満ち足りて

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水辺に青草が生え、そこを石垣が守っている構図が、友人の手で撮られていて、配信されています。羊がこんな所にやって来たら、安心して草をはむことができそうです。もちろん、ここは牧場(まきば)ではありませんが、そんなことを連想させる一葉の写真です。

「 他使我躺卧在青草地上,领我在可安歇的水边。 」、中国語訳の有名な詩を思い出しています。住む家、食べ物、飲み物、衣服、洗濯機、お風呂、それに今夏は少々暑過ぎますが、空調設備も整い、綺麗にクリーニングしてくださったマットと寝台とシーツ、夏掛け、まくらなど完備された家に、水辺で安息する羊の様に、満ち足りて、安心して横たわることが、私たちにはできています。こんな感謝はありません。

それに、優しい「人たち」がいてくださいます。見守り、助言してくださり、訪ね、美味しい物まで届けてくださる友や家族がいて、まるで楽園にいる様です。闘病する家内は、溢れるほどの感謝であります。

昨日は、長男家族の訪問があり、夕方7時過ぎまでいてくれました。お昼は、友人がうどんを作ってくれ、ほかの友人が、今夏始めての温州みかんを差し入れしてくれ、美味しくいただくことができました。立秋過ぎの日曜の一日でした。
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私の戦争

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日中戦争、太平洋戦争のさなか、父に下った軍命は、戦闘機の防弾ガラスの原材料を、石英の鉱床のある中部山岳の山奥で、掘削し、京浜のガラス工場に納めることでした。綺麗な結晶を見せる水晶の基盤である石英が、戦闘機に増産は急務だったからでしょう。父、三十代前半の〈報国〉だったからです。

甲府連隊長と懇意だった様で、父が山奥と街の事務所とを往復するのに使ったのは馬でした。それは、連隊長の軍馬よりも良いもので、連隊長が仕切りに欲しがったそうです。しかし父は譲らないでいる内に、子どもの発病で、栄養をつけねばならぬ父親が、世話をしていた、私の父の馬を無断で屠殺し、子どもに食べさせてしまったのです。そのことを聞いた父は、その馬丁の父親を責めることなく、不問に付した、と母に聞いたことがあります。

私は、中学生になった時、歴史を学び、人から戦時中のことを聞くに及んで、〈戦争責任〉を覚える様になっていきました。父の掘り出した石英で作られた防弾ガラス、それをつけた戦闘機や爆撃機が、朝鮮半島や中国大陸を攻撃して、多くの人命を奪ったと言う事実を蔑(ないがし)ろにできませんでした。

私が、華南の街に住み始めた時に、十代半ばの一人の少年が、わが家に来始めました。日本のアニメが好きで、アニメで日本語を覚え、日本人がいると聞いて、私を訪ねて来てから、毎週来る様になっていました。しばらくすると、彼を育ててきた祖父母が、家内と私を、家に招いてくれ、ご馳走してくださったのです。

お二人共、人民軍の位の高い退役軍人で、退役軍人用の住宅に住んでおいででした。私は、自分が日本軍の支払った給料で、産着やミルクや食べ物を与えられて育った子で、父が技術者として軍務で、防弾ガラス製造の一端を担ったことを、このお二人に語って、その防弾ガラスを装備した爆撃機でしたことを、お詫びをしたのです。

おばあさまは言いそびれていたのですが、安徽省の出身であること、生まれ育った村に、日本軍が上陸し、村を日本兵が焼き払ったことを、聞き出したのです。おじいさまは止めたのですが、私が、『是非!』と言いましたら、腕をまくって、その火で負った火傷跡を見せてくださったのです。でも彼女は、私たちを責めませんでした。詫びた私を赦してくれたのです。そして帰りしな、彼女は、『请再来吧/また来てね!』と言って、家内をハグしてくれたのです。

ある夏、教師の集いがあって、それに参加したことがありました。六、七十人の大学の先生たちの前に立った時、『どうして中国に来たのですか?』と聞かれたので、私は語りました。若い頃から、父の戦争責任を覚え続けてきて、いつか中国に行って、謝罪したかったことなどをです。

それで、私は、みなさんの前でお詫びをしました。そうしましたら、聞いたみなさんの反応が大きくて、十年も経って、再会した一人の方が、あの時の私の話に、感謝の言葉をくださったのです。多くの中国のみなさんは、私が戦争責任を詫びる必要がないと言ってくれました。でも、一人の日本人の姿を見てくださったのは事実です。
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第一次大戦の後、列強諸国に倣って、日本も、中国に、幾つもの街に、「日本租界」を設けました。その権益から、満州国を建国し、日本支配を拡大し、日中戦争を始め、1945年8月15日に、無条件降伏をして、戦争は終わったわけです。銃と軍靴で侵略したのは事実です。

父のしたことも事実です。戦後、子育て中の父は、戦争を語りませんでしたし、軍歌も歌ったのを、一度も聞きませんでした。ただ、軍馬を育てる内容を含んだ、〈めんこい仔馬〉を歌っていただけです。自分の愛馬を思い出していたのでしょうか。そして、満州国の国策企業の南満州鉄道で働いた青年期を、思い出していたのかも知れません。これが私の戦争なのです。

(石英と結晶した水晶、天津にあった日本租界です)
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白馬

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妻の手をとって白馬行の《祝誕生日山行き》の写真が、次男から送られて来ました。真夏というよりは、初秋の高原ですね。母親が、『背負ってわたしを連れてって!』と言いたそうにして見ていました。一度、白馬に行ったことがあります。行ったことがないスイス、みたいでした。
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栃木案内

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私たちの家の台所の窓から、高架になった鉄道線路が見えます。と言っても、その線路の上を走る電車の車体が見えるのであって、その電車が線路の上を走っているわけです。無理して背伸びしますと、「栃木駅」も見ることができる位置に、家があります。

ここから見えるのは、東武日光線と東武宇都宮線の上下線、JR両毛線の上下線の三車線が、けっこう頻繁に行き来しているのです。私たちが、おもに利用するのは、JR武蔵野線や地下鉄に接続している東武鉄道です。普通列車ですと、栗橋とか東栗橋で乗り換える必要がありますが、特急に乗りますと、新宿や浅草に乗り換えなしで行くこともできます。

この東武日光線は、浅草から東武動物公園前までは、伊勢崎線で、そこから分岐して、日光や鬼怒川に、そして会津まで繋がっている路線なのです。1929年4月1日の開業です。昭和初期に東京浅草と日光を結んだわけです。

一方、旧国鉄のJR両毛線は、宇都宮と群馬県の新前橋駅を結んでいます。以前、両毛線の大平下駅で電車を待っていた時、沿線の駅舎の清掃や管理をしておいでの年配の男性に話かけましたら、両毛線の由来を話してくれました。宇都宮も前橋も、旧陸軍の連隊があって、軍用目的で敷設し開業されたのだそうです。

今では沿線の人口が減ってしまい、利用客も激減しているそうで、こう言った路線は、廃線とか第三セクターの経営に移されていくのでしょうか。その方は、かつての賑わいを覚えておいでで、現状を嘆いていました。やはり若者は一旦都会に出たら、戻って来るのは難しくなってしまうのでしょう。

渡良瀬川や利根川の大河川を渡ると言うのは、地方と都会の分断の役割をしていて、鉄橋を渡って仕舞えばなんてことはないもですが、心理的に遠さを覚えてしまうのでしょうか。そう言えば、多摩川の流れのそばに、父の家がありましたから、都心と三多摩は、京王、小田急や東急などの私鉄があって、距離的には近いのに、渡った側は随分と田舎かな感じがしてしまうのと同じなのでしょうか。
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それは江戸幕府が、大きな主要河川の架橋を許さなかった、都市防衛の後遺症なのかも知れません。でも、この田舎の感覚が、私にはいいのです。押しこくられたり、引っ張られたりすることのない行動ができ、自分の意思で動けるのがいいのです。水や空気は清く、吹く風は心地よく、空も近いし、夕焼けが綺麗なので、今日を明日につなげられる感じが強く感じられます。

まだ県都・宇都宮に行ったことがありません。そこは50万都市だそうで、東京首都圏では大きな街なのです。行く用がないからで、どうしても南志向で、東京の方に、足も思いも向いてしまうのでしょう。息子たちや兄弟や友人たちが、そこに住んでいるのですから仕方ないのでしょうか。表彰してくれることがあったら、借りたモーニングでも着て、県都に行くのですが、そんな話はなさそうです。

地震が二、三度ありましたが、『自然災害の少ない街なんです!』と、友人は自慢していましたし、住み心地は抜群で、感謝で思いはいっぱいです。

(両毛線の大平下駅の近く、かつての栃木駅です)
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誇り

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盛岡藩で、私は二人の人物を知っています。一人は、浅田次郎の書かれた、「壬生義士伝」の主人公の「吉村貫一郎」です。下級武士の吉村は、節を折って脱藩し、新選組の隊士となって、幕末の京都を舞台に生きて死んでいきます。同じ隊士の齋藤一に、〈ふるさと自慢〉をする下りがあって、盛岡という街が、おおよそ想像できるほど素敵な街であることが分かります。

日本でも、最も貧しい地域に、襲った飢饉や不作で生活が困窮して、脱藩を余儀無くされたのが吉村でした。きっと彼こそは、生粋の盛岡人なのでしょう。もう一人は、同じく盛岡藩士の子、「新渡戸稲造」です。幼少の頃から西洋への憧れを持っていたそうで、札幌農学校に学び、『太平洋の橋にならむ!』と青年期に夢を語り、後に、「武士道」を英語で書いて、日本と日本人をアメリカ社会に知らしめた人です。
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新渡戸は、国際連盟の事務次長を務め上げた、広く世界を見ることのできる見識の人でした。この新渡戸が、次の様に言っています。『一体祖先とはだれをいうのか、昔から朝鮮人や支那(中国)人がやって来て、混血したのが、わが祖先だ。誇るべきは人種の純粋さではない・・・我々の系図の中に朝鮮人や支那人の入っているのを寧(むし)ろ誇(ほこり)とする時代が来るであろう』とです。

民族の純粋性を誇ろうとしてきた日本人の出自を、そう告白できた新渡戸に感心させられてしまいます。青年期には、手のつけられない暴れん坊だったそうですが、札幌農学校に学ぶ内に、穏やかな性質を持つ様に変えられたと、級友が書いたものを読んだことがあります。

前者の吉村貫一郎は、小説中の人物で、モデルになった人はいたのかも知れませんが、作者の創作が、そう言った人物像を描いたのでしょう。でも、新渡戸稲造は実在の人でした。この人の物言いは、一民族や一国家を超えたもので、二十一世紀の私たちが、中国や朝鮮半島の人や文化や習慣に、強く太いつながりがあること、それを誇れる様にされたいものです。

(盛岡市内から岩手山を望む、国際連盟事務次長時の新渡戸稲造です)
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この住んでいます家の居間の窓が大きく、そこにベッドを置いて、家内が休んでいるのですが、五尺ほどの幅の窓の一枚ガラスの外側に、朝顔を植えましたので、六本の支柱に、朝顔が次から次へと咲いてくれています。ちょうど後ろ側から眺める感じですが、それでも見事な咲きっぷりに魅了されています。

〈涼を呼ぶ〉、この夏には相応しい朝顔と、昨日は、我慢できなくて「風鈴」を買ってしまいました。低めのガラスの鐘をガラス棒で叩く音がして、なおさらの涼を感じています。〈暑さ指数〉の危険の範囲内の連日で、不要不急の外出禁止、水分補給が、有線放送で伝えています。

今日明日を境に、もう「残暑」になるのだそうです。甲子園球場は、暑気と熱気で溢れかえっていることでしょう。大阪港に上海発の定期船が着いて、時間を持て余した私が気づいたのが、高校野球選手権の大会が開催中だということでした。それで、何度も道を聴きながら、甲子園に行ったのです。もう何年になるでしょうか。母のふるさとの学校がやっていて、応援したのを思い出します。
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お足

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小学校の頃、私は、友人から、「寛永通寳(宝)」をもらったことがありました。この江戸時代の通貨は、「一文銭」で、「足尾(現在の栃木県日光市)」で鋳造されていたので、通貨の裏に[足]と刻印されてあるのです。

それで、この一文銭を、「足尾銭」とか、「足字銭」と呼んだそうです。よく、『こんなもんじゃあ一文の得にもなりゃあしねえ!』と言ったそうですが、1円ではなく、『一文にもならない!』と言って、自分も使った様な記憶があります。当時、〈一文〉は、どれ位の価値があったのでしょうか。調べてみますと、円に換算して〈12円〉ほどだそうです。

みなさんは使ったことがおありでしょうか。〈一文銭〉ではなく、〈おあし〉と言う言葉をです。よく『おあしが足んなくて、映画も見れやしない!』と言ってるのを聞いらからです。「お金」のことを〈お足〉と言いました。その意味は、「寛永通宝」の裏に、「足」と刻字されていているからだと言う説でです。

また、 お金には、まるで足が生えている様に、どんどん遠くに行って、無くなってしまうからだと言うのが、もう一説です。それにしても、この「足」の付く言葉は、けっこうあるようです。

足し算 1+2=3
蛇足 蛇の絵を描くの足を付けて、余計なもののことを言います。
知足 知るを足る
満足 満ち足りる
不足 足りないこと
人足 働く人のこと ex.川越人足(川の流れに入って客を対岸まで運ぶ人)
下足 下駄や靴など外履き
充足 満ち足りていること
禁足 他に行ったりすることを禁止すること
百足 むかで

自分の「足」を、じっくりと見下ろしてみると、「這えば立て、立てば歩めの親心」で、初めて二本の足で立ち上がって、歩き始めたことを、父も母も兄たちも喜んでくれた日から、南半球のブエノスアイレスやサンパウロ、大陸の蒙古の草原までも歩いたことがあり、〈お足〉を握って〈良からぬ所〉にも入り込んだり、「戦争孤児の援助団体」に〈お足〉を携えて訪ねたことのある、「足」をです。

歩数を足し算すると、どれほどになるのでしょうか。生涯、どれだけの〈お足〉が、どんな目的のために費やされたのでしょうか。人生の最後に、全ての精算をされるのかも知れません。全ての行為の動機や目的や結果だって、損益計算されたりするのでしょう。マイナスとプラスとが、差し引き計算されるのでしょうか。マイナスならば、どう人は補うことができるのでしょうか。これって、けっこう厳粛なことなのかも知れません。
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朝顔便り/8月6日

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鏑木清方が〈おまけ〉の様に描いた「朝顔」 横浜のデパートで、「鏑木清方展」があって、その警備のアルバイトをしましたので、この方の贔屓(ひいき)になってしまいました。江戸期の日本画家の流れをくむ方で、「美人画」では、飛び抜けて人気がありました。たくさんの来場者があって、画展が何日あったのか忘れてしまいましたが、日柄、画の隅で目を光らせていたのです。
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一昨日の朝 iPadで撮った「朝顔」 家内が好きなので、華南の街の家のベランダで、春先から、翌年の正月過ぎまで咲く花を眺めていました。毎年毎日、咲く花の数を数えていたのです。
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葛飾北斎の描いた「朝顔」 流石、浮世絵師の浮世絵師、生きた花の様に描くのには驚かされます。江戸の街には、あちこちに鉢植えの朝顔があって、涼を楽しんでいたのでしょう。今日は長女、7月末は長男の嫁、8月朔日は家内、3日は次兄、明後日は次男の嫁、21日は次男の誕生日です。 8月1日の誕生花は、「朝顔」なのだそうです。