渋谷から、東急東横線の電車に乗って1つ目の駅が「代官山」で、ここに引っ越して部屋を借りた次男を、今週訪ねたのです。ここは、東京の「住みたい街」の上位に位置する《人気スポット》で、若者好みの街です。正面口付近に立って、お洒落した若者たちを眺めている私を、息子が出迎えてくれました。駅周辺はアパート群で、階下には瀟洒な店がならんでおります。渋谷の街の喧騒から、ちょっと離れただけで、こんなに閑静な街を形作っているのが、いささか不思議な感じがいたします。息子に聞きますと、この周辺は、IT 関係の会社の多い街だそうで、彼もまた、その業種に従事しております。
もう50年も前のことになるのですが、私は新宿で「山手線」に乗り換えて、目黒からバスに乗って学校に通っておりました。宮益坂を登って行く青山学院のある六本木方面は、けっこうにぎやかだったのです。渋谷駅は、谷間にあるように坂の多い街の谷間にあって、山手線の外側は、低い軒を連ねた平凡な住宅街だったのを覚えています。今回、帰りには、「恵比寿」から電車に乗り込んだのですが、当時は、エビスビールの工場があっただけで、何もなかった駅の周辺が、繁華な街になっていたのにも驚かされて、初めて恵比寿の駅を利用しました。昔日の感がまったくなく、大都会に飲み込まれてしまったようです。
江戸時代には、「目黒のさんま(落語の演題)」に出てくる殿様が狩りをした地に近いのですから、この辺も原野だったのでしょうね。昭和二十年代の中頃になって、『四人の子どもたちの教育を、どうしよう?』と考えた父が、中部山岳の山村から出て、家を最初に見つけたのが、新宿でした。横須賀で生まれて、若い時を東京で過ごした父にとっては、《東京通》でしたから、そう思いついたのでしょうか。甲州街道(20号線)の道沿いにある南口駅の近くだったようです。今のような賑わいはありませんでしたが、当時も歓楽街だった新宿に住むことをためらった父は、東京都下の街に家を買い求め、そこで私たち兄弟は育ったのです。
結婚前の家内の本籍地は、東京・本郷で、「切通し坂町(湯島)」でしたから、そこは、《ちゃきちゃき》の江戸だったことになります。そういえば、今日日、町の名までが、「町名変更」で、実に情緒が無くなってしまったのを感じて、ちょっと寂しい思いもいたします。「渋谷」だって、武将の渋谷氏にちなんで呼ばれた街であり、「代官山」も代官町の名残でしょうし、父が一時は住もうと考えた「新宿」だって、かつては「内藤新宿」と呼ばれた、日本橋から始まる甲州街道の最初の宿場町だったのですから。
そんな都会の狭間の息子の部屋で、一泊したのですが、実に静かな夜でした。窓の密閉度が、そうさせただけではなく、都会の喧騒などまったく聞こえてこなかったのですから、「大人の街」といったらいいのかも知れません。息子と夕食を済ませた後、寄ったパン屋さんの会計は、中年の流暢な日本語を話すイタリア人でした。家内は、長男の家族と一緒に、長女はシンガポールの海の見える部屋で、次女はオレゴンの家で過ごしていることを思って、散り散りになった我が家族の無事を願った、次男の代官山の部屋の一日でした。
(写真上は、東急東横線の「代官山駅」、中は、「目黒のさんま祭り」、下は、「切通坂(湯島)」です)