「若気の至り」、みなさんにはおありでしょうか。同じ学校に入った同級生が、『お前って、ケンカが強いんだってな!』と話しかけてきたことがありました。彼は都内の私立高から、私は都下の私立高から入学したのですが、彼が、そういった情報をどこから得たのか不思議でした。彼と私のそれぞれの同級生が、同じN大の同期生で、どうも私のことが噂になっていたようで、そこで話されたことが、私に伝わってきたのです。「噂話」というのは独り歩きしていって、不思議な方法で戻ってくるので、「ブーメラン」のようだなと、ときどき思わされています。
高橋和巳が「堕落」という小説を書きました。戦時中、満州で青年期を送った人物が主人公です。満州国の設立のために、その若い力を注いで、人に言えないような危ういことをして、夢敗れ敗戦を迎えるのです。日本に帰国してから、彼は一変して、「社会事業」を始めるのです。その彼の功績が認められて、ある全国紙の社会事業部門の表彰を受けることになって、その式に出席します。忠実に彼の働きを支えてきた女子職員と同行するです。表彰台に登って、栄誉を受けた彼は、その晩、かつての仲間たちが設けてくれた祝賀会で、それまで断つていた酒を飲んで、彼らの祝福を受けるのです。その日、地方都市で、誰にも目を向けられない戦争の落とし子への地道な彼の奉仕が、世間に知らされることになったのです。それと同時に、彼の隠されていた過去が露になっていく、そういった筋書きです。その晩、同行の職員を犯してしまいます。そして賞としてもらった金を胴巻きに巻いて、都内の歓楽街に繰り出すのです。その路上で、これも酔った若者たちの集団と出くわします。老いぼれた田舎者の彼を、からかおうとでも思ったのでしょうか。手を出された彼は、降る雨を避けるために手にしていた傘を、腰に構えると、年寄りとは思えないような巧みさで、一人の青年の腹部を突いてしまいます。この傷害事件を通して、彼の功績が瓦礫のようにして崩れ落ちて、「堕落」の坂を、真っ逆さまに転げ落ちていってしまう、こう言った終章で話が終わるのです。
私は、この小説を読んでからというもの、人の生涯を、一つの流れの中で捉えることを学ばされたのです。この主人公の「善行」は、『過去を償いたい!』という良い動機だったに違いありません。軍国主義、東洋制覇、満州国建国、父の世代の当時の青年たちにとっては、それは自分の命を費やしても余りある世界が広がって見えたのではないでしょうか。国を愛し、父や母や弟妹を愛するには、満州国建国は日本の生命線だと教え込まれたら、それこそが報国の生き方だと思ったのでしょう。しかし、隣国侵犯は法にも人道にも悖った蛮行だったのです。ですから私たちの国が敗戦を喫したのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。「愛国」とは、教育や技能水準を高めて、内に力を蓄えて、国際競争力を武力ではなく技術力で強めることにあります。さらには隣国と助け合い、協力しながら、ともに近代化の道を進むことではなかったでしょうか。ちょうど敗戦後に、焦土の中から立ち上がって、科学技術の面で再生の道をたどったようにしてです。
誤った過去が精算されるのかというと、そうではないのだということを、高橋和巳は、この小説で訴えたかったのでしょうか。男兄弟4人、いえ父を入れますと5人の男の世界で育った私は、何が得意かというと「ケンカ」なのです。負けたことがないというのは、実は怖いことなのです。あの主人公のように、若者に絡まれたら、昔取った杵柄で、拳を振るうのではないかと恐れるのです。付け焼刃のような善人顔の私は、右手を切り落としてでも、あの蛮行をくりかえしたくないと思い続けております。もちろん、私には功績などありませんから表彰される機会はないのですが。「償い」よりも「悔い改め」、これが必要なのだろうと肝に銘じている、春三月であります。
(写真上は、「ミリタリー傘.JPG」の「傘」、下は、【法輪堂】ブログ の「拳」です)