憧れの街

  君がみ胸に 抱かれて聞くは  (被你拥在怀中 聆听着)
  夢の船唄 鳥の唄       (梦中的船歌 鸟儿的歌唱)
  水の蘇州の 花散る春を   (水乡苏州 花落春去)
  惜しむか 柳がすすり泣く   (令人惋惜 杨柳在哭泣)

  花をうかべて 流れる水の   (漂浮着花瓣的 流水)
  明日のゆくえは 知らねども  (明日流向何方 可知否)
  こよい映した ふたりの姿    (今宵映照 二人的身影)
  消えてくれるな いつまでも   (请永远 不要抹去)

  髪に飾ろか 接吻しよか   (装饰在发稍上吧 轻吻一下吧)
  君が手折し 桃の花      (你手折的 桃花)
  涙ぐむよな おぼろの月に    (泪眼迷蒙 月色朦胧)
  鐘が鳴ります 寒山寺      (钟声回响 寒山寺)

 この歌は「蘇州夜曲」といい、作詞、西条八十、作曲、服部良一、歌山口淑子(李香蘭) 、1940年には映画化されているそうです。かつての日本には、有為な若者を中国大陸に送り、彼らの学びを通して、日本を創り上げていこうという動きがありました。「進取の精神」に富んでいた頃の日本の姿です。そういった使命を託された若者たちが、言葉を覚え、文化に触れながら、優れた中華の法や制度や思想を吸収したのです。こちらの古い建造物を眺めていると、京都や奈良に見られるのと同じ景観を目にします。建物だけでなく、こちらのみなさんの仕草や表情をみますと、新宿や代官山や立川で見られるのとまったく同じです。はにかんだり、遠慮したり、躊躇するのは、日本人ばかりのことではなく、こちらのみなさんのものでもあるのです。

 父が、『俺の爺さんは、政府からイギリスに遣わされ人だった・・・』と話していたことがあります。その祖父が持ち帰った「毛布」を、肺炎で死線を何度もさまよっていた私の体を温めるために、父が自分の実家から持ってきて使わさせてくれました。純毛の高価なものだったのですが、その肌触りを覚えているのです。長安の都やロンドンに、人を遣わせるには、莫大なお金がかかったのでしょうね。金銭にはかえられない有形無形のものを若者たちが日本に持ち帰って、それらを国作りに用いたのであれば、その投資は成功したことになります。最近の日本の若者の傾向は、異文化世界に出て行って、留学する意欲が少なくなってきているそうです。それに比べ、中国や韓国の青年たちは、競うようにして出かけていくのだそうで、少々寂しいものがあります。

 そういった心意気というのは、どの時代の若者にもあるのでしょうか。この歌で歌われる「水の都」と言われる蘇州は、中国有数の景勝地で、かつての日本の若者にとっては「憧れの街」であったようです。異国情緒を楽しみ、恋もしたのでしょうか。庶民のレベルでの交流が、日本と中国との間には豊かにあったことになります。来週、若かった頃の父が訪ね、生活した東北地方の街に出かけてみようと思っています。昔日の趣は、もう見当たらないかも知れませんが。酷暑の大陸ですが、教え子が道案内してくれるとのことで、とても楽しみにしております。

(写真は、蘇州の「古典庭園」です)

米沢のお殿様

 山形県の南部に「米沢」という街があります。戦国武将の中でも、飛び切りに名の高い、仙台の伊達政宗が、生まれた街であります。元々、伊達氏の所領でしたが、江戸時代には、上杉氏の領地となって、明治維新まで続きました。紅花で染め分けた「米沢紬(つむぎ)」で有名で、近年は、リンゴやさくらんぼなどの果実生産でも高く評価されているいます。

 日向の国の高鍋藩主の次男・治憲が、10歳で上杉家8代藩主・重定の養子となります。重定の娘・幸姫を妻に迎え、1767年、家督を次いで、第9代藩主となります。17歳でした。日本に276の藩があったのですが、その中でも名君と称される人物はそう多くありません。この上杉治憲(後に鷹山と称します)ほどに優れた「大名(だいみょう)」はいなかったのではないでしょうか。国家を動かしたのではありませんが、十五万石ほどの小藩の藩主として、その手腕を十二分にふるって、藩政の改革を断行したのです。

 彼の結婚生活ですが、彼の妻は、知的障害を持っていました。治憲は、心からの愛情と尊敬を持ってこの妻を愛します。10歳ほどの知的能力しかない妻に、人形を作ったり、遊び道具を与えたのです。20年間、妻の亡くなる日までその愛は変わりませんでした。藩主として「跡取り(継承者)」が求められて、子を産めない妻に代わって、10歳年上の「側室」を、一人だけもっただけでした。その側室は、米沢に置き、妻に対しての配慮を忘れませんでした。側室との間に子どもたちが与えられますが、しっかりと家庭教育も行いました。

 彼は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』、『貧しい人々へ思いやりの心をもて』、『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』、『徳を高めなさい』と、子たちを教えました。嫁いでいく娘には、『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』と言葉を残したのです。理想的な家庭を建設した人として、治憲は名高い人物です。
 
 その鷹山(治憲)が、家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものに、『伝国の辞』があります。ほんとうに短い3条だけのものですが、上杉鷹山が考えていた「藩主像」は、次のようです。

(写真は、米沢城の堀です)

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
   (国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはな
   らないものです)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
   ( 人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです)

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
   ( 国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられてい
   る国家や人民ではありません)」

 このような理念で、日本という国を建て上げるなら、堅固な国家として再構築できるに違いありません。《政治の私物化》が日本を駄目にしてしまいそうな危機感の中、自分の居室の畳を張り直そうともしない治憲のような指導者を、心から願う必要があります。私たちには、賢い先人たちの知恵があふれるほどに残されているのです。不変の真理に、耳を傾け、謙虚に学び、実行して行かれるようにと願う次第です。

風情

 朝になると、『ナットーオ、ナット!』、夕方になると、『トーフーウ、トウフ!』、夏になると、『キンギョーエ、キンギョ!』、『サオダケーエ、サオダケ!』と売り歩く呼び声が、よく聞こえたものです。最近では、車のスピーカーから録音が流れている場合が多いでしょうか。ここでも、美味しくて有名な饅頭の曳き売りが、夕方近くになると、何人もが同じ呼び声で、自転車とか三輪車、電動自転車売で歩いて売る声を聞きます。日本も中国も同じ風情の中で日常が送られてきているのをひしと感じているところです。イタリアやポルトガルあたりに行くと、同じ光景を見られそうですね。

 兄の友人が、豆腐屋の倅だったので、夕方になると自転車に大きな木箱をつけて売り歩いていました。中学生だったから、「勤労学生」だったことになりますね。お父さんがいたのかどうか知りませんが、家業を継いで店を切り盛りしているのでしょうか。それにしてもトウフとか納豆というのは、スーパーで特売品目になっているので、大量生産を安価で卸しているので、曳き売りは競争することができなくなってきたのではないでしょうか。

 食べ物や物干し竿だけではなく、「クズヤ」とか「バタヤ」と呼ばれるおじさんが、三輪車を曳きながら、『クズヤーア、クズヤ。お払い物はありませんか?』と歩いていたのを思い出します。そういうおじさんの手伝いをして、ドブ川の中に入って、金属物を拾ったことがありました。僅かな小遣いをもらったでしょうか。母に怒られたのを思い出します。

 四国に「大王製紙」という、あの「エリエール」という香りの好いティッシュペーパーで有名な会社です。この会社の創業者は、三輪車を挽いて町から町を歩き回り、「廃品」を回収して歩いていたと聞きます。その主要なものが「古紙」だったそうです。彼は集めリだけでなく、加工も始めたのです。新聞紙をくしゃくしゃとしてハナを噛んでいた時代ですから、アメリカ文化の影響で、やわらかなちり紙が箱に入って出回るようになり、一挙に需要が伸びたのが、このティシュペーパーでした。そういった時流に乗って、日本有数の製紙企業に成長した会社です。四国に行きましたとき、この会社の門前を車で走ったのを覚えています。

 遠慮なんて全くない、いたずら小僧の私たちは、『バタヤーッ!』と遠くから呼びつけては、からかったりしていました。ところが、このおじさんの家に行って驚いたのは、いくつかの小さな会社の責任をもっていた父などとは比べられないほどの、立派な家に住んでいたので驚きました。地道に、廃品を集めて回って生きていると、そんな利益をあげられるのですね。私は山の中から八王子という、東京西部では大きな町に越してきたとき、クラスに「バタヤ」の娘がいるということで、弁当箱を手にお金を持って買いに行ったのです。ところが「バター」などなく、お父さんは廃品回収業だったのです。肺炎を病んで、父が滋養が高いといって、東京のデパートから取り寄せてくれた「バター」を舐めて元気になってきたので、母に願って買いに行ったわけです。笑い話ですね。

 車の台数が増え、町が綺麗になり、高層アパートが林立する中、巷の風情が、この華南の地にはまだまだ残っているので、ちょっとほっとします。道路際に題を出したり、ゴザを引いたりして、いろいろなものを売る店が、家の前の道路にあふれていたのですが。この数ヶ月、市役所の監督の規制でしょうか、なくなってしまいました。『ブーブー!』と独特な音がして、『オイ、コラ、道路を開けろ!』で散っていってしまうのです。果物など、普通の店には比べられなく安かったので、利用価値があったのですが。他の地域の路地裏などには、まだ盛んに露店で物を売っているようです。これも、衛生問題などで、年々減っていく風情なのかも知れません。さびしいものです。

(写真は、〈1956年ころの甲府市内で見かけた「金魚売り」です)

古里

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが 荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が 日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で 妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに 仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある 故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを 待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは 杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば 月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと 想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある 故郷がある

 1973年に、作词、山口洋子、作曲、平尾昌晃、歌、五木ひろしの「ふるさと」がレコードとして発売されました。この年に、20年ぶりに生まれ故郷の街に戻った私にとって、この歌は、とても印象的に聞こえ、『この山や川の街がお前の故郷だよ!』と、再確認してくれたのです。生まれて二ヶ月半の長男を連れて東京から帰ってきたことになります。まだ生まれた家が廃屋のようにでしたが残っており、幼い日に駆け巡った山や川や原っぱの景色も、20年の歳月によってはかき消されてはいませんでした。そこは父と母の故郷ではなく、戦争中、軍務によって赴任してきた父の勤務地だったのです。

 秋には、アケビの実を取って米びつの中に入れては追熟をさせ、柿をとり、栗を拾い、川では魚をとるといった、まさに、小学校唱歌の『うさぎ追いしかの山、小ぶなとりしかの川・・・」の世界だったのです。長女、次女、次男とこの町で生まれました。家内と私にとっては、子育てという大きな責任を、社会的な責任と同じように共に果たした土地でした。たくさんの人と出会い、交わりを持ちましたが、ほんとうに心を許すことの出来た人たちは、やはり僅かでした。裏切られたり、中傷されたりもありました。心を許せる人との出会いは限りがありました。私にとって故郷であっても、この地の方言を話せませんから、どうしても「余所者(よそもの)」に過ぎず、封建的で閉鎖的な土地では、なかなか溶けこむことは難しいものがあったのだと思います。

 父の仕事場のあった山の中には、もう知人はいませんでした。父の事務所のあった街中には友人や知人がいて、『雅ちゃん!』と呼んでくれる人も召されてしまってからは、その方のご遺族とは没交渉になってしまいました。でも、源氏の落ち武者の部落だと言われる土地に、30近くになっていた私を見て、『雅ちゃん?』と呼びかけてくれた父の元部下に会ったのは驚きでした。父の知人がいなくなり、そして私は、その「ふるさと」を6年前の夏に去ったのです。

 しかし、そこには、家内の妹が義母を見るために、私たちに変わって越してきてくれて、残っていたのです。義母が昨日召されましたから、もう私の「ふるさと」には誰もいなくなったことになります(義妹も近くその町を去るかと思いますが)。故郷の父も母もなく、親族や知人がいなくなってしまったら、「ふるさと」は思い出、記憶の中にしかないことになりますね。『・・・あー 誰にも 故郷がある 故郷がある 』淘汰にはありますが、一歩も百畝も遠のいてしまったでしょうか。「さらにすぐれた故郷」のあることを確信し、異国の生活を続けてまいりましょう。

(写真は、あけびの実です)

無欲の馬子

 一人の武士が、主君の命で江戸に赴き、数百両のお金を持参して国もとに帰る旅の途上、雇った馬の鞍にしっかりと結びつけて旅をしていました。夕刻になって、ある宿場町に着いたのです。馬をひいていた馬子は、一日の仕事を終えて家に帰っていきました。しばらくして、彼はその大金の入った金包を忘れたことに気づいたのです。雇った馬子の名前もわかりませんから、探しだすことは全くできでした。とんでもないことをした彼は、家族と家老に手紙を書き上げ、腹を切って死のうとしたのです。

 真夜中になって、誰かが宿の戸を、『トントン!』と叩く音がしたのです。人夫の身なりをした男が、彼を訪ねてきたことを、宿の者から知らされます。その男を見ると彼は驚きました。なんと昼間の馬子ではありませんか。馬子は、『お侍さん、私の馬の鞍に大切な物をお忘れになりませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返しなければと思って戻って参りました。ここにございます。』、そう言って、馬子は彼の前に金の包みを置いたのです。金の包みが戻ってきたことを、この武士は我を忘れるほど喜びました。そして、『あなたは私のいのちの恩人である。いのちが助かった代償として、この四分の一の金を受け取ってもらいたい。』と勧めます。

 しかし、馬子は、『私は、左様なものを受け取る資格はございません。金の包みは貴方様のものです。あなたがもっていらっしゃて当然なのです。』、といって、目の前の金に触れようとしないのです。それで彼は、十両を置くと、断られ、五両、二両、一両と置くのですが、すべて断られてしまうのです。ついに馬子は、『私は貧乏人です。このことで私は4里の道をやってきました。それなら、草鞋の代金として四文だけいただけるでしょうか。』といったのです。そのやり取りの後、やっと彼が馬子に渡せたのは二百文だけでした。喜んで立ち返ろうとする馬子に向かって、この武士が尋ねます。

 『どうして、それほど無欲で正直で誠実なのか。どうか、その得理由を聞かせて欲しい。このようなご時世に、これほどの正直者に出会うとは、思いもよらなかったから。』というと、馬子が、こう答えたのです。『私どもの住む小川村に、中江藤樹という人が住んでおられます。この先生が、そういうことを教えてくださるのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことであるとおっしゃいます。私ども村人一同は、先生から学んで、その教えに従って暮らしているだけでございます。』

 こういった無欲の馬子を教育の力で創り上げた中江藤樹という人は、実に立派な人でした。今日日、この日本の国が必要としているのは、中江藤樹のような教育者、企業人、医者、政治家なのではないでしょうか。中江登場に学んだ馬子のような教育者、企業人、医者、政治家なのではないでしょうか。自分の家に金の延べ棒を隠し持っていたり、土地転がしをして私財を蓄えるような人、また人を巧みに転がして使えられても、日本という1億3千万もの人によってなる掛け替えのない国を転がしていくことなどできようはずがありません。

(画像は、〈京都大学附属図書館 維新資料画像データベース〉の中江藤樹です。中江藤樹のことは、内村鑑三著「代表的日本人」からです)

再見

 福岡県南部、筑後平野を流れる筑後川の河口に、久留米という伝統的な町があります。この町で、1911年3月24日に、家内の母が誕生しました。大きな商問屋を切り盛りする未亡人だった母親のもとで成長します。娘時代、貧しい人を見ると、母親の目を盗んでは、倉庫に跳んでいっては、米を手渡してしまうということを繰り返していたのだそうです。天皇が巡幸された時には、接待役に選任されて、栄誉ある奉仕もしたとか。そんなことを聞いています。「久留米絣(かすり)」で有名な、井上伝をよく助けたこともあったそうです。

 東京の女子大に学び、卒業したら、教員になりたかったのですが、母親に反対され、すぐに結婚し、6人の子をなしたのです。最初の子が生まれた時に、今の天皇陛下の「乳母」に選任されたのですが、何らかの理由で辞退したそうです。戦後、食糧難のおりに、肋膜炎を患い、死線をさまようのですが、奇跡的に医癒しました。離婚問題、子育て問題など、様々な必要のある人を助けて、今日まで生きてきたのです。私の母と町の路上で会って、生涯の友人にもなってくださったのです。

 今朝、北京時間11時半頃に、長男からメールがありました。『本日7月5日午前10時過ぎ、おばあちゃんが天に召されたと、先程、叔母から連絡がありました。これから◯◯へ向かう予定です。午後3時くらいには医大の方が献体の為に亡骸を引き取りに見えられるそうです。叔母は市役所などの手続きで忙しいそうです。 』とありました。この地上での輝かしいこと、戦争中や戦後の困難、よき業のすべてを置いて、天に帰っていったのです。101歳3ヶ月と十日の生涯でした。

 39歳の時に私が大手術を行った時には、ブラジルから駆けつけてくれ、私の傍らにいてくれました。実の母のようにしてくれた義母でした。貧しかったのを知っていたのでしょうか、東京に出て帰りしなになると、いつも握手を求めてきたのです。必ず、掌(たなごころ)に一万円を握らせる握手をしてくれたのです。自分の可愛い娘を嫁がしたのですから、その婿殿も可愛かったのでしょうか。

 人生とは長いようで、短いのですね。造物主のもとで、安からにお過ごし下さい。やがて、再び相目見ゆる日の到来することを心から信じて、さようなら!、再見の方がいいかも知れません。

(写真は、義母が子供時代に嬉々として泳いで遊んだ筑後川の夕日です)

良き指導者を!

 『家庭を治められないで、国を治めることはできない!』、『妻や子が満ち足りないで、国民を満ち足らせることはできない!』、『家族が幸福でないのに、国民を幸福にはできない!』、これは私が教えられ学んだ大原則であります。小さなことに忠実でないものには、どの社会も大事を任せることができないからです。一国の命運を握る政治は、遊戯ではないからです。「新党結成」の必要性が、どこにあるのでしょうか。自分の属した政党を離脱して、何の実績もないまま、新しい政治活動をするなどということは、万死に値します。その上、妻に三行半をたたきつけられているような人が、国運を決めてよいのでしょうか。

 もし小事を忠実にこなすなら、例えば、子育ての半分を自分が責任をとり、老いていく父や母の世話をし、町の貧しい人、病んでいる人たちに暖かな心を向けられるような人は、国体の大事を果たすことができるのです。多くのリーダーが、『私には重大な責任がある。それゆえ家庭のことなどにかまってはおられぬ!』といい、外に愛妾を囲って養う余裕を見せようとしているのです。そうなら「家庭」とは、変人にみられないための隠れ蓑に過ぎなのです。そんな家庭で育つ子どもは悲劇ではないでしょうか。

 「憂国の志士たち」は、自分の立身出世のためにではなく、国の命運が好転していくためにその青春を捧げきったではありませんか。地を這い、辛酸を舐め、打たれ投獄されながらも、明日の国の開明を信じて国家に殉じました。真の政治家たちは、命を賭して、国難に対峙してくれたではありませんか。敗戦という致命的な国情を、過ちを正し、豊かな国家形成の幻をもって立った政治家たちが、幾人もいたではありませんか。 

 その人の意思が国を動かしたと言うよりは、1億もいる国民の安寧を願う大いなる力が、人を立て、用いたに違いありません。否定的な将来しか予測できない今、そういった実績を思い起こし、その勉励努力の上に、国を再建していく、新しい指導者を心から願うのです。党利党略に死に、おのれの名誉心に死んだ、国を思う、国をなす1つ1つの家庭を考える指導者のことであります。理想的な指導者を願うのではありません。理想に向かって砕骨粉身してくれる、金に淡白な心を持つ人が相応しいのです。社会的弱者のために、金など目にくれず、東奔西走している若者たちのいることを知っています。彼らの楽天主義は、『金は必要なら後からついてきます!』と言わせているのです。

 私たちは、自分の国に責任を持って生きていかねばなりません。なるようになるといった日和見な考え方から、自分の国の再興を、切々と願おうではありませんか。彼らの末裔であるなら、きっとできるからであります。

弱音

 「弱音を吐く」、これは、自分の苦しさや辛さを口に出さないことなのかも知れません。自分の母親がそうだったので、この私も、弱音を吐くことが少なく今日まで生きてきたと思います。今回の風邪で、実を言いますと今日も37.4℃ほどあるのですが、うなされはしませんでしたが、初め頭痛が激しく、波のように一晩中繰り返していました。こういった頭痛は、初めてのことで、頭痛持ちの方の苦しさが、やっと分かったようでした。そうしましたら、今度は咳が出てきて、腹筋が痛くなるような咳だったのです。結局、最高体温は、39.4℃で、2日ほど苦しみました。こういった時に、女房は、『痛いよーう!』とか『苦しーよ!』とか言うのですが、私は、こういった言葉を使わないのです。性格なのでしょうは、じっと我慢してしまいます。「上手な感情表現」の記事を読みました時に、その著者は、痛い時には『痛い!』、暑い時には『暑い!』、苦しい時には『苦しい!』と、正直に気持ちを表現したほうがいいと言っていましたが。

 正直に自分の感情を、繰り返し言い続けるのを聞くのは、とても気になってしまうのですが、伴侶の弱音を聞くのは夫の義務なのかも知れないと、まあ納得しているのですが。母が、学校に通っている子どもたちに、『少しでも小遣いを上げたい!』という思いから、町工場でパートと働いていました。その頃は、和菓子の最中を作る工場に勤務していたのです。この工場から、家に帰るときに、向こうから大型のダンプカーがやってきたので、路側帯に自転車を寄せて、車をやり過ごそうとしていました。ところが、その車のボルトで、母の両足に大怪我を負わせたのです。町の病院に運ばれて、痛みに耐えている母の苦しそうな表情を、駆けつけた私はみました。『お母さん、大丈夫?』と聞くと、頭を縦にふって答えていました。言葉にならないほど、苦しかったのでしょう。

 その病院では治療は無理ということで、立川の共済病院に転送されて治療が行われました。なんと1年近くの入院になってしまったのです。一時は、両足切断の危機もありましたが、もち直したしたのでした。その母の負傷直後の様子と、闘病生活を眺めながら、『なんて強い母なんだろう!』と思わされたのです。生まれた時から、弱音を吐く実の母や父なしで、じっと我慢の子で独りで生きてきたので、そういった強さが培われたのでしょうか。きっと言いたいことがたくさんあったのでしょうね。いつだったか、『あなたが女の子だったら、いろいろなことを話したかったけど、男の子だから・・・』と言っていたことがありました。弱く見える母を見せたくない、大正の女の意地もあったのかも知れませんね。90歳前後から、『胸が痛い!』と時々言い始め、帰国するたびに、そう私にも訴えてきたのです。この母にして初めての《弱音》だったと思います。

 後になってから、胸部に疾患があったことが分かったのですが、私たち子どもは「異口同音に、「気分のせい」に決めつけたのでした。帰国時には、『一緒に散歩しよう!』と連れ出していました。それが真実の母の気持ちだったのを、察してあげられなくて、こればかりが心残りです。女房のように、大声で言ったほうがいいのかも知れませんね。きっと自分も、もうすこし年をとったら、弱音を吐くのでしょうか。私は母のように弱音を吐かずに生きようと思っていましたが、加齢は、信念を変えるのかも知れません。それよりも女房に似ていくのかも知れませんね。

(写真は、母の生まれ故郷に咲く「櫻花」です)

39.3℃

 《39.3℃》、日曜日に、冷房の中でうたたねしていて、『さむい!』と思いながら、消さないで昼寝を続けていました。月曜日になって、キリキリと頭が痛み始め、咳がではじめ、寝込んでしまいました。体温を測ると、この体温でした。《冷房に弱い》、これが私の体質なのかも知れません。あるとき、一日のセミナーに出席していました。『やけに寒いな!』と思いながら、我慢していましたら、この時もまた風邪を引いて寝込んだのでした。今とは違って、私たちの国でも冷房機具などなかった時代に、私たちの世代は育ちましたから、こんな厄介な病気にかかることはなかったのです。

 夏には扇風機はあったでしょうか、冬には炬燵もあったでしょう。『暑かった!』とか『寒かった!』という感覚の記憶はほとんどないのです。貧しい時代の記憶というのは、次第に薄れていくのはないでしょうか。結婚した当初、東京の都下で世帯を持ったのですが、クーラーはありませんでした。それでも問題なく生活できたのです。それからしばらくして中部の山岳地帯の街に移り住んだのですが、子育て中のわが家にはクーラーはありませんでした。私の師匠の家にはあったのですが。アメリカの南部の田舎町で、大きな電気商を営んでいた家庭で育った彼には、それは生活必需品だったに違いありません。少し羨ましかったのは事実ですが。

 熱にうなされながら、家内がアイスノンを頭に当ててくれて、『水をどんどん飲んでね!』と勧めてくれました。汗をかき、下着を変える、それを繰り返しながら、昨晩になってから、やっと37.2℃に体温が下がってきました。39℃というのは、半世紀ぶり以上の経験だったようです。小学生のとき、学校を休んで寝ていると、頭がクラクラとして、天井を見ると、その節目がだんだん大きくなったり小さくなったりする《幻覚症状》があったのです。今回の家には木板の天井材は張られてありませんで、コンクリートに白い塗料が塗られてあるので、そういった幻覚はありませんでしたが、小学生の頃を思い出していました。

 昼頃になると、熱が下がってきて、食欲が出てくるのです。すると母が、『お刺身でも食べる?』といっては、リヤーカーで挽き売りをしてくる栗山さんから買ってきて、ホカホカにたいたご飯で食べさせてくれたのでした。今回も、そのことを思い出して、『刺身が食べたい!』と女房に言おうと思いましたが、こちらでは、なかなか手に入りそうにない代物(しろもの)ですから、その言葉を飲み込んでしまいました。その代わりに、大根おろし、どこかで見つけてきた梅干し、おかゆを作ってくれて、やっと昨晩は食べることが出来ました。いつも食欲があるのですが、今回は、食欲がなく、日曜日の晩に、友人夫妻が持参してくださった大きなスイカだけを食べていたのです。

 この《冷房病》というのは、科学病、現代病、贅沢病と言えるのでしょうか。いやー、夏の高熱というのは、実にきついものです。貧乏育ちのわれわれの世代には、どうも似合わない電化機具に違いありません。食欲が出てきたので、食べたいものを思い巡らしている今であります。好きなスイカが、なおのこと好きになってしまいました。   

Oh the Places You’ll Go

2012年7月2日 09:00 (ロケットニュース24)
最高の卒業祝い! 父親が娘のために13年間かけて準備した特別な贈り物とは?

6月といえばアメリカでは卒業式シーズンである。ブレナ・マーティンさんも6月初旬に高校の卒業式を迎えた一人だ。大人社会への一歩を踏み出すその記念すべき日に、ブレナさんは父親から特別な贈り物をもらった。
ブレナさんの父親はその卒業祝いを準備するのになんと13年もの歳月を費やしていた。お金では決して買えないその贈り物にブレナさんは大感動。さらに、この話をネットで知った多くの人々に感動を与えている。
父親は卒業式の日にブレナさんに一冊の絵本を贈った。『Oh the Places You’ll Go(邦題『きみの行く道』)』という題名のその本は、人生のさまざまな出発のおりに贈られる本として知られている。
ブレナさんは本の表紙を見て喜んだ。「とっても嬉しいわ。この本、大好きだから」と。だが、父親は「いや、今その本を開けてみて」 と言う。父親に促され、最初のぺージをめくると、そこには幼稚園の時の先生がブレナさんのために書いたメッセージがぎっしり書きこまれていたのだ。
それを見た瞬間、涙が込み上げてきたとブレナさんはいう。まだ困惑中のブレナさんに対して、父親は言った。「幼稚園に入学してから今までの13年間、毎年、ブレナを教えくれた先生、コーチ、校長先生全員にブレナのことについて書いてもらってきたんだよ」
父親はブレナさんが大人への一歩を踏み出す来るべき日のために、この特別な「プロジェクト」を13年もの間ブレナさんに言わずに進めていたのだ。
事の顛末を知ったブレナさんは号泣。そして、昔の恩師たちが自分のために書いてくれたメッセージを夢中で読み進めた。本には励まされる、温かい言葉がたくさん溢れていたという。そして、ブレナさんがこの話をネット上で書き綴ったところ、多くの共感と感動の声が拡がった。
ブレナさんは文章の最後をこう締めくくっている。「こんなに感動的で、思いのこもった、懐かしい気持ちになるものをもらって、本当に驚きました。この愛情のこもった贈り物を準備してくれた父親をどれだけ愛しているか言葉にできません」
旅立ちの日に贈られたこの特別な卒業祝いは、ブレナさんにとって一生の宝物となるにちがいない。
(文=佐藤 ゆき)
参照元:imgur(英文)