きょうの「内視鏡検査」の時、担当医が、『お酒やタバコをやりますか?』と聞きました。内視鏡を、喉から入れたのですから分かっていたのに、規定通りに聞いてこられたのです。『25の時に両方ともやめました!』と答えたのです。その断酒と断煙の決断が、今でも正しかったと思っています。あのまま無茶飲みしていたら、今頃は、肝臓や肺を壊して死んでいたことだろうと思うこと仕切りなのです。そう思っている私に家内は、何時でしたか、『いいえ、病死よりも、きっと女に殺されているでしょう!』と、はっきり言われてしまいました。それを聞いていたアメリカ人のご婦人が、さもありなんとでも思ったのでしょうか、呵々大笑して笑い崩れてしまいました。そんなに恨まれるようなことを女性にしてきた覚えはないのですが。今、息子の家の二階にいますが、それは家内の《誤解》です。
ご自分の会社の会計の手伝いをさせてくださった社長さんがいました。2~3年、お手伝いさせていただいたでしょうか。彼がときどき、うなぎ屋や、蕎麦屋や、焼き鳥屋でご馳走してくれたのです。何時でしたか、町一番のうなぎ屋で、彼が日本酒の生酒を、猪口に一杯注いで、飲むように、私に勧めてくれたのです。ほとんどの場合は、お断りするのですが、その時は、断る理由がなかったからでしょうか、彼と同じようになってあげたかったのでしょうか、何十年ぶりに飲んでみました。それが喉を通ったときに、『うまい!』と、思ってしまったのです。でも、お酒はそれっきりです。
学校を終えて社会人となって職場に入った私は、好きでもない酒を、仕事の中で誘われるままに習慣的に飲むようになっていました。若気の至りで、その量が増え続けてていて、生活も乱れ始めていました。地方に出張すると、私立学校の理事長や校長が、夕方になると宴席を設けてくれるのが常でした。父の世代、いえ父よりもひと回りもふた回りも年配の地方の名士が、東京からやってきた若造を、接待してくれるのです。そんな繰り返しをしていた私は、『このままだと滅んで、自分の人生は終わってしまうのではないか!』との恐れが心を満たしたのです。それが1つの理由で、私は悪習慣から離れたのです。
その頃、福岡県の久留米にいた、上の兄家族を訪ねました。大学の運動部に入っていて、大酒を飲み、たまには殴られたこともある兄が、全く考えられないような、変えられた生活を、そこでしていたのです。彼の家に二泊ほどしたときに、彼の生き方に感染したのでしょうか、無軌道な生き方をやめるような気持ちに、背中を押されたのです。翌年、都内の高校で教えるようになりました。
自分の人生が大きくカーブを切り始めたのがその頃だと思います。結婚もし、とてつもない不思議な力が、自分を貫くような入り込んで、荒れていた生活を改められたように感じたのです。さまざまな悪癖から、スパッと解放されたのです。
その頃、生意気な私を、新潟県下で高等学校の校長をされてて、退職後、同じ職場にいた上司や、W大の国文科の科長をされていた教授が、何故か私のことを気にかけてくださっていたのです。俗な言い方をすると、可愛がってくれたのです。もう召されたであろう、多くの方々を思い出して、心からの感謝が沸き上がってきております。精密検査の必要を、担当医に言われたとき、やはり最悪の事態も考えて置かなければならないと思いましたが、『今のところ、異常なし!』と言われてひと安心というところです。少なくとも、次回の検査までは、病気のことは考えずに、健康管理に励みながら生きていこうと思っております。
明日、「眼底検査」を受けようと思っています。4人の子どもたちが、『お父さん、「人間ドック」を受けるべきです!』との勧めを、ひとたびは拒んではいたのですが、聞いて受けてよかったと思う、積もった春の淡雪が溶け始めている夕べであります。
(写真上は、国土交通省撮影の久留米市の「筑後川」、下は、経鼻内視鏡の「図」です)