アメリカ版"スポ少"

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スポーツを歌った歌ではないのですが、"戦いすんで日が暮れて"との歌詞がありましたが、ベースボールの地区大会で優勝して、お父さんと一緒に、13才の孫が、試合を終えて、グラウンドを引き上げる後ろ姿を、次女が撮って送ってくれたのが、この写真です。

アメリカでは、"シーズンスポーツ"が盛んで、サッカー、水泳、ゴルフ、バスケットと、いろいろな種類のスポーツを、年間通してする様です。この孫も、季節ごとに、スポーツに興じているのです。わが家の子どもたちが、地方都市でしていたのが、"スポ少"でした。「スポーツ少年団」の略称ですが、彼らは、野球やバスケットをしていました。アメリカの様に、あれもこれもではありませんでした。

けっこう親が熱くなって、オニギリを作ったり、お菓子や飲み物を準備して、応援をしていたのです。"お母さんパワー"が溢れていて、《勝ち》に行くのです。あの熱心さには驚かされました。週末や休日には、試合があって、わが家は、あまり協力できなかったのですが、子どもたちは楽しんでいたのです。

妬まれたり、意地悪されたり、精神面で、子どもたちは、ずいぶんと鍛えられたのです。今では、"クラブチーム"があって、より専門的で、高度で、会費も高そうですが、そうまでしないと、勝てないし、有名になれないし、プロにはなれないからでしょうか。昔は、誰でもが、上手は上手に、下手は下手で参加していたのですが。

時々、動画ビデオを送ってくれるのですが、撮影してる次女が、熱くなって声援してる"母親の声”が入っていることがあります。お腹を痛めて産んだ子が、健康を与えられて、活躍しているのを観て、一入(ひとしお)の思いで楽しんでいるからでしょうね。このアメリカの"スポ少"でも、親が、けっこう"ヒートアップ"している様です。一家総出での参加は、好い傾向ではないでしょうか。

勝っても負けても、日本の"スポ少"は、大人がするのに真似てでしょうか、帰りがけに、<打ち上げ>をするのです。子どもとコーチと親たちで、"◯△焼肉"の食べ放題に連れて行かれて、反省食事会をするのが恒例でした。あれって独特な<日本文化>なのでしょうか。外孫たちには、きっと経験できないのでしょう。

今度は、もっと広域の大会に、孫は出場し、やがて《州大会》、《国大会》を目指すのでしょうか。普通の子たちが、緩やかに参加する、外孫たちが参加してるのは、そんなスポーツの様に感じています。プロになる様な、親が血まなこになった雰囲気が感じられないのが好いのです。スポーツは楽しくやらないといけませんね。

励まし合って、協力し合い、戦いや競争の勝ち負けだけでないこと、戦いながら相手チームにエールを送る、それがアメリカンスポーツの好さでしょうか。その上で、精一杯に楽しんでして欲しいと、そう中国の空の下で応援してるジイジです。

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絶滅危惧種

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この花は、「HP里山を歩こう」が、昨日配信してくださった、広島県庄原市に咲く「オグラセンノウ(小倉仙翁)」です。地元の高校生が、バイオで栽培したそうです。絶滅危惧種です。こういった花が、なくならない様、努力がなされているのですね。

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惜しまれつつ

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新宿の伊勢丹の近くの路地に、寄席(よせ)がありました。いえ、今もあります。そこは「末廣亭」と言い、上の兄が、中学生の頃、英語教師に誘われて、この寄席に連れて行かれていました。帰って来ると、その自慢話を聞かされたのです。よく“猿真似”と言いますが、“兄真似”をする傾向が、弟にはあって、それでけっこう強い関心を、落語に持つ様になったのです。

『神宮で、早稲田と慶応の試合があるってねえ!』『そうけえ!』とか、『隣に塀ができたってねえ!』『へー!』と言った話をしていたのを聞いて、子ども心に面白いと思ったのです。学校に行くと、みんなの前でやったりしていました。子どもの頃には、ラジオで、落語や漫才や浪曲を、よく放送していました。食事が終わった後に、それをよく聞いたのです。

この歌謡曲、落語、漫才、浪曲、ラジオ小説などが、当時の国民的娯楽でした。テレビが出て来る前のことで、それで言葉を覚え、意味が分からないと兄たちに聞いていました。そんなで、都内の学校に通う様になって、新宿に下車して、この「末廣亭」に、“兄真似“で、出掛けたのです。女友達も連れて行ったことがありました。その初めての経験が嬉しかったようで、彼女は親に話した様でした。

その頃の高座で、だれが噺(はな)していたのか、名前も題も記憶がありませんが、客につられて笑っていたのです。こちらでの教え子が、東京に、友人たちと旅行をして、この「寄席」に行って、『とても楽しかったんです!』と印象を語ってくれたことがありました。落語の面白さを理解できるなら、相当の日本語通になりますが、けっこう分かったのだそうです。

やはり上手な噺家は、古今亭志ん生、その息子の古今亭志ん朝、その兄の金原亭馬生、それに柳家小さん、三遊亭圓生だったでしょうか。小学生の頃にラジオを聞いて、笑い転げたのが三遊亭金馬でした。小学生をお腹が痛くなる様に笑わせたのですから、すごい落語家だったことになります。痴楽や歌奴も談志も面白かったですね。

昨日、「笑点」のメンバーで、後に司会をしていた、桂歌丸師匠が亡くなられたと報じていました。江戸落語の上手な噺家で、実に歯切れの良い、聡明な言葉遣いで、間の取り方がうまい噺家でした。日本文化の一つとして、この方が、江戸落語の面白さを伝えた貢献は大きいと思います。長い噺を、しっかり覚えて演じる能力には、驚かされます。そのためには、ものすごい努力、稽古(けいこ)があったのでしょう。

あの夏目漱石は、日本語を作った一人と言われますが、寄席通いをして、そこで多くのヒントを得て、創作に励んだそうです。漱石は、初代の三遊亭圓朝を贔屓(ひいき)にしていたそうです。存在感の強い方が召され、大変惜しまれます。

(歌丸師匠の出生地の横浜市の市花「バラ(イングリット・バーグマンという種類)」です)

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無事



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タイから“嬉しいニュース”が入りました。洞窟の中で行方不明になっていた、サッカー少年たち12名とコーチ1名とが、タイの海軍やイギリスの救助隊たちによる、必死の捜索の結果、発見されたのです。ワールドカップの行われていた時期の事故でした。無事の救出のために、もう3日必要と、外伝が伝えています。

ご両親の元に、無事に帰られるように心からお祈りしています。

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小石

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新宿の街で、小石を投げると、どちらかにきっと当たると言われたのが《"桜"に“N”のマーク》でした。新宿を行きに帰りに通過し、時には下車して、喫茶店や食堂や映画や落語を、飲んだり、食べたり、観たり、聞いたりしていた私が、よく聞いたり、言ったりしたことでした。何のことだと思われますか。それほど沢山いたり、あったりすることの例えでした。そう、今日日有名になってしまった<日大の学生>と<日本交通のタクシー>でした。

大学経営とタクシー会社の経営で、抜きん出ていたから、ユーモラスにそう言われていたのかも知れません。もう半世紀も前のことですから、今では違った言い回しがありそうですね。きっと、中国人の留学生が、新宿の街に溢れていることでしょうから、今では、その一方は、<中国人の留学生>に置き換えられるかも知れません。《それだけ多い》との喩えです。

ほぼ一年に一度の帰国を、ずっとしているのですが、この数年、帰国して目立つのは、欧米人の観光客が、地下鉄にも、ビジネスホテルにも、繁華街以外にも大勢いらっしゃるのです。川越に所用で出かけた時に、ターミナル駅に、これまた欧米人が何組もおいででした。もちろん、中国人観光客は、どこにでもおいでですが。

以前はお金持ち風の観光客が多かったのですが、“バックパッカー”と呼ぶのでしょうか、ザックを背負った中年から初老の欧米人が目立っていたようです。だいたい、昔は、若者がザックを担いで、地図を片手にして、キョロキョロと方角を見定めていたのですが、欧米人の御夫婦、女性連れ、しかも中年から初老の方たちが目立つのです。

前回の帰国時には、秋葉原駅前が、まるっきり変わってしまって、道を聞くのに、見回すと、中国人のみなさんが大勢で、彼らに聞かないように気を付けるのに大変でした。地下鉄の出口とJRの出口が分からなくて、バスターミナルに、なかなかたどり着かなかったのです。それに、”お上りさん“、私たちもですが、が多くて、店員さんにも聞くのですが、道や建物など知らない人ばかりでした。

もし、秋葉原で小石を投げていたら、きっと中国の方に当たるのでしょうね。同じアジア系ですが、やはり、ちょっと違いがあるようです。私たちも、この中国の街で歩いていると、地元の人は、『同胞ではないなぁ!』と思っているようです。どこか、ちょっと違うのでしょうか。私たちが、この国を楽しんで生活しているように、外国人観光客にも、日本を楽しんでもらいたいものです。

(1889年の秋葉原の街の様子です)

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コナスビ

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6月末の高知県高岡郡越知町・横倉山で、小さく咲く「コナスビ」の花です(HP「里山を歩こう」7月1日受信)。鬱蒼と木々の森林の中で、ひっそりと、天に向かって咲き誇っているのでしょうか。誰の目にも止まらない様な森の木陰で、この花は満足そうに咲いるのです。

事業を起こしたり、文学作品を書いたり、そんな偉くならなくとも、有名にならなくともいい、『ただ勇ましく高尚な心で生きて欲しい!』と、物の本に読んだ若い日から、そんな生き方をしてきての今日です。

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寄留者

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昨日の朝、7時40分に、いつもの様に家を出ました。立体交差の橋脚に近づきましたら、聞き覚えのあるメロディーが、けっこう大きな音量で聞こえてきたのです。ダンスサークルのメロディーです。確かにあれは、「星影のワルツ(白鳥園枝の作詞、遠藤実の作曲で1966年発表)」でした。

1 別れることはつらいけど
仕方がないんだ 君のため
別れに星影のワルツをうたおう
冷たい心じゃないんだよ
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ 死ぬ程に

2 一緒になれる幸せを
二人で夢見た ほほえんだ
別れに星影のワルツをうたおう
あんなに愛した仲なのに
あんなに愛した仲なのに
涙がにじむ夜の窓

3 さよならなんてどうしても
いえないだろうな 泣くだろうな
別れに星影のワルツをうたおう
遠くで祈ろう 幸せを
遠くで祈ろう 幸せを
今夜も星が降るようだ

別れ、さようなら、涙、泣く、冷たいこころ、失恋などの日本人の好む「ことば」や「感情」が、歌の中に散りばめられています。中国のみなさんが、翻訳された歌詞で、同じ哀調メロディーで口ずさむ時に、共感して止まないのです。そのほかにも「北国の春」、「津軽海峡冬景色」、「みちづれ(山茶花)」などもよく歌っていたり、MP3でメロディーが街中に流れています。

同じ東アジアの感性なのでしょうか、朝鮮半島のみなさんも、日本の「歌」を好むのです。同じ血が流れているからか、血が近いからでしょうか。それとも米作民族だからでしょうか。都会で生活をし始めるのですが、心の傷ついた若者が、出て来た田舎を振り返って、そこにある山河、父や母や兄弟姉妹や友、食べ物、そして思い出に郷愁を抱く様な感情があるからです。

杜甫や李白、芭蕉や牧水などは、都会に住めない漂泊詩人が多くおいでです。彼らの詩や歌は、人の心を捉えるのでしょう。人生は短いのです。それで生まれてから没するまでの行程は、旅に例えられるわけです。死の向こうに、《永恒の時》が残されているとすると、まさに私たちは、この世の《寄留者》で旅人に過ぎないわけです。悔いのない旅を続けて行きたいものです。

日曜日の朝は、「演歌」ではなく、天にも届く様な、全地に響き渡る様な歌を聞き、歌って始めたかったのですが、この世の現実は、失恋の歌でした。でも私の思いに中には、母がよく歌っていた、心に透き通る様な歌が溢れていました。

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7月1日

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7月になりました。日本では、梅雨明けが記録的に早いと聞きました。暑い夏の到来ですね。ここでも、37℃の高温を記録しています。今夏は、どれほど暑くなるのか、油断できません。

この花は、この月の花の「サルスベリ」です。私が出入りしていた東京のクラブの玄関に、この木が植えられていて、今頃花を咲かせていることでしょうか。きっと、こちらにもあることでしょうけど、まだ見かけたことがありません。

猛暑、酷暑、激暑、あつさたいさくを
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ユリ

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埼玉県所沢市にある「百合園」に咲く、「百合の花」です。西武球場の近くにあるそうです。わが家の子どもたちと近所の子を連れて、西武ライオンズの応援のために、9人乗りの"バン"に乗せて、その近くに、何度出かけたことでしょうか。30年以上も前のことになります。

その近くに「百合園」が、当時もあったのでしょうか、気が付きませんでした。狭山丘陵の中に、自生してるのでしょうか、それとも人工的に作った園なのでしょうか。
父の家が、中央高速道路の建設にために、立ち退きになって、引越しの候補先の所沢に、家を探したことがありました。50年以上も前のことで、まだ、そこは農村でしたが、今は、東京通勤圏のベッドタウンになっています。

「ヒマワリ園」とか、「バラ園」とか、何十万株も植えて、圧倒させられて、人々の目を楽しませる様ですが、ひっそりと谷間や山の麓に咲く花も、健気でいいですね。
「里山を歩こう」に、昨夕投稿のあった写真です。

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祖父

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こちらの子どもたちは、二組の祖父母がいて、父方か、母方の祖父母が同居したり、近くに生活して、よくお世話をしている光景を目にします。ところが私は祖父母の顔を知りません。一緒に生活をした事も、訪ねた事もないのです。ただ、「端午の節句」に、"ちまき"を毎春送ってくれた母の養母には、母の古里を訪ねた時に会って、数日一緒に過ごしたことはあります。《血の繋がり》こそありませんでしたが、《心の繋がり》を感じさせてくれる好い方でした。おぶってもらったり、手を引いてもらったことはないのです。

祖父の世代に、「広田弘毅」という方がおられました。第32代の首相をされ、「東京裁判」で、南京事件の責任を問われて、処刑された政治家でした。この方の評伝が何冊も書かれています。城山三郎は、小説に、この広田弘毅を取り上げて、「落日燃ゆ」を書き残していて、一気に読了してしまいました。すでに故人ですが、私が祖父の様に思いたい人なのです。

人柄としては、「春風接人」と言われたほど、怒ったりすることのない、まるで「春風」を感じさせる様な生き方の人だったそうです。ユーモアのある方で、飄々(ひょうひょう)とした方だった様です。閑職に追われ、オランダで外交官の職にあった時には、「風車 風の吹くまで 昼寝かな」と俳句を読んで、オランダやソ連などのヨーロッパ事情を研究したようです。

また、《家族思い》の人でした。ご家族と過ごされた様子が、彼の人となりを、よく表していた様です。血筋や家柄で選ぶのではなく、故郷の普通の家庭の女性と結婚されています。そいして結婚された奥様との生活も、実に穏やかだったのです。「東京裁判」の公判中には、お嬢様が、いつも傍聴席にあったのです。「死刑判決」が出された後、家族宛に書かれた手紙の内容は、圧巻だそうです。

会ったことのない、『自分の祖父は、どんな人だったんだろう?』と祖父像を思い巡らせていると、父の手を引いて、日曜日ごとに街の倶楽部に出掛けたと言う、祖父の様子を思い浮かべたりするのです。夏休みになって、いつもは登下校とお昼に送り迎えしている、この街の小学生のおじいちゃんおばあちゃんをみかけないのですが、きっと、子どもたちの好い思い出作りがなされているのだろうと思ったりしている、酷暑の夏の朝です。

(横須賀市の海岸地帯です)

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