

自分の人生が大きくカーブを切り始めたのがその頃だと思います。結婚もし、とてつもない不思議な力が、自分を貫くような入り込んで、荒れていた生活を改められたように感じたのです。さまざまな悪癖から、スパッと解放されたのです。

その頃、生意気な私を、新潟県下で高等学校の校長をされてて、退職後、同じ職場にいた上司や、W大の国文科の科長をされていた教授が、何故か私のことを気にかけてくださっていたのです。俗な言い方をすると、可愛がってくれたのです。もう召されたであろう、多くの方々を思い出して、心からの感謝が沸き上がってきております。精密検査の必要を、担当医に言われたとき、やはり最悪の事態も考えて置かなければならないと思いましたが、『今のところ、異常なし!』と言われてひと安心というところです。少なくとも、次回の検査までは、病気のことは考えずに、健康管理に励みながら生きていこうと思っております。

明日、「眼底検査」を受けようと思っています。4人の子どもたちが、『お父さん、「人間ドック」を受けるべきです!』との勧めを、ひとたびは拒んではいたのですが、聞いて受けてよかったと思う、積もった春の淡雪が溶け始めている夕べであります。

(写真上は、国土交通省撮影の久留米市の「筑後川」、下は、経鼻内視鏡の「図」です)

药(薬)

昨晩の夕食は「餃子」でした。先週末、息子家族と家内が招かれて、《ギョーザ・パーティー》に参加してきました。日本で仕事をする中国人のみなさんが、開いていたのだそうです。残った餃子の餡を頂いてきましたものを、家内が、市販の餃子の皮に包んで、水餃子にしたもので、とても美味しく頂きました。あるブログに、こんな記事がありました。

『日本人の大好物のつである「餃子」は中国の東漢時代に由来し、当時の名医・張仲景(ヅァン・ゾンジン)が創案したものである。それは元々形が耳に似ていることから、当時「嬌耳(ジャウ・ア)」(可愛い耳)と呼ばれていた。餃子を作った張仲景はどんな難病でも治すことができる優れた医術の持ち主であり、 民衆から聖医と呼ばれ、道徳家でもあった。張氏は、貧困層に対しても富裕層に対しても真面目に診療を行い、多くの命を救った。疫病が流行ったある年に、張 氏は勤め先の政府庁舎前で、大きな釜を設置し薬を煎じて多くの民衆を救ったため、民衆の敬愛を得ていた。

張仲景が引退後、故郷に帰ったが、歯を食いしばって飢えと寒さを忍ぶ多くの貧しい民衆の耳が凍傷になった悲惨な状況を知り、民衆を助けることを決心した。多くの患者が治療を求めに来る ため、張氏は多忙な毎日を送った。張氏は飢えと寒さを忍び耳が凍傷に冒された民衆のことがどうしても気がかりであった。』

とありました。このように中国原産の「薬」と言われた餃子は、今日日、日本ではラーメンと共に「国民食」だと言えそうですね。この帰国の2週間に、もう4回ほど餃子を食べているのには、驚かされてしまいます。この「餃子」のせいでしょうか、今朝受けました、《内視鏡検査》では、『あなたの胃には問題ありません!』との医師の診断でした。中国に再び帰ったら、せっせと餃子を「薬(药yao)」として食べることにしましょう!

(写真上は「張仲景」、下はh tp://blogs.dion.ne.jp/xiongmao/archives/8335677.htmlの「水餃子」です

バリウム

冬休みには、避寒ということで、長女のいますシンガポールに行く予定を立てていました。ところが、昨秋、家内が入院治療をしました関係で、日本に帰って治療を継続したほうがよいとのことで、急遽日本への帰国に変更いたしました。胆石性膵炎の手術と、査証の更新のために帰国したのですが、家内の手術は、精密な検査をしてから決める、最悪の場合のみ手術で、極力、リスクの大きい手術は回避したいとの医師の診察でした。私たち家族は、手術なしの治療を、心から願っているところです。手術することしか思いになかった私たちにとって、順天堂医院のF医師の言葉は、”good news”でした。きっと、手術することなく中国の《鞘(さや)》に戻れるのではないかと思っております。

「査証」ですが、2年間の許可がおりました。多くの人にご心配していただいたのですが、円滑に入手することができ、「一件落着」、いえ「二件落着」といったところです。実は、三件目があるのです。家内の思いもよらない疾患で、昨秋11月には市立病院に一週間入院治療をし、退院後も、中国漢方医の医師の診察、医科大学付属病院での診察を経ての帰国で、両親の「健康不安」を覚えたのが、四人の子どもたちでした。『お母さんだけではなく、この際、お父さんも、しっかり検査をしてください!』と、全員から言われてしまいました。今朝、私は意に反して、家の近くにある大きな病院で、「人間ドック」の検査に行ってきたのです。多分20年ぶりのことであります。それでも、ほぼ毎年、中国の町の検査を受けてきておりますから、帰国時の検査は不要だと思っていましたし、なにか発見されて束縛されたくないとの思いもあって、避け続けてきたのですが、今回ばかりは拒めませんでした。今、バリウムを飲んだ後の不快感に悩まされています。一週間後に結果が出てまいりますが、帰りの飛行券は手元にありますから、何も発見されないで、中国の町に戻れるのだろうと思っております。

父は退院の朝に倒れて不帰の人となったのですが、『俺も!』と思ってはみますが、だれも願うようには死んでいくことができません。人には、《生きる責任》があるのでしょうか。妻のために、子どもたちのために、可愛い孫のために、そしてまだまだ元気な母のために、社会的な責務が残されているのだと思わされるのです。中国の地には、帰国前に『再見!』と言ってくれた学生のみなさんがいて、彼らに会う責任もあるわけです。そうしますと、まだ死ぬわけにはいかないのですが、これだって、私の願いにはよらないことになります。

「オリンポスの果実」を書いた田中英光が、太宰治の墓の前で、子どもたちに、『さようなら!』との遺書を残して自死しますが、彼と同じく小説家になった息子さん(光二氏)が、そんな父を語っていたのを読んだことがあります。虚構の世界をさまよう小説家が、書けなくなると死を選ぶ事例が多いようです。「老人と海」を読んで感動した中学生の私は、それを書き著したヘミングウエイが、銃を用いて自らの命を断ったのを知ったときは、ショックでした。みんな人は、旅人のように、この世に寄留して、それぞれの短い人生を生きるようにと、いのちの付与者に命じられているのですね。どうせ生きるなら、楽しく喜ばしく生きたいものです。そして、『よく生きた!」と、子や孫に言われるように生きてみたいものです。与えられた天職があって、それを全うすべく、来週は機上の人となりたいと願う、バリュウムの喉越しの残る、暦の上では「節分」の夕方であります。

(写真上は、「順天堂医院(御茶ノ水)」、下は、大阪大学医学部の「バリウムと発泡剤」です)

代官山


渋谷から、東急東横線の電車に乗って1つ目の駅が「代官山」で、ここに引っ越して部屋を借りた次男を、今週訪ねたのです。ここは、東京の「住みたい街」の上位に位置する《人気スポット》で、若者好みの街です。正面口付近に立って、お洒落した若者たちを眺めている私を、息子が出迎えてくれました。駅周辺はアパート群で、階下には瀟洒な店がならんでおります。渋谷の街の喧騒から、ちょっと離れただけで、こんなに閑静な街を形作っているのが、いささか不思議な感じがいたします。息子に聞きますと、この周辺は、IT 関係の会社の多い街だそうで、彼もまた、その業種に従事しております。

もう50年も前のことになるのですが、私は新宿で「山手線」に乗り換えて、目黒からバスに乗って学校に通っておりました。宮益坂を登って行く青山学院のある六本木方面は、けっこうにぎやかだったのです。渋谷駅は、谷間にあるように坂の多い街の谷間にあって、山手線の外側は、低い軒を連ねた平凡な住宅街だったのを覚えています。今回、帰りには、「恵比寿」から電車に乗り込んだのですが、当時は、エビスビールの工場があっただけで、何もなかった駅の周辺が、繁華な街になっていたのにも驚かされて、初めて恵比寿の駅を利用しました。昔日の感がまったくなく、大都会に飲み込まれてしまったようです。

江戸時代には、「目黒のさんま(落語の演題)」に出てくる殿様が狩りをした地に近いのですから、この辺も原野だったのでしょうね。昭和二十年代の中頃になって、『四人の子どもたちの教育を、どうしよう?』と考えた父が、中部山岳の山村から出て、家を最初に見つけたのが、新宿でした。横須賀で生まれて、若い時を東京で過ごした父にとっては、《東京通》でしたから、そう思いついたのでしょうか。甲州街道(20号線)の道沿いにある南口駅の近くだったようです。今のような賑わいはありませんでしたが、当時も歓楽街だった新宿に住むことをためらった父は、東京都下の街に家を買い求め、そこで私たち兄弟は育ったのです。

結婚前の家内の本籍地は、東京・本郷で、「切通し坂町(湯島)」でしたから、そこは、《ちゃきちゃき》の江戸だったことになります。そういえば、今日日、町の名までが、「町名変更」で、実に情緒が無くなってしまったのを感じて、ちょっと寂しい思いもいたします。「渋谷」だって、武将の渋谷氏にちなんで呼ばれた街であり、「代官山」も代官町の名残でしょうし、父が一時は住もうと考えた「新宿」だって、かつては「内藤新宿」と呼ばれた、日本橋から始まる甲州街道の最初の宿場町だったのですから。

そんな都会の狭間の息子の部屋で、一泊したのですが、実に静かな夜でした。窓の密閉度が、そうさせただけではなく、都会の喧騒などまったく聞こえてこなかったのですから、「大人の街」といったらいいのかも知れません。息子と夕食を済ませた後、寄ったパン屋さんの会計は、中年の流暢な日本語を話すイタリア人でした。家内は、長男の家族と一緒に、長女はシンガポールの海の見える部屋で、次女はオレゴンの家で過ごしていることを思って、散り散りになった我が家族の無事を願った、次男の代官山の部屋の一日でした。

(写真上は、東急東横線の「代官山駅」、中は、「目黒のさんま祭り」、下は、「切通坂(湯島)」です)