今日は、検査のために、最寄りの駅から急行電車に乗り込んで、池袋に出て、JR山手線の神田にあります、「MRIクリニックセンター」まで出かけてきました。ラッシュを外れていましたので、電車は空いていたのです。車両には「優先座席」がありまして、病院通いの家内のためにと思って、その座席のそばに立ちました。反対側には白髪の男性の年配者が吊革を掴んで、奥様の席の前で立っていました。数駅向こうから乗り込んでこられたのでしょう。ところが目の前の席には、年配者の他に一人の20代の女性が何食わぬ顔で座って、携帯を操作していたのです。通路を挟んで、その反対側に家内が立っていました。目の前の3人がけの座席には、年配者と二人の高校生が座っていました。その高校生たちはゲームに熱中していたのです。よく見かける車内風景です。

ところが中国の公共バスですと、この様相は全く違うのです。年配者が乗ってきて、カードで乗車賃を支払う操作をしますと、『ラオレン・カー(老人卡)!』とコンピューター読み取って音声で応答します。バスの前方に座っている若者は、それを聞きますとさっと立って、席を空けて、いつでも座れるように譲るのです。そうでなくても、年配者の気配がすると、席を立って譲っています。

この違い、この差について、しばらく考えてみました。私たちの時代ですと、ゲームも携帯電話も文書版や週刊のマンガもない時代でしたから、若者が座っていて、目の前に年配者が来ると、『どうぞ!』と譲るのが常でした。それよりも席が空いていても、若者は座ることを避けていたのではないでしょうか。親子連れで電車やバスに乗っていて、子どもが席に座っていて、老人がそばに来ると、お父さんやお母さんは、『◯◯ちゃん、立って席を譲りなさい!』と声をかけてもいました。それが自然になされていたのです。現代の中国と、まったく同じでした。

『なぜ若者は席を譲らないのか?』という社会学的考察をされる方が、『席を譲られたくない老人がいて、断らることが多くて、それで現代青年は席を譲らいのだといった理由もあるのです!』と結論されていました。そうしますと、今日日の日本の年寄りは自分が老人であることを認めたくないからなのでしょう。そうかも知れません。しかし全体的に、近年、《敬老の心》が失われてきているのは事実です。もしかしてこの時代は、プレッシャーで疲れてしまっている若者が多いのかも知れませんね。

中国の街でバスに乗っていて、中年の女性にも男性にも、席を譲られたことが数回あります。若者だけではありません。気がつかないでいる学生に、学生が、席を譲るように膝を叩いたり語りかけて、促している光景も、ちょくちょく見かけます。『科学技術の面で日本には、数段も遅れをとっていますから、私たちは日本に学ばなければなりません!』と、作文に書く学生が何人もいます。彼らは、日本に、アメリカに、ヨーロッパに学ぼうとして躍起なのです。としますと、日本の若者は、中国の若者たちが持っている優れた《社会性》や《人間性》から、多くのことを学ばなければならないのではないでしょうか。

もちろん立派な日本青年も知っています。しかし全般的な傾向として、かつて《よし》とされていたことが忘れ去られて消えかけているのを感じるのは、一概に《年寄りの冷や水》だとは言えないのではないでしょうか。譲られることが多い私は、先日、私の住む中国の街のバスの中で、子どもを抱いているお母さんに、譲り受けた席を譲りました。譲ってくれた学生が、『あれっ!』と言う顔をしていました。私よりも年上の方にも席を譲りました。まだまだ座らなけれ耐えられないほど体力が衰えていないからです。今度中国に戻ったらテニスを、またやろうと意気込んでおります。でも譲られたら、感謝して受け、その席に座るつもりでおります。

(写真上は、「東武東上線の車両」、下は、「中国の公共バスの社内風景」です)

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