こんな雁にまつわる話と噺が

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 何度か聞いた話、津軽地方を舞台にした、「雁風呂」と言う話があります。先日持たれた Medical cafe の集いに参加した折に、私たちのテーブルで、その話を、また明日お聞きしました。

 雁が、シベリヤから渡りをして飛んで来る時に、木の小枝を咥えて飛来するのだそうです。途中、羽休めををするために、水の上に、枝を落として、それを両足で掴んで休憩するのだと言うのです。やって来る青森の竜飛岬あたりの陸地に、その枝を落とす様です。そして、春になると、産卵と子育てのために、北帰行をします。その時には、その落とした枝を拾って、飛んで行くのです。

 ところが、各地の水辺に飛んでいった雁は、日本で命を落とす仲間もいて、多くの枝が残されてしまっているのだそうです。その枝を、海岸で拾った人たちが、それで風呂を沸かして、北に飛んで行く雁を思いながら入る、こう言った話なのです。

 昭和の大名人、三遊亭圓朝の寄席の噺(はなし)に、「雁風呂」があり、「落語の舞台を歩く」に、次の様に掲載されてあります。

 『水戸黄門様がわずか3人の供を連れて東海道を江戸から上ってきた。遠州掛川に着いた時、中食のため町はずれの茶屋に入った。そこにあった屏風の絵が立派で土佐派の将監(しょうげん)光信(みつのぶ)筆とまでは判った。見事な絵であると感じ入っていたが「松に雁金」とは妙な絵だと思った。その意味が判らなかった。

 そこに大坂の旦那と喜助の二人連れが入って来た。江戸に行っても上手くいくかどうか不安な旅で気が重かったが、喜助に七転び八起きだと励まされた。
喜助に良いものを見せてあげると、奥の屏風を指さした。喜助は直ぐに『将監の雁風呂』と見抜いた。「でも、あの絵は評判が悪い。『松に鶴なら判るが、松に雁金はない。将監は腕に任せて絵空事を描いた』と判らない者達は酷評した」と、その裏側まで話していた。その上、武士でも判らないのが居て、武士ブシと言っても鰹節にもならないし、目は節穴だと腐(くさ)していた。
それを聞いていた黄門様は松に雁金の絵解きを聞きたいからと、呼び寄せた。

 お解り無い事はないでしょうが、旅の徒然とお笑い下さって、親から聞いた話で、と語りだした。
「描いてある松は、函館の浜辺にある俗に『一木(ひとき)の松』というのやそうです。日本を離れたはるか遠い所に常磐(ときわ)という国がござりまして、秋になりますと雁金が日本へ渡ってきます。春になると常磐に帰ります。雁は、故郷を出る時に柴をくわえて飛び、疲れるとそれを海の上に落としてそれに止まって休みます。何度も繰り返し、やっとの思いで函館の『一木の松』まで来ると、松の下へ柴を捨て、春になるまで日本中を飛び歩くのでございます。戻る時にまた要るだろうと、土地の人が直しておいて、春になると松の下に出しておきます。これを雁がくわえて常磐の国へ飛び立ち、あとにおびただしい柴が残りますと、その数だけ日本で雁が落ちたのかと憐れんで、土地の者がその柴で風呂を焚きます。行き来の難渋の者、修行者など、一夜の宿を致しましてその風呂に入れ、何がしかの金を持たせて発たせまするのも、雁金追善供養のためと、いまだに言い伝えております、函館の雁風呂というのはこれやそうです。
それを将監が描いたので、『松に雁金という絵はない。腕に甘んじて絵空事を描いた』と言われては、苦心をした将監が気の毒じゃと親どもが話していたのを又聞きをしたので、間違っていたらお詫びをいたします。
これは半双もので判りにくいのですが、一双ものには函館の天守台がちょっと見え、その下に紀貫之様の歌があって、
”秋は来て春帰りゆく雁(かりがね)の羽がい休めぬ函館の松“
でございましたか。これは『函館の雁風呂』と申すものです。」

 いたく黄門様は感じ入って、名前を問いただしてきたが、不淨の者だからと遠慮した。家来が「これ以上、名を伏すのは失礼に当たる。ここにおられるのは水戸黄門様だ」の声を聞いたとたん、土間に飛び降りて平伏していた。重ねて聞かれたので、「華奢に溺れた咎(とが)で、お取り潰しになった大坂の町人淀屋辰五郎せがれ、二代目淀屋辰五郎目にございます」。江戸に下るという淀屋に、用件を聞くと「親が存命中、柳沢様に三千両をご用立てしたがそのままで、昔日(せきじつ)ならともあれ、今の淀屋ではお返しいただかないと困るので、お屋敷に伺うところです」。

 「美濃守が借りっぱなしと言う事もないだろうが・・・、『雁風呂』の話を聞かせてもらったお礼にと」文をしたため、判がドンと座った。「これを持って美濃守殿に行き、もし下げ渡しがない時は水戸上屋敷に持参すれば早速金子御下げ渡しになる。三千両の御目録である。」と、渡された。西と東に別れて黄門様は出発。

 「お前ぐらいだ。黄門様を節穴にしたのは」、「旦那様ご安心なされ。三千両のお墨付き、柳沢様で払ってくれなければ、水戸様で払ってくれる。生で握っているようなもんでっせ。雁風呂での話で三千両とは高いカリ金ですな」、「その筈じゃ。貸し金を取りに行くのじゃ」。』

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 どうも、この話や寄席噺は、雁の習性を悲しんだ作り話の様です。地元の方も知らないそうです。誰かの創作だった様です。「新国劇」と言う劇団がありますが、その舞台で辰巳柳太郎が演じた芝居の中に、「国定忠治」があります。忠治は、上州国定村の出身で、「赤城山」を舞台にした人気の芝居の主人公なのです。忠治の子分の巌鉄が、

『雁が鳴いて南の空へ飛んでいかぁ』

と語っています。そのあとで、国定忠治が『足の向くまま、気の向くまま、当ても果てしもねぇ ところへ旅へ立つのだ。』

と言う別れの場面があります。雁も渡世稼業の忠治たちも、旅立っては、ほとぼりが覚める頃に帰って来る渡り鳥ですから、場所から場所へと行ったり来たりする習性があったのです。この芝居では、『北に飛んでいかあ!』の台詞の方がよさそうです。シベリヤから南に向かって飛んで来て、またシベリヤに帰って行く雁に、人の世も似ているのでしょうか。

 この落語の「雁風呂」は、北海道の函館を舞台にした噺ですが、青森ちほうのそんな悲しい話が創作されています。北国の寒く喰い冬、鴨の貧しさから生み出された、雁物語だった様です。9月頃に渡って来た雁が、わが家の眼下を流れる巴波川の流れで、餌を啄(ついば)んでいるのが、毎朝の様に見られます。でも、まもなく4月にから5月にかけて、産卵のために、シベリア(北)に飛んで帰るのでしょう。鯉と餌取りを繰り広げる光景が見られなくなるのは、ちょっと寂しくなる。これからの巴波川です。

 生き物の習性には、驚かされたり、感心させられます。聖書で、ノアが、方舟(はこぶね)から放ったのが、渡りはしない鳩でした。一度目に放ったのは帰って来ましたが、二度目は、帰りませんでした。それで、洪水の水が引いて、大地が乾いたのを知って、ノアは方舟から動物たちを出し、ノアたち8人で、人類の営みが再開されていったのだと、聖書は告げています。

(ウイキペディアの雁のV字行、赤城山です)

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3月31日の誕生日を想う

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 1917年(大正6年)3月31日に、母は島根県出雲市で生まれています。95回目の誕生日の夜に、母は召されて、いのちの付与者である父なる神、救い主イエス・キリスト、慰め主であり助け主なる聖霊なる神の御元に帰りました。2012年のことでした。

 その日、上の兄、次兄、弟の家族によって、誕生日を祝われたのです。私は、中国にありましたので、同席が叶いませんでしたが、家内と私の連名で書き送った誕生カード、それに子どもたちの誕生カードも添え られて読まれたと知らせがありました。

 その誕生祝いを母は、心から喜んで感謝したようです。誕生会が終わって、兄たちが帰った5時間後に、平安のうちに、天の故郷に帰って行きました。

 口から飲食ができなくなって三日目の自然死、老衰だったそうです。それは大正5年度の最後の日でし た。一人の夫の妻として30年、四人の男の子の母として70余年、関東大震災、日中戦争、日米戦争、戦後の混乱と荒廃、廃墟からの奇跡的な復興、東京オリ ンピック開催などなどを経験しながら、波乱の大正・昭和・平成の世を生きたのです。

 母が、「永遠の故郷」に帰ったとの知らせを聞いて、私は、すぐに家内と帰国をし、4月5日に、上の兄の司式で、「告別式」が行われました。弟と私が母の思い出を語り、次兄が息子たちを代表して挨拶を行なったのです。『きっと泣くだろう!』と、自分 でも覚悟していましたが、涙ぐみましたが泣かないで、母の死を「凱旋」と納得して、自分の「グリーフワーク(悲嘆の作業)」をすることができたのです。

 父、義兄、義妹、甥、多くの友人を荼毘にふしてきた斎場で、「火葬式」を行ないました。母の亡きがらが骨になってしまい、母の思いの中にいた私たちの手で遺骨 を拾いました。『これが骨盤です。』と説明された時、その母の胎の中に、私たち4人が十ヶ月の間宿っていたことを思って、その感慨は一入でし た。
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 そこから喜ばれて生まれてきたという、命の神秘を思わされ、何とも言いえない不思議な思いに浸されてしまいました。東京の郊外、高尾にある「教会墓地」に、母の骨を、母の好きな讃美歌を歌いながら埋葬したのです。父、義兄、義妹、甥、多くの友人たちの埋葬された墓に加えられました。

 亡骸は埋葬されましたが、母の霊は、創造者の御許に帰り、母の魂は、安息の中にあるのです。近い将来、『起きよ!』との主なる神さまの御声を聞いて、永遠のいのちに蘇るのです。後に続く私たちも、多くの聖徒らと共に、再会の喜びを迎えられるのです。

 大正、昭和、平成と生き続けての95年の母の生涯でしたが、母ほどに、自分は生きられるでしょうか。27歳で自分を産んでくれた母の生涯は、多難でしたが、信仰者として生きた祝福の溢れた一生でした。その信仰を継承した子や孫たちが、この時代にあります。果たして自分は、主の再臨を、この目で目撃することが叶うでしょうか。

(ウイキペディアの葛飾北斎の描いた島根県花の牡丹の花、蕎麦の花です)

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80年の戦後を思う

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NISHINOMIYA, JAPAN – AUGUST 01: Eiji Sawamura of Kyoto Shogyo warms up prior to the All Japan High School Baseball Championship at Koshien Stadium in August 1934 in Nishinomiya, Hyogo, Japan. (Photo by The Asahi Shimbun via Getty Images)

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 1944年8月15日を境に、日本は、大きく逆転か、本転(?)を遂げたと言えるでしょうか。昭和の初めの20年は、軍拡化の年月だったのに対して、その後の「八十年」の戦後は、日本は「生き直した(やり直した、と言うには、犠牲が大き過ぎたのではないでしょうか)」のです。

 自分にとっては、「二親」のやり直しの中で、兄たちと弟と共に、育てられた日々でした。その八十年の年月には、重さを感じさせられるのです。この戦後の年月を、『すべきではなかった!』、『せざるを得なかった!』と議論をし続けて、歳を重ねて来たわけです。

 国土の広さも、国の資源も、民主主義の実現も、人間尊重の精神も、生命の重さの尺度も、財力も、誇りも、体格も、希望も、それらの質も量も、ほとんどのことで劣っていた、この国が、欧米諸国と肩を並べ、それを凌(しの)ごうと、軍事大国になることを、国家目標に掲げた世代の始めた道をたどって生きて来たことになります。

 長らくアジアやアフリカの諸国を植民化しようとする、欧米諸国の圧力を、全力で排除しようと、日本が大東亜共栄圏の拡大のために、大陸に侵略を敢行し、東南アジア諸国支配を国家目標に掲げたのです。その台頭を防ごうとしていた米英に対して、日本は宣戦布告をした結果、泥沼の様な戦いに敗れたのです。

 国家の高慢の鼻っ柱を折られ、責任を感じた指導者たちは、自死して詫び、そうしなかった指導者は口を拭って黙り込み、責任を転嫁し、狂った様に見せて責任を回避した者もいました。そんなことのできなかった大部分の国民は、子を、父を、夫を、戦場に送り出しましたが、負け戦が明らかになり、国民の総動員が図られました。そして、とどのつまり、あの焼夷爆弾や原子爆弾の投下で家族を失い、家や貯えを失います。不屈の思いで、貯え、築き上げた物や夢までも無くしてしまったのです。

 戦争には負けたのですが、立ち上がる力を、人々は残していました。あの廃墟の中から、立ち上がった人たちの中に、「フジヤマノトビウオ」と渾名された水泳選手の古橋廣之進がいました。1948年、ロンドンオリンピックの委員会から、大会参加を許されませんでした。しかし、水泳で次々と世界記録を塗り替えたのです。それは快挙でした。

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 また、1952年に、戦場から生還した白井義男が、ボクシングで、戦勝国アメリカのボクサーを倒して、世界チャンピオンになったのです。その快挙は、打ちひしがれた戦後の日本人の頭を上げ、困難を乗り越えさせる力を与えてくれた、素晴らしい活躍でした。

 1950年になると、朝鮮半島で戦乱が始まりました。南北の分断した同一民族の戦いで、共産中国の支援を受けた北朝鮮人民共和国が、南朝鮮に向かって、38度線を越えて進軍したのです。朝鮮半島を共産勢力の侵攻から守ろうと、アメリカが、連合軍として、南朝鮮を死守するために軍事介入するのです。その連合軍の物資供給を、日本の製造業が果たしたわけです。いわゆる「戦争特需」で、日本は急速に息を吹き返したのです。

 焼土の中から立ち上がった日本は、勤勉さと、弛(たゆ)まない努力で経済を持ち直し、産業国日本が躍進していきます。やがて世界第二位の大国になっていくのです。1964年になると、東京オリンピックが開催され、国威を表そうと、東海道新幹線が走り始めました。その事業を推進した方々の中には、戦闘機を設計した技術者がいました。その技術を平和に生かし直したのです。

 さらに高速道路網を拡張し、全土に整備し始めます。世界の輸送業では、他を凌いでだ立場を築き上げた「高速鉄道」が走り始めたのです。さらに「日本列島改造論」も叫ばれていった時代でした。自動車や電気製品、電子製品などの日本製品の輸出量は、驚くほどに増大していったのです。

 それらは、敗者からの「起死回生」であって、世界を驚嘆させた、もう戦後とは言わなくなってきたのです。私たちの世代は、平和教育を受け、高度成長期を迎え、やがて21世紀に至ったわけです。父母の世代の弛(たゆ)まない努力の結果こそが、今の時代なのでしょう。

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 今や、日本の青少年は、体格の劣った民族でなくなっているを感じさせられています。私は、老齢期を迎え、世代交代は、そろそろ子たちから孫たちの手に移るのでしょうか。一線を退いて、盛んな時が過ぎていくのを感じて、嬉しくも寂しい思いもしてまいります。今日(3月28日)、MLBのアメリカ野球の世界で、最も注目されている選手が、日本人だということに、試合観戦をネットでして、また驚かされたのです。

 父の世代に活躍した野球の沢村栄治は、174cm、71kgの体格で、1934年に行われた日米野球で、アメリカのトップ選手、ベーブ・ルースらを手玉に取るほどの投手で活躍でした。軍務を終えて帰還した時に、プロ野球に復帰しようとしましたが、手榴弾を投げ過ぎたのでしょうか、肩を壊して、もう投げられなくなっていました。再度戦場に駆り出され、そこで戦死されています。また、我らの世代の一大ヒーローだった、戦場から生きて帰った川上哲治は、174cm、74kgの体格で、戦後の日本の野球界に貢献し、日本中の少年たちの憧れの的の名選手、名監督でした。

 ところが、今や大リーガーとして、アメリカ人選手を凌ぐ活躍をしている大谷翔平選手は、193cm、95.3kgの体格で、投打に秀でていて、「二刀流」と言われています。破格の野球選手と言えるでしょうか。ウイキペディアには、次の様にあります。

『近代MLBにおいて1シーズンに規定投球回数と既定打数の両方に到達した史上初の選手。MLB・(NPB(日本プロ野球)両リーグで「1シーズンでの2桁勝利・2桁本塁打」を達成。NPBで最優秀選手を1度受賞、MLBでシーズンMVP(最優秀選手賞)を3度受賞。MLBにおいて、アジア人初の本塁打王(2回)、打点王(1回)。MLB史上初の位置シーズン50本塁打50盗塁(50-50)達成。』

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 そればかりではなく、日本の女子サッカーは、アジアでは、韓国に勝てなかったのが、今や世界一を手にするほどの成績を収めています。ヨーロッパのプロの女子サッカーチームには、多くの日本選手がいて、スターティングメンバーになっているのです。その日本選手の中の長谷川唯は、157cm、47kgの体格で、大きな選手たちに伍してミッドフェルダーとしてイングランド女子サッカー界では、屈指のMFなのです。この選手は、反則がほとんどないほどに、スポーツマンシップに長けているのです。まさに、「なでしこ」の如しです。

 日本代表チームでも牽引役で、ゲームメーカーとして、実に優れていて、プロサッカー界屈指の選手なのです。フォワードでありながらもバックスの守りでも、優秀なperformanceを見せています。173cmで、58kgのスリムだった自分も、今や169.3cm、68kgになってしまった今ですが、あの川上哲治選手や沢村栄治投手と、同程度だったのです。そんな世代格差を覚えながら、今の若者たちの活躍に一喜一憂している今です。

(ウイキペディアの沢村栄治、19歳で世界記録を出した時の古橋廣之進、大谷翔平、長谷川唯です)

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淡き色の桜を愛でて

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 行春や 鳥啼魚の 目は泪   芭蕉

 ここ栃木市に住み始めてから、7年目を迎えています。これまで、なんどか東京都内に所用で出掛けることがありました。東武電車の乗りますと、巴波川、永野川、渡瀬川、利根川を渡り、北千住駅に電車が止まる手前にある、隅田川を渡るのです。

 「矢立の始め」と、芭蕉が、「奥の細道」に書き始めたのが、この隅田川の下流にある「千住」でした。ここには、江戸府内に家康が架橋した「千住大橋」がありました。深川の「雛の家」を出た芭蕉と曾良は、この橋のたもとで舟から降りて、日光街道を北上して、旅を進めていきました。

 私にとって東京の玄関口は、「新宿」でした。明治22年に、この新宿から「立川」まで、蒸気機関車が開業しています。その鉄道を敷設したのが、甲武鉄道でした。途中に、「中野駅」と「境駅(今の武蔵境駅)」、そして「国分寺駅」を置いたのです。

 なぜかと言いますと、江戸の町民に水を供給した玉川上水の川岸に、江戸時代に植えられた一里半(6km)ほどの、桜並木があって、名所だったそうです。そこで、江戸府内のみなさんは、新宿で蒸気機関車に乗って、境駅で下車して、国分寺駅まで歩いて、桜見物を決め込んだ様です。

 江戸彼岸桜、ソメイヨシノなどの桜は、春を告げる花で、古来、江戸の町民の心を掴んでしまったのでしょう。日本人と桜は、切っても切れない繋がりを持ち続けているわけです。

 『お隣りの下野市の下野国分尼寺には淡墨桜があって、見事なのです!』と、思川桜の好きな私の弁を聞いて、教えてくださり、観桜の企画を立ててくださって、先日、ご夫妻と私たちで観桜に出掛けたのです。

 この淡墨桜は、日本三大桜の一つで、岐阜県本巣市根尾谷にある桜で、樹齢千五百年の古木なのだそうです。花が蕾のときは薄いピンクをしていて、満開になると白色、散りぎわになると、淡い墨色に変色するそうで、「淡墨桜」と呼ばれ、樹高16.3mほどの桜です。

 そこから株分けされたものが、国分寺や国分尼寺に植えられて、近隣の多くのフアンに愛されいる桜なのです。私たちが見たのは、七分咲きだったでしょうか、その散り際になると、押すな押すなの人盛りになるそうです。私たちが訪ねたのが、週日の水曜日でしたから、まばらにカメラを下げた数人の方がおられたほどでした。

 帰りに、ご夫妻と四人で、お蕎麦屋さんに入って、蕎麦を啜ったのです。江戸っ子たちは、蕎麦好きで有名だったそうで、花を愛(め)でては、蕎麦を食べたのでしょう。「来た春」を、親しく楽しく迎えることができました。ご主人は、タイムテーブルを、朝早くから作り上げておられ、朝一で、チャットで送信してくれていました。お心遣い満点で、感謝な春満喫の一日でした。

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タンポポや淡墨桜が咲いて

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 昨日は、近くの下野市に残されてある、県下の古代の史跡を訪ねました。親しくお交わりをさせていただいています、隣人夫妻のお誘いを受けて、春日和の一日、春の遠足を楽しむことができたのです。

 ご主人の車の安全運転で、下野国分寺跡に咲く淡墨桜、国分尼寺跡(礎石)、その尼寺に咲く淡墨桜(うすずみざくら)、下野薬師寺跡の礎石、室の八島、室の八島を訪ねた松尾芭蕉の俳句碑、下野国庁跡を訪ねたのです。

 出発前に、細かな、タイムテーブル(計画表)お作りくださって、送信してくださったのです。それにそっての訪問でした。行き当たりばったりで、行こうと思っていたのに、見逃してしまう様な私とは違って、用意周到な準備をなさっての一日でした。

 小学生に戻った様な思いで、この遠足を楽しむことができたのです。このご夫妻は、二週間ほど前に、奈良を訪ねておいでで、奥さまの弁ですと、今回と同じ様に、寺社訪問の綿密なスケジュールを作られてのご旅行だった様です。

 わが家のベランダから、ご夫妻の住まれるお宅を眺めることができ、互いに心配し合う様な間柄なのです。洗濯物が干されていないと、具合でも悪いかと心配してくださり、こちらからも、見守りを4階からすることができて、友人関係にあります。そんな出会いを楽しみながらの、こちらでの生活の一面です。

 四人のお子さまがた、お孫さんたちをお持ちで、そのお名前まで知らせてくれます。私たちに次女の家族が来ましと、訪問したりしているのです。タンポポも、辛夷の花も、そして桜の花も綺麗でした。万葉の世にも、同じ様に大地は綺麗な花を咲かせていたのかと思って、時の流れを感じさせられました。

 遥か大和国、奈良から派遣されたお役人や僧侶や職人集団がやって来て、中国に倣って地方行政を行い、仏教の教えを説き、修行をし、また職人集団が寺社や庁舎を建て、日本の形が、徐々に整えられていったのを思い返すと、時の流れを感じてしまいました。

 聖書に、

『主は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。(申命記28章64節)』

とあります。中近東の地から、ユーラシア大陸の東に位置し、島々によってなる、約1万4125の島々の国、日本に、人が住み始めて、大陸から文字によって歴史が記される様になって伝えられた、私たちの国の歴史の初期の営みに触れた様に感じた、昨日の一日でした。

 紀元700年の頃のヨーロッパ、とくにギリシャでは、都市国家が出来上がり、植民主義で国の拡大が図られていた、同じ時代だと、世界史は伝えます。極東( far east )に位置する朝鮮半島や島国の私たちの地にも、国家が起こり、大和朝廷の中央集権で、地方支配が整えられて行く時期の史跡なのでしょう。

 1300年ほど前に、思川の右岸、現在の下野市に、国分寺や国分尼寺や薬師寺建てられ、そして下野国の国府の国庁が、思川に左岸に、現在の栃木市に置かれたのです。当時と同じ春の花、史跡の隅のタンポポや辛夷の花が咲いていたのが印象的でした。

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尽きない古代への浪漫が

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http://www.metmuseum.org/art/collection/search/53154 Japan, ?Flame-Rimmed? Cooking Vessel (Kaen doki), Earthenware, H. 20 7/8 in. (53.1 cm). The Metropolitan Museum of Art, New York. Mary Griggs Burke Collection, Gift of the Mary and Jackson Burke Foundation, 2015 (2015.300.258)

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 栃木県の県北の那須地方にある大田原市に、湯津上と呼ばれる地に、笠石神社があり、その隣接地に、「下侍塚古墳(しもさむらいづかこふん)」があります。そこは古墳群をなしているのだそうで、「日本考古学発祥の地」と呼ばれているのです。

 私たちが、日本史で学んだのは、アメリカ人の生物学者、E.モースが、走り始めた東海道線の汽車の中から、1877年に見付けた「大森貝塚」が、日本の考古学研究の上で、最古のものでした。モースは、明治政府のお雇い学者として、学術的に大きく貢献でしたのです。その大森が、「日本考古学発祥の地」だとされてきて来ました。

 こちらに住み始めてから知ったのですが、湯津上の地で発見されたものの方が、古いのだと聞いています。徳川の親藩、水戸藩の水戸光圀によって調査が行われたのが、1692年(元禄5年)でしたから、200年近くも古く発掘されていたのです。この墓所の築造時期は、古墳時代期の初期の四世紀末頃だったと推定されています。

 日本中どこにも、墓所があり、とくに指導的な立場の人、豪族の頭が亡くなると、それなりの葬儀が行われ、大きな墳墓に埋葬したのでしょう。土の中に、遥か昔の人が埋葬されたり、先人たちが住んだ住居跡が埋もれているわけです。

 小学校の時に、山奥から東京に引っ越して来て、住み始めた街の川のそばに、住居跡があると、級友から聞いた私は、そこに跳んで行ったのです。木切れを見つけて、夢中になって土を掘り起こすと、土器の破片や鏃(やじり)らしきものが出てきて掘ったのです。何度も、そこに通った記憶があります。

 古代人の生活に強い関心があったからだと思います。中学に入ると、高等部に考古学部があって、担任で社会科を教えてくれた教師に誘われて、発掘調査に参加させてもらったのです。それは、大人になった様に感じて、とても喜んで発掘に加わったのでs。

 夏休みになると、学校の近くにあった駅の周辺や、自分の卒業した小学校の校庭、京王線の線路脇にあった、大きなミシン工場の敷地などに出かけては、スコップや移植ごてや箒などで、発掘作業をしたのです。自分よりも遥か昔に、古代の人たちが生活をしていたことに、「浪漫」を感じたからだったからなのでしょうか。土中から、家の支柱跡や土器などのかけらを見つける喜びを味わったのです。

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 それは楽しくて仕方がなかったのです。きっと侍塚古墳を掘り進んだ光圀公の命を受けた人たちも、そんな興味を引き出されて、この古墳を、発掘班の面々は掘ったことでしょう。

 墓に埋葬された人にpは興味がありませんでしたが、長い歴史の間に、盗掘が行われて、埋葬品が散逸してしまうことが多かった様です。しかし、生活跡には、人の生きた形跡があって、興味津々だったのです。何を思い、どの様な願いを持ち、どんな会話をしながら、古代の人たちが生きていたかに興味が尽きなかったからです。

 もう暖かくなりましたので、自転車を携行して、電車で出掛けてたくて、もう何年も前から準備中なのです。壬生町に残されている「牛塚古墳」には、すでに数年前に出掛けていますので、今度はもう少し北に位置した、大田原市に出かけたく、ムズムズと虫が騒いでいるのです。『三つ子の魂百までも』、小学生の夢を、今も引きづり続けている私なのです。

実は、オリエント古代や、聖書の記述にある古跡には、子どもの頃から興味があったのに、それも果たせないままなのです。そこには、もう出掛けて行く機会はなさそうですが、映像を見る気とで済ませているんが、ちょっと残念なのです。

(ウイキペディアによる縄文土器、下侍塚興奮です)

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漫ろ歩いた街が

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 甲州街道は、日本橋から、四谷にあった大木戸を出て、内藤新宿から府中、多摩川を渡って日野宿、小仏峠にあった小仏関所を経て与瀬宿(相模湖)、大月宿、笹子峠を越えて甲府、諏訪宿に至り、中山道と合流して、京に至るのです。

 木戸は、江戸時代には、江戸にも大阪に、どこの地方都市にも、町の保安のために、町境に設けられて、町中の安全を確保lしていたのです。その町木戸は「明け六つ」(午前 6 時頃)に開けられ、「夜四つ」(午後 10 時頃)に 閉まります。江戸の大木戸は、他に、東海道の中山道の高輪(たかなわ)、板橋があり、日光街道には大木戸はありませんでした。

 甲州街道沿いの町に住んだからでしょうか、どうしても新宿を近くに感じてならないのです。ここ栃木のみなさんんは、千住とか、電車が繋いだ浅草なのでしょうか。この新宿は、江戸期にも、とても栄えた町だった様です。私の通った学校も最初の職場の本部も、都内にありましたので、ここが通過地点であり、下車地点だったのです。

 新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、中学生だった上の兄が、新宿に住んでいた英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていたのです。家に帰って来ますと、その寄席の様子を、面白おかしく話してくれたのです。

 よく「猿真似」と言いますが、弟の私は、兄の真似をして、背伸びをしていたのです。それもあって、落語に、強い関心を持つ様になったのです。『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』、『そうけえ(早慶)!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』、『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。

 子どもの頃には、ラジオ全盛で、落語や漫才や浪曲、歌舞音曲を、よく放送していました。また歌謡曲の全盛時代だったでしょうか。テレビ放映が始まる前には、耳で聞いて、想像力を働かせて理解するのですから、聞き漏らさない努力が必要でした。

 それだからでしょうか、言葉をラジオを聞いて覚え、意味が分からないと、父や兄たちに聞いたり、広辞苑を引いていたのです。そんなで、学校帰りに、新宿に下車して、この「末廣亭」に落語を聴きに行きました。同級生を誘っていったこともありました。やはり、日本の大衆文化は、洋物とは違って興味深かったのです。

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 『えーっ、一席バカバカしいお話を申し上げます!』と言った出だしで話し、口演者を、「噺家(はなしか)」と呼んでいました。座布団の上で話すのですが、そこを、「高座」と呼んでいました。もうお名前も題も忘れてしまいました。歯切れのよい「江戸ことば」を聞いて、一端の落語通になったように、笑いを誘われていたのです。

 この末廣亭が、どんなところかの記憶はありましたが、今日、Youtubeで、「桂米丸追悼興行」を観たのです。お弟子のヨネスケ(桂米助)さん(落語界では師匠)が、その会を企画し、開催していて、寄席前の通りに出られて挨拶をしている、末廣亭の映像は、全く変わらないのです。高座も客席も、全くお同じ様子で、六十年前と変わっていなかったのです。改築なしで、椅子席のシートは張り替えられているでしょうけど、驚きました。

『わたしがあなたのそばを通りかかったとき、あなたが自分の血の中でもがいているのを見て、血に染まっているあなたに、『生きよ』と言い、血に染まっているあなたに、くり返して、『生きよ』と言った。(新改訳聖書 エゼキエル16章6節)』

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者12章1節)』

 あの級友は、北海道が故郷で、卒業式に、ご両親が見えらていたのです。『楽しい経験をさせていただきました!』と、お礼を言われてしまいました。札幌に仕事を見つけて、彼女は帰って行かれました。それっきりになってしまったのです。

 まさに、「若い日」、「血に染まった」、「わざわいの日が来ないうち」の様な時を過ごした「場所」でした。私の「青春の譜」の一頁が、この新宿でもあったのです。あの伊勢丹の裏の通り道を、懐かしく思い出しています。

 その興行に呼ばれた噺家さんたちは、当然、総入替されておいでで、若い頃に馴染んだ方々は、お亡くなりになり、名の知らない若手が多くなっておいででした。江戸期に始めれた寄席は、今や人気で、若い人たちの支持を得ている様です。

 出し物も、「発泡スチロール芸」なんてものもあるのです。あの有名な「笑点」のメンバーも知らない方々に代わっていて、われわれ世代は、ほとんどおいでにならない様です。昭和は時と共に、過ぎて行ってしまい、この街を、新しい世代の人たちが漫(そぞ)ろ歩いていることでしょう。

(ウイキペディアの末廣亭、広重の内藤新宿図です)

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謙遜であれ

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『謙遜と、主を恐れることの報いは、富と誉れといのちである。(新改訳聖書 箴言22章4節)』

『同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。(1ペテロ5章5節)』

このクリスマスローズの頭を垂れて咲く姿に、驚かされます。バラが、頭をあげて咲くのと違って、謙って咲くこの花は、「主を恐れること」と「謙遜」 には、深い関わりのあることを教えてくれます。

(ウイキペディアのクリスマスローズです)

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文明開化の音がする

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Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron, to Meet the Imperial Commissioners at Yoku-hama, Japan, March 8th 1854

♩ ざんぎり頭をたたいてみれば、文明開化の音がする ♬

 これは明治の初めに、日本中で歌われた歌の一節です。明治になると生活は伝統的なものから、欧米的、近代的なものに急速にかわっていきました。日本が、260年にも及ぶ、徳川幕府の封建的な社会から、近代化して行く時期が、その後の日本の歩みにとって、実に大切な節目であったのが、幕末と明治維新でした。

 ペリー率いるアメリカの艦隊が、1853年に、浦賀に現れたことは、当時の社会にとって、衝撃的な出来事でした。その前年の1852年に、中国大陸の上海に、長州の高杉晋作、薩摩の五代才助、佐賀の中務田倉之助らが訪ねています。そこで目撃したのは、列強諸国の植民地支配の現状でした。それに、太平天国の乱で、清朝中国は大騒動の渦中でした。日本も同じ様な植民支配を被るのではないかとの脅威を痛烈に感じたのです。

 対アメリカとの間で、不平等な日米修好通商条約を、幕府は締結をし、ついで、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約、「安政の五か国条約」を結ぶのです。押し迫る欧米諸国との関係に、国中で議論が沸騰していきます。幕府の一方的なやり方に反対する勢力が起こるのです。

 当時の清朝の状況は、欧米列強の植民化政策で、中国の惨状は目も当てられない状況だったのです。それを留学生として上海に学んだ高杉晋作らは目撃して、次は自分たちの国の番の様に、危機感を痛烈に覚えて、帰国しているのです。

 高杉晋作は、漢学塾や藩黌(校)の明倫館に学び、やがて松下村塾に学んだ人でした。この松下村塾は、吉田松陰が、1857年に、長州藩の子弟、50人ほどを集めて教えた私塾でした。松蔭は何を教えたのかと言いますと、高杉と共に学んだ、久坂玄瑞(くさかげんずい)と、松蔭との往復書簡の中で、次の様に久坂に、松蔭は返事を出しています。

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 『今や幕府は諸外国と条約を結んでしまった。それがだめだといっても、我が国から断交すべきではない。国家間の信義を失うことは避けなければならない。外国とは平穏な関係を続けながら、我が国の力を蓄え、アジア、中国、インドと手を携えたのちに欧米諸国と対峙すればいい。あなたは一医学生でありながら空論を弄び、天下の大計を言う。あなたの滔々と語る言説はただの空論だ。一つとしてあなたの実践に基づくものはない。すべて空論である。一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめよ。』

 その松蔭は、安政の大獄で捕えられ、処刑されてしまうのです。荒れに荒れた時代の只中で、徳川幕府の政治に反対して、天皇を中心にした政治を行うことを主張した「勤皇派」と、幕府の動きに同調する「佐幕派」とに分派して争いが苛烈になっていき、幕末の騒乱が繰り広げられました。

 近代化、欧米化の動くは止めることができないで、「王政復古」、徳川幕府は倒れ、天皇を担いだ長州藩や薩摩藩や土佐藩などの勢力によって、明治維新政府が誕生するのです。そして日本は、「文明開花」が展開していきます。1959年には、ヘボンが来日し、開港の地、横浜の神奈川宿で、医師として施療所を、お寺の中に設け、施療を開始し、1863年には、「ヘボン式ローマ字」のヘボンによって、「ヘボン塾」が開校し、聖書と英語が、青年たちに教えられていきます。

 その欧化政策は、怒涛の様に行われて、明治の世が展開して行くのです。日本の歴史の中で、一番大きな変化の時期だったわけです。明治の動きは、ここ栃木県下にも及んでいて、維新に大きく関与した明治の元勲という人たちが、那須地方の開墾や発展に貢献しているのです。栃木県の県令(第三代)には、元薩摩藩士の木島通庸が任命されています。誰も止めることのできない時代の大きなうねりでした。

(ウイキペディアのペリーライコウの図、松下村塾です)

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矛盾ではなく事実として

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 文化勲章を受賞した堀辰雄が、「エマオの旅びと」と言う作品を残しています。次の様な短文です。

 「我々はエマオの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。」これは芥川さんの絶筆「續西方の人」の最後の言葉である。「我らと共に留れ、時夕に及びて日も早や暮れんとす。」

さうクリストとは知らずにクリストに呼びかけたエマオの旅びとたちの言葉はいまもなほ私たちの心をふしぎに動かす。私たちもいつか生涯の夕べに、自分の道づれの一人が自分の切に求めてゐたものとはつい知らずに過ごしてゐるやうなことがあらう。彼が去つてから、はじめてそれに氣がつき、それまで何氣なく聞いてゐた彼の一言一言が私たちの心を燃え上らせる。

 いま、「西方の人」の言葉の一つ一つが私の心に迫るのも丁度それに似てゐる。例へば「クリストの一生の最大の矛盾は彼の我々人間を理解してゐたにも關らず彼自身を理解出來なかつたことである。」――これまで私たちは芥川さんくらゐ自分自身を理解し、あらゆる他の人間の心を通して自分自身をしか語らなかつたものはないやうに考へがちであつた。

 しかし、いまの私にはそれと反對のことしか考へられない。芥川さんもやはり自分を除いた我々人間を理解してゐたばかりである。我々に自分自身が分かるやうな氣のしてゐたのは近代の迷妄の一つに過ぎない。」

 あの中学校時代の国語の教科書に載せられてあった、「杜子春」を書いた芥川龍之介を敬慕していたのが、この堀辰雄でした。芥川の最晩年の作品が、「西方の人」、「続西方の人」で、そこに取り上げられていたのが、エマオへの道を行く、イエスの弟子たちとのやり取りの記事なのです。

 十字架で、贖いの死を遂げたイエスが、蘇られて、エルサレムから11kmほどのエマオへの道を行く、二人の弟子たちに顕われ様子が、聖書(ルカの福音書24章)の中に記されてあります。旧約聖書にも預言されています。

 まさかイエスだと気づくことのなかった弟子のふたりが会話をしているのです。前代未聞の「復活」は、旧約聖書に預言されていました。人が生き返ることほど、それを受け入れるのが難しいことはありません。

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 キリストの教会は、そのキリストが蘇られた「復活」の上に建てられたのです。墓と死とを打ち破って、マリヤや弟子たちに現れたのがイエスさまでした。その目撃者として「ekklēsia エクレシア」として教会を形作った群れが誕生したのです。

 イエスを見捨て、逃げてしまった12人の弟子たちが、キリストの教会の「首石(かしらいし)」となったのです。もうイエスさまを否むことはなくなりました。生涯をかけて、信仰を持ち続けたのです。イエスさまの母マリアも、マグダラのマリヤも、それを信じ、キリストの教会の一員とされています。

 そして21世紀に生きる私も、そう信じて、“ The  Church ” と言われる、時間と地理的な違いを超えて、形成されている「教会」に加えられているのです。お隣の国にいました時にも、たくさんの信仰者のみなさんにお会いし、いっしょに賛美をし、聖書を読み、説教を聞き、聖餐に預かりました。このみなさんも、その構成者なのです。

 この救い主でいらっしゃるイエスさまを、もっと知りたくて、みなさんは礼拝に集います。讃美し、礼拝し、人々に宣べ伝えるために生きるのです。すでに召されたみなさんと、あい見(まみ)える日がくると信じている今です。そして、「復活のキリスト」であるイエスさまにお会いできるのです。

 遠い「西方の人」は、私の内にいますお方でいらっしゃいます。「矛盾」ではなくて、「事実」として信じることができているのです。「迷妄」ではなく、「確信」して生きることでしょうか。このイエスさまは、私たちを迎えに来ようとされておいでなのです。「マラナタ」、主よ来てください。

(Christian clip artsによるイラストです)

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