バリウム

冬休みには、避寒ということで、長女のいますシンガポールに行く予定を立てていました。ところが、昨秋、家内が入院治療をしました関係で、日本に帰って治療を継続したほうがよいとのことで、急遽日本への帰国に変更いたしました。胆石性膵炎の手術と、査証の更新のために帰国したのですが、家内の手術は、精密な検査をしてから決める、最悪の場合のみ手術で、極力、リスクの大きい手術は回避したいとの医師の診察でした。私たち家族は、手術なしの治療を、心から願っているところです。手術することしか思いになかった私たちにとって、順天堂医院のF医師の言葉は、”good news”でした。きっと、手術することなく中国の《鞘(さや)》に戻れるのではないかと思っております。

「査証」ですが、2年間の許可がおりました。多くの人にご心配していただいたのですが、円滑に入手することができ、「一件落着」、いえ「二件落着」といったところです。実は、三件目があるのです。家内の思いもよらない疾患で、昨秋11月には市立病院に一週間入院治療をし、退院後も、中国漢方医の医師の診察、医科大学付属病院での診察を経ての帰国で、両親の「健康不安」を覚えたのが、四人の子どもたちでした。『お母さんだけではなく、この際、お父さんも、しっかり検査をしてください!』と、全員から言われてしまいました。今朝、私は意に反して、家の近くにある大きな病院で、「人間ドック」の検査に行ってきたのです。多分20年ぶりのことであります。それでも、ほぼ毎年、中国の町の検査を受けてきておりますから、帰国時の検査は不要だと思っていましたし、なにか発見されて束縛されたくないとの思いもあって、避け続けてきたのですが、今回ばかりは拒めませんでした。今、バリウムを飲んだ後の不快感に悩まされています。一週間後に結果が出てまいりますが、帰りの飛行券は手元にありますから、何も発見されないで、中国の町に戻れるのだろうと思っております。

父は退院の朝に倒れて不帰の人となったのですが、『俺も!』と思ってはみますが、だれも願うようには死んでいくことができません。人には、《生きる責任》があるのでしょうか。妻のために、子どもたちのために、可愛い孫のために、そしてまだまだ元気な母のために、社会的な責務が残されているのだと思わされるのです。中国の地には、帰国前に『再見!』と言ってくれた学生のみなさんがいて、彼らに会う責任もあるわけです。そうしますと、まだ死ぬわけにはいかないのですが、これだって、私の願いにはよらないことになります。

「オリンポスの果実」を書いた田中英光が、太宰治の墓の前で、子どもたちに、『さようなら!』との遺書を残して自死しますが、彼と同じく小説家になった息子さん(光二氏)が、そんな父を語っていたのを読んだことがあります。虚構の世界をさまよう小説家が、書けなくなると死を選ぶ事例が多いようです。「老人と海」を読んで感動した中学生の私は、それを書き著したヘミングウエイが、銃を用いて自らの命を断ったのを知ったときは、ショックでした。みんな人は、旅人のように、この世に寄留して、それぞれの短い人生を生きるようにと、いのちの付与者に命じられているのですね。どうせ生きるなら、楽しく喜ばしく生きたいものです。そして、『よく生きた!」と、子や孫に言われるように生きてみたいものです。与えられた天職があって、それを全うすべく、来週は機上の人となりたいと願う、バリュウムの喉越しの残る、暦の上では「節分」の夕方であります。

(写真上は、「順天堂医院(御茶ノ水)」、下は、大阪大学医学部の「バリウムと発泡剤」です)

代官山


渋谷から、東急東横線の電車に乗って1つ目の駅が「代官山」で、ここに引っ越して部屋を借りた次男を、今週訪ねたのです。ここは、東京の「住みたい街」の上位に位置する《人気スポット》で、若者好みの街です。正面口付近に立って、お洒落した若者たちを眺めている私を、息子が出迎えてくれました。駅周辺はアパート群で、階下には瀟洒な店がならんでおります。渋谷の街の喧騒から、ちょっと離れただけで、こんなに閑静な街を形作っているのが、いささか不思議な感じがいたします。息子に聞きますと、この周辺は、IT 関係の会社の多い街だそうで、彼もまた、その業種に従事しております。

もう50年も前のことになるのですが、私は新宿で「山手線」に乗り換えて、目黒からバスに乗って学校に通っておりました。宮益坂を登って行く青山学院のある六本木方面は、けっこうにぎやかだったのです。渋谷駅は、谷間にあるように坂の多い街の谷間にあって、山手線の外側は、低い軒を連ねた平凡な住宅街だったのを覚えています。今回、帰りには、「恵比寿」から電車に乗り込んだのですが、当時は、エビスビールの工場があっただけで、何もなかった駅の周辺が、繁華な街になっていたのにも驚かされて、初めて恵比寿の駅を利用しました。昔日の感がまったくなく、大都会に飲み込まれてしまったようです。

江戸時代には、「目黒のさんま(落語の演題)」に出てくる殿様が狩りをした地に近いのですから、この辺も原野だったのでしょうね。昭和二十年代の中頃になって、『四人の子どもたちの教育を、どうしよう?』と考えた父が、中部山岳の山村から出て、家を最初に見つけたのが、新宿でした。横須賀で生まれて、若い時を東京で過ごした父にとっては、《東京通》でしたから、そう思いついたのでしょうか。甲州街道(20号線)の道沿いにある南口駅の近くだったようです。今のような賑わいはありませんでしたが、当時も歓楽街だった新宿に住むことをためらった父は、東京都下の街に家を買い求め、そこで私たち兄弟は育ったのです。

結婚前の家内の本籍地は、東京・本郷で、「切通し坂町(湯島)」でしたから、そこは、《ちゃきちゃき》の江戸だったことになります。そういえば、今日日、町の名までが、「町名変更」で、実に情緒が無くなってしまったのを感じて、ちょっと寂しい思いもいたします。「渋谷」だって、武将の渋谷氏にちなんで呼ばれた街であり、「代官山」も代官町の名残でしょうし、父が一時は住もうと考えた「新宿」だって、かつては「内藤新宿」と呼ばれた、日本橋から始まる甲州街道の最初の宿場町だったのですから。

そんな都会の狭間の息子の部屋で、一泊したのですが、実に静かな夜でした。窓の密閉度が、そうさせただけではなく、都会の喧騒などまったく聞こえてこなかったのですから、「大人の街」といったらいいのかも知れません。息子と夕食を済ませた後、寄ったパン屋さんの会計は、中年の流暢な日本語を話すイタリア人でした。家内は、長男の家族と一緒に、長女はシンガポールの海の見える部屋で、次女はオレゴンの家で過ごしていることを思って、散り散りになった我が家族の無事を願った、次男の代官山の部屋の一日でした。

(写真上は、東急東横線の「代官山駅」、中は、「目黒のさんま祭り」、下は、「切通坂(湯島)」です)