「ひつぢ」という言葉があります。昔は「ひつち」と言われていたそうです。漢字で「穭」と書きます。「稲孫」とも書くようですから、もうお分かりでしょう。秋に稲を収穫した切り株から、生出てくる「二代目」の稲のことなのです。まだ私たちが小学校に通っていた頃の通学路の脇には、水田が広がっていました。都内に通勤している人のベッドタウンになる前の都下の街の「原風景」です。この時期、稲の切り株が、ちょっと邪魔でしたが、稲刈りを終えた田の中で、追いかけっこをしたり、遊びながら下校をしたのです。その枯れた切り株から、青々として出ているものを見て知っていましたが、「ひつぢ」という名だったのを知ったのは、大人になってからでした。
「草」にちがいないのですが、「ひつち」と呼んだことに、農耕民族の先人たちは、自分たちの命を支える、重要な食物としての「米」や「麦」などを、どんなにか愛でていたことかが分かります。そう言った先人たちの感性に、今更ながら驚かされるのです。悪戯小僧が、田の中に入るからでしょうか、いつの頃からか、耕耘機で田おこしをするようになって、遊べなくなってしまいました。「え、いじわるっ!」と思ったのは昨日のことのようです。
長く仕事をしていた中部地方の内陸の街から、郊外に抜けて行くと、茅などが生えた、かつての田んぼが散在していました。「減反政策」で米を作らなくなってしまったからです。「再び、米作りをするには、大変な苦労をして、田んぼ作りをしなければならないいのです!」と、お百姓さんが嘆いていました。
最近のニュースですと、休耕地で米作りを再開するようです。原野を切り開いて、並大抵ではない努力をして、新田の開墾をした時代がありました。そう言った田んぼには石ころ一つ見つけることができないほどに、米作りのために最適な環境を備え、整えててあったのです。知り合いの方の田植えをしたことがありました。雨降りでしたので、カッパを着て、腰を屈めながら、見よう見まねで手伝いをしたのです。やはり、大変な労働でした。その労を感謝されて、農家の食事をご馳走になったのですが、本当に美味しかったのです。
米で年貢を払っていたほどに、貴重な穀物の「米」には、農耕民族の末裔の私たちには、特別な肝入りがあるようです。春から夏にかけて、青田の苗が青々としている 風景が、日本の津々浦々に見られる日も近いのではないでしょうか。今、娘が買ってくれた「お米」を食べていますが、日本の高級銘柄と遜色がないほどに美味しいのです。第一次産業が脚光を浴びたら、日本は元気を取り戻すのではないでしょうか。
(写真は、盛夏の頃の「稲田」です)