仁医

昨日の夕方、長男の運転する車に乗って、家内が2週間ぶりに退院し、嫁と孫の待つ家に帰ることができました。

そういえば2月15日の夕飯後のことでした。激痛を訴えた家内のために救急車を呼んだのです。『掛り付けの病院に電話を入れて、受け入れを尋ねてください!』と駆けつけてくれた隊長さんに言われ、長男が◯大附属病院に電話をしましたら、『近くの病院で診てもらって下さい!』との返事でした。この隊長さんが、電話で受け入れ病院を見つけてくださり、近くの救急病院の「朝霞台中央病院」に搬送してしてくれました。夜勤の救急医の◯井医師が、丁寧に応急手当をしてくださいました。すでに一ヶ月も家内を診察し、検査して、病状とデータを持っている病院が最適とのことで、◯大に4度も電話で、受け入れをお願いしてくれましたが、診療を断られたのです。危急を要しましたので、彼が何カ所も電話で探してくださって、「板橋中央総合病院」に搬送の手続きをしてくださいました。もう11時をとっくに過ぎていましたが、板橋の病院は快く受け入れてくださいました。当番医のH医師が診察してくださり、即入院の措置をとってくださって、15日の未明に入院したのです。翌朝、◯大からの電話で、『5万円の部屋があるが入院しますか? 』と言ってきたようです。もう入院し、危機を脱していましたので、診療拒否をした病院の治療にすがろうとの思いは、家内も私も、まったくありませんでした。

朝霞台の先生は、電話で応対した◯大の当直医、二名の名前を、『記録しておいてください!』と、名を教えてくれました。彼は、大変に義憤していたのです。最後に出た医師は、家内の主治医の部下で、主治医に聞いての診療拒否の返事だったようです。私は、命の危険のある急患、しかも一月も診てきた患者を、こう言った形で他の病院と医師に委ねてしまう医療姿勢に怒りを覚えて、「内容証明」で院長に抗議しようと思いましたが、大人気ないのと、受け入れてくださった、「板橋中央総合病院」の医師団の懇切丁寧な診療に感謝して満足でしたので、取りやめました。朝霞の先生の言葉によると、死の危険のある重篤な病状だったと言っておられましたから、なお更のことでしたが。そういえば、搬送してくださった救急隊長が、この◯大の名を戴いた練馬の姉妹病院について、『あの病院はちょっと・・・』と、言葉を濁していたのを思い出したのです。そんな病院でも、自分の患者を受け入れてくれる病院を、見付けて紹介もしなかったのは、致命的な問題のようです。それに引き換え、朝霞の先生の配慮にはなおのこと感謝を覚えてなりません。

田舎の名のない病院の医師の方が、実(じつい)も、義も、腕もあるのを知って、《大病院志向の姿勢》の無意味さを教えられて感謝した次第です。ついでももう一言、言って止めることにします。こう言えば、きっと溜飲を下げることができるからです。でも、やめましょう。だって家内は、『この板橋の病院に委ねることができるように、私を大きな力で導いてくれたので、誰も恨んでいませんよ。こちらの医師や看護師のみなさんの医療姿勢に大変感謝していますからね!』と言って平然としているからです。

これこそが、言葉に尽きる15日間の「医療体験」の顛末でした。私は今回、はじめて救急車に、家内は、幼かった次男に付き添っての経験がありますが、自分の病気での経験ははじめてのことでした。救急隊員の方々も、救急病院の医師や看護師や事務職員の適切で臨機応変な応接に感動させられた春のような経験でもありました。彼らには、食べるための仕事という以上の《使命感》を感じさせられたのです。◯井医師は、朝から休まずに、夜の11過ぎまで働いていたと聞きました。さて、この金曜日には、あの晩の当番医のH医師の診察が待っています。その診断で、手術の日取りが決まることでしょう。無事に終わることを信じ、孫たちの激励に励まされている、「仁医」と出会えて心の高揚する「雛祭り」の前の晩であります。

(写真上は「朝霞台中央総合病院」、下は「板橋中央総合病院」です)

ブーメラン


「若気の至り」、みなさんにはおありでしょうか。同じ学校に入った同級生が、『お前って、ケンカが強いんだってな!』と話しかけてきたことがありました。彼は都内の私立高から、私は都下の私立高から入学したのですが、彼が、そういった情報をどこから得たのか不思議でした。彼と私のそれぞれの同級生が、同じN大の同期生で、どうも私のことが噂になっていたようで、そこで話されたことが、私に伝わってきたのです。「噂話」というのは独り歩きしていって、不思議な方法で戻ってくるので、「ブーメラン」のようだなと、ときどき思わされています。

高橋和巳が「堕落」という小説を書きました。戦時中、満州で青年期を送った人物が主人公です。満州国の設立のために、その若い力を注いで、人に言えないような危ういことをして、夢敗れ敗戦を迎えるのです。日本に帰国してから、彼は一変して、「社会事業」を始めるのです。その彼の功績が認められて、ある全国紙の社会事業部門の表彰を受けることになって、その式に出席します。忠実に彼の働きを支えてきた女子職員と同行するです。表彰台に登って、栄誉を受けた彼は、その晩、かつての仲間たちが設けてくれた祝賀会で、それまで断つていた酒を飲んで、彼らの祝福を受けるのです。その日、地方都市で、誰にも目を向けられない戦争の落とし子への地道な彼の奉仕が、世間に知らされることになったのです。それと同時に、彼の隠されていた過去が露になっていく、そういった筋書きです。その晩、同行の職員を犯してしまいます。そして賞としてもらった金を胴巻きに巻いて、都内の歓楽街に繰り出すのです。その路上で、これも酔った若者たちの集団と出くわします。老いぼれた田舎者の彼を、からかおうとでも思ったのでしょうか。手を出された彼は、降る雨を避けるために手にしていた傘を、腰に構えると、年寄りとは思えないような巧みさで、一人の青年の腹部を突いてしまいます。この傷害事件を通して、彼の功績が瓦礫のようにして崩れ落ちて、「堕落」の坂を、真っ逆さまに転げ落ちていってしまう、こう言った終章で話が終わるのです。

私は、この小説を読んでからというもの、人の生涯を、一つの流れの中で捉えることを学ばされたのです。この主人公の「善行」は、『過去を償いたい!』という良い動機だったに違いありません。軍国主義、東洋制覇、満州国建国、父の世代の当時の青年たちにとっては、それは自分の命を費やしても余りある世界が広がって見えたのではないでしょうか。国を愛し、父や母や弟妹を愛するには、満州国建国は日本の生命線だと教え込まれたら、それこそが報国の生き方だと思ったのでしょう。しかし、隣国侵犯は法にも人道にも悖った蛮行だったのです。ですから私たちの国が敗戦を喫したのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。「愛国」とは、教育や技能水準を高めて、内に力を蓄えて、国際競争力を武力ではなく技術力で強めることにあります。さらには隣国と助け合い、協力しながら、ともに近代化の道を進むことではなかったでしょうか。ちょうど敗戦後に、焦土の中から立ち上がって、科学技術の面で再生の道をたどったようにしてです。

誤った過去が精算されるのかというと、そうではないのだということを、高橋和巳は、この小説で訴えたかったのでしょうか。男兄弟4人、いえ父を入れますと5人の男の世界で育った私は、何が得意かというと「ケンカ」なのです。負けたことがないというのは、実は怖いことなのです。あの主人公のように、若者に絡まれたら、昔取った杵柄で、拳を振るうのではないかと恐れるのです。付け焼刃のような善人顔の私は、右手を切り落としてでも、あの蛮行をくりかえしたくないと思い続けております。もちろん、私には功績などありませんから表彰される機会はないのですが。「償い」よりも「悔い改め」、これが必要なのだろうと肝に銘じている、春三月であります。

(写真上は、「ミリタリー傘.JPG」の「傘」、下は、【法輪堂】ブログ の「拳」です)