原発事故処理に当たっておられる消防隊員、警察官、防衛隊員、東電社員のみなさんの勇気と使命感をもって、国を最大危機から救おうとする任務ぶりを、ここ遠隔の地・首都圏から応援するにつけ、《日本人の強さと弱さ》について、中学校の3年間担任として、社会科の担当として教えてくださったK先生の言葉を思い出しています。中学入学当時、三十代の後半だった先生でしたから、戦時には兵役に就いていたのではないかと思っていました。
師は、戦争体験については何一つ語りませんでしたが、サイパン島の崖上から投身自殺をする婦人たちを、遠くからアメリカ軍艦上から撮影した映像を、課外の視聴覚教室で、中学3年の私たちに観せてくれました。悲劇を生んだ戦争への警告を、平和の中で教育を受ける私たちに告げたかったのか、と思ったことでした。中学3年といえば14歳、少年兵、予科練兵として兵役に就き得た年齢でしたから、観て当然、過去を知って当然であると判断されたからなのでしょう。K先生が言われたのは、『日本人は兵士になる適性をもっともよく備えた国民です!』ということでした。その理由を3つ挙げられました。1つは、《命令に対して従順》、2つは、《残忍になれる》、3つは、《死を恐れない》といわれました。『この身に、そんな資質を帯びているのか!』と慄然とされた頃のことを思い出します。
2008年の秋だったと思います。私たちの若い中国の友人のおばあちゃんが、私たちを初めて食事に招いてくれました。私たちが「日本語研究会」を持っていることを知った彼が、忠実に集ってきて、その交わりを楽しんでいました。その孫に示してくれる世話への感謝を、私たちに表しかったからでしょうか、14種類ほどの料理を食卓に載せて用意してくれました。その大歓迎ぶりに驚かされて、その好意を無にしたくなく勧められるままに満腹以上にご馳走になってしまったのです。
このおばあちゃんは、南京や上海に近い江蘇省の田舎で生まれ育ち、人民解放軍に従軍して、高級将校のご主人と、朝鮮動乱に参戦された過去を持っておられます。退役された今は、閑静な「干休所(退役幹部将校の宿舎)」にお二人で住んでおられます。食卓で、戦時中のことを謝罪した私は、『おばあちゃんの戦争体験について正直に語ってくださいますか?』と、無理に求めたのです。彼女は、苦渋の漂う表情の中から、やっとのことで話してくれました。彼女の育った村もまた、日本軍の攻撃を受けて焼かれ、多くの住民が殺されたのだそうです。彼女自身も、その放たれた火で火傷を負われたとのことでした。その彼女の招きが、「日本鬼子」の私たちへの彼女の《赦罪》だったのを知って、どんなに感謝したことでしょうか。従順という名の《盲従》、鬼畜のような《残忍》、死を恐れない《玉砕精神》が、ひとりの少女の体と心を傷つけたことになります。そんな《ひとり》が、中国大陸と東南アジと太平洋諸島に夥しくいるのです。そんな一人の人の心に、少しの癒やしをもたらすことが、彼女の孫を介してできたのかも知れません。
戦時にみられた日本人の《弱さ》が、多くの悲劇を残しはしたのですが、今まさに、「福島原発」の復旧の業に従事している諸氏の中に、それにかわる《強さ》をみています。その死を恐れないで救国の業に励む姿は、《光輝》を放っております。命令されたのではなく、自発的に献身している姿は雄々しく《忠誠(職務と同朋へのものです)》そのものです。人を滅ぼしてやまなものへの怯むことのない攻撃精神は、《武士(もののふ)の心》であります。
日本と日本人が、長い歴史の中で培い、天から賦与された《強さ》を身にするみなさんの献身を、心から誇ります。また私の心は、今、感謝で溢れかえっております。ご無事を衷心より祈りおります。有り難うございます!