対策

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雨を表現する言葉があります。新潟に行きました時に、教わったのは、『弁当忘れても、傘忘れるな!』でした。雨の多い土地柄ならではの言葉でしょうか。きっと日本海側の地域には、そんな"挨拶言葉"が言い伝えられているのでしょう。昔は、傘などは、都会人が使っただけでしょうから、農村など庶民は、「笠に簑(みの/藁で作られたカッパの様な雨具)」を着用したのでしょう。

小学校の頃は、「番傘(ばんがさ/竹製で、油紙が貼られてありました)」をさして登下校をした覚えがあります。それに下駄をつっかけていて、長靴などは履いていませんでした。いつか、この街を歩いていた時、同じ番傘や下駄を、店頭で見つけたことがありました。 こちらでも、同じ様な雨具が使われていたのですね。

今回の豪雨の被害の様子を伝える記事の中に、『雨を畏れること 虎を畏れるごとし』と言う、中国の"ことわざ"を読みました。東アジアの猛獣は虎、その虎の様に畏るべきは雨だ、と言ったのでしょうか。華南や華東では、雨季になりますと、毎日の様に雨が降りますから、こういった言葉が伝えらえられているのでしょうか。日本では考えられない様な規模の大河の流れる国柄、降る雨を集めて流れる河川の海の水量は、半端なく多いからでしょう。

この街の古写真をみますと、河岸は自然のままで、護岸工事などなされてありませんでした。旧市街と農村部を分ける間に、大きな川が流れていて、そこに最初に橋を架けたのは、日本の企業だったと聞きました。それまでは、水運で渡し舟が物流を担っていて、「ジャンク」と呼ばれた舟が使われていたのです。

この河川の護岸に、街の古代からの歴史が石版に刻まれて、掲出されてあるのですが、これまで度々、河が氾濫し、洪水が起こったとの記事があります。何年も前に、知人を訪ねて四川省に行きました時に、成都の郊外にある、「都江Dūjiāng」という街に連れて行って頂きました。そこには、「珉江minjiang」という急流の川が流れ、中洲には「堰yan(せき)」が作られていて、「都江堰」と呼ばれ四川省の名所でした。

この川が度々氾濫するので、その洪水対策と、農業用水を引くために作られた「堰」でした。ウイキペディアに、『紀元前3世紀、戦国時代の秦の蜀郡郡守李冰(中国語版)(りひょう)が、洪水に悩む人々を救うために紀元前256年から紀元前251年にかけて原形となる堰を築造した。」とあります。山梨県に、釜無川(富士川の上流)があり、御勅使川(みだいがわ)とこの川が合流する地点が、よく決壊したのです。そこに、武田信玄が、中国の「都江堰」に倣って「堰(堤)」を作って、"信玄堤"と呼ばれています。

地球は、どこも、自然の猛威と闘い続けてきた歴史があります。今回も、大被害を受けて、知恵を集めて、更なる洪水対策がなされる様に、心から願っております。

(四川省の「都江堰」です)

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無事

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サッカー少年12人とコーチ1人が、洞窟から無事に救出されました。救出に当たったタイ海軍や知事の働きがあったからです。まさに、奇跡的な救出でした。少年のみなさんの生命力の強さと、励まし合いがあったからでしょう。年長者の若きコーチの指導力も大きかったのでしょう。親御さんの喜びも一入でしょうね。好かった!

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浴衣

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これも「日本文化」ですね。“浴衣(ゆかた)”を着て、「七夕の季節」に合わせて、授業を受けるなんて、素敵ですね。岡山県の「美作大学(みまさか)」の津山校の学生のみなさんです。学生会が、こんなアイデアを出し、学校が、それを認めるという「学風」が好いですね。男子は、“甚平(じんべい)”を着ています。

学校の卒業式に、母に着せてもらって、弟の絣(かすり)の着物に、父の袴(はかま)を履き、高下駄で、式に出ました。母が同伴してくれたのです。高等教育を、息子たちに受けさせてくれた母は、向学心があったのですが、それを受ける機会が与えられませんでした。そんな母でしたが、三男の私の卒業式に出て、喜んでくれました。

母が、白絣の着物を作ってくれたのですが、事務所に置いてたのを、捨てられてしまいました。何時か、買い直して、下駄をつっけながら、夏の夕べを散策でもしてみたいものです。父の「大島絣」が、兄の家に残っています。そんな古い物を着たがる「古い奴」なのでしょう。娘の買ってくれた、“甚平”があって、時々着ています。ただ、これで外出する勇気はまだ出てまいりません。

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台風8号



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日本の気象庁が、9日15時に発表した「台風8号」の進路予報図です。台湾から、中国本土に進路を向けています。かなり強い台風の様です。日本の九州、四国、中国、近畿、中部圏に大雨をもたらせ、甚大な被害を与えた後ですので、十分な警戒が必要です。

何が起こるか予想がつかない、最近の自然界の猛威です。以前、街中の街路樹と、私たちに住んでいた小区の樹々が、台風の大風で、なぎ倒されたことがありました。今回も、十分に注意しないといけないと思います。台湾、中国の対岸が、大きな被害に会いません様に願っています。

知人のお母さんと息子さんが、12日に、所用で旅行されると、今日訪ねて来られて、言っておいででした。大切な用がありますので、ご無事を願っています。

洪水

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この4、5月の帰国時に、友人の会社の寮から出掛けて、隅田川の河岸を、川風を受けながら、気持ちよく散歩いたしました。そこは、子どの頃の土を盛り上げただけの「土手(堤防)」とは違って、コンクリートで護岸工事が、確りとなされていました。支流と接する地点には水門が設けてあって、帝都を流れる近代河川は、津波や洪水にはびくともしないだろうと感じていました。

ところが、今回の豪雨で、そのように護岸工事が施された河川が、幾つも氾濫したてしまっているのを知って驚いています。河川土木で、科学的に想定した降雨量や河川の水量以上の降雨に、その堤防が耐えられなかったわけです。倉敷市の屋根辺りまで水が届いて、被災されたご家族が、屋根の上に逃れている写真を見て、驚いてしまいました。私の父が買い、今は次兄が住んでいる家は、多摩川の流れに近い、堤防のすぐ近くにあります。

盤石な堤防だと思えますが、これとても上流の降雨量によっては、流水能力を超えてしまうことも考えられ、安心はできません。山に降る雨が、下草や枯葉の間を静かに流れ、その流れを集めて川を形作るのですが、降る雨の量が想定を超えていたら、山の生木だって、根こそぎなぎ倒してしまうのでしょう。一昨日、こちらでも夕立がありましたが、最近の降る雨量と強さが半端ではないのです。すぐに道が川のような流れ始めているのです。

人類の知恵と技術を超えた、自然界の異変に、どう対処したら好いのでしょうか。母が教えてくれた「ノアの箱舟」の故事ですが、舟を建造しているノア家族を見て、人々が嘲笑っています。内陸部で、しかも雨など降ったことのない地で、舟の建造をするなど、誰一人想定できなかったからです。ところが、ポツリと降り始めた雨が、滝のように降ってきたのです。そして四十日四十夜降り続けたのです。
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『まさか!?」のことが起こったのです。『今は、《まさかの時代》なのかも知れないな?』と思ってしまうのです。遥か彼方の星に行ける衛星(探査機)を作って、それを打ち上げ、運行させ、その星の岩石を採取し、数年後には、地球に持ち帰えられるほどの人間の知恵と技術があっても、自分の足元の問題、古代人が戦った問題を、未だに私たちは問題にしているわけです。

多くの犠牲者が出ている被災地で、被災者のみなさんのご無事と、一日も早い復旧を、心から願っています。タイ北部の洞窟の13人のみなさんが一日も早く、脱出でき家に帰れますように(9日の朝の時点で4人が救出されたそうです!)。また、世界中の難民のみなさんが、母国に帰れて、住む家や食べ物や仕事や学びが通常にできますように。ガンや疫病に冒されたみなさんが、癒されますように、ご無事と平和と平安を、心からから願う、七月の日曜日の夕です。

(倉敷市の市花の「フジ」、探査機の「はやぶさ」の展示模型です)

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イチヤクソウ

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広島県北広島町安芸太田町で咲く、晩期の「イチヤクソウ(一薬草)」です(☞「HP里山を歩こう」からです)。

広島県下も、大雨の影響で、大きな被害が出ているそうです。南方からは、強大な勢力の「台風8号」が、沖縄や台湾をうかがっている様です。梅雨の期間が短かったから、明けたと同時に、大雨に見舞われているのでしょうか。ご無事を、心から願っております。

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ご無事を!

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悪戯をして叱られたり、からかわれる時に、父や兄に、よく言われたのは、『準、お前は、◯ヶ滝で拾ったんだぞ!』でした。記憶にない時のことを、そう言われて、そう信じていたことがありました。よく、日本人は、こう言ったことを、古来子どもたちに言ってきている様です。

この滝の上流の綺麗な渓谷の脇に、旅籠宿がありました。その離れを借りて、家族をそこに住まわせて、父は山の奥の軍需工場で仕事をしていたのです。弟と私は、そこで生まれました。同じ山の麓から流れ出る、別の流れの脇に、父の事務所があって、そこに越して、私たち兄弟は育ちました。山女魚が泳ぐ渓流の脇でした。私の生まれ故郷ほど、美麗な山里はありません。その故郷は如何おわすでしょうか。

みなさんの生まれ育った故郷は、今回の豪雨の被害に会われていらっしゃるでしょうか。自然の美を破壊してしまう様な、想像を絶する暴雨の襲来で、日本列島は大変の様です。というよりは危機的状況です。いえ日本ばかりではなく、熱波や豪雨や地震や火山爆発など、地球全域が、危機的状況に見舞われています。

国境紛争や経済制裁や自国防衛などの問題から目を離して、温暖化や人口増や食糧危機や疫病など、地球規模で考えないと、残された二十一世紀の80年は、生き抜けられないのではないでしょうか。『早く手を打たないと!』と、一世紀も前から言われ続けているのに、<他人事>でしか考えなかった脅威が、身近かで猛威をふるっています。

人心の荒廃と自然の脅威と、関係があるのでしょうか。本末転倒の時代の只中で、《本来》、《当初》に戻らないといけない時期に、来ているのではないでしょうか。幼い日に母から聞いた、「ノアの箱舟」の故事が、思いによぎってまいります。

みなさんのお住いの地と故郷、ご親族の無事を心から願っております。

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あれから

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長女が、都内の短大の卒業をしたのが、1995年3月20日でした。その日、短大の卒業式が、「渋谷公会堂」で行われ、私たちは、長女が生まれ育った街から、JRの電車に乗って、駆け付けて、式に参列しました。娘は、地下鉄に乗って渋谷に向かったのですが、その途中に起こったのが、あの「地下鉄サリン事件」でした。

そんな日本を震撼とさせる様な大事件を、娘も私たちも避けられたのですが、13人の犠牲者(その他の事件の犠牲者総数は29人になります)、6300人の負傷者を出したのです。娘は、それをギリギリに避けて式に出られたのです。何が起こったのかは、知るよしもなかったのですが、式の混乱を避けるために、それには触れずに、無事に卒業式が挙行され終えたのです。

私は、ヨガとか瞑想には、全く興味も関心もありませんし、ある人たちが、それをすることによって、精神的な錯乱を起こしていていて、そう言った被害者とお会いしたことがありました。趣味やエクササイズでは終わらない<深み>がある様です。時には、人の心の深みに、出口のない闇を引き込んで、思考能力を狂わせたり、精神を破壊する可能性があることを知って、近づかないのです。そして、人にも危険を喚起し、注意する様にお話しています。あの団体の始まりも、それでした。
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そんなことをするより、「落語」を聞いたり、音楽会でモーツアルトを聞いたり、知らない街に旅をしたり、美味しい物を食べていた方が、心や身体の疲れを取り除け、清新な気分を味わえるのです。今日のニュースで、首謀者と共犯者が、死刑に処せられたと報じています。<古代法>は、「目には目、歯には歯」ですが、<近代法>では、「死刑」には賛否両論があります。でも人は、「播いたものを刈り取る」のかも知れません。どう受け取るかは一様ではないのでしょう。

あの団体の施設が、山梨県の上九一色村にあって、何時でしたから、取り壊された跡地に立ったことがありました。そこで悪計が図られ、準備され、日本を支配するために出て行った場は、夏草が茂っていただけでした。でも、残党が活動しています。公安調査庁によると、同じ凶行を繰り返す可能性が大きいと警戒している様です。

「手段」を誤らせる、間違った<精神集中術>は、限りなく危険です。どうしても避けて、近付いてはなりません。『悪しき物に魂を売ってしまうからだ!』と言われています。この私たちが住み続けている街の北の嶺に、中国中から、若者を集めて、「キャンプ」をした跡地があります。そこでは、中国の将来に、夢を持って生きて行き、祖国の復興に仕えるために、願い学び、夢を語り合ったのだそうです。

大人は、若者に、《夢》を与えなければなりません。遠大で、壮大な夢です。自分に、与えられている若さや力を、祖国の祝福のために費やすためにです。私は、そこに出かけて、廃屋なった建物の側に行くのが好きなのです。締め切った建物は、もう使えそうもありませんが、その時の「息吹き」が、何となく感受できるからです。あの嶺の上で、学んだ若者の子や孫たちが、志高く、同じ幻に、今も 生きてることでしょう。

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一人の友人に、なぜか仕切りに会いたくなりました。幼馴染でも、小学校の仲良しでも、中高の悪友でもなく、大学で出会った男です。剛柔流の空手部に所属し、けっこう強く、実績もあった部でしたが、暴力事件に巻き込まれて、入学した頃には、<喧嘩両成敗>で、表立って活動ができずに、隠れて稽古をしていました。古武士の様な男で、爽やかな目をした好漢でした。

父君を、戦争で亡くして、お母様の手で姉上と彼は、 九州の街で育って、上京して来ていました。同じ学科の同級でした。母が参加していた倶楽部に、一緒に行ったり、そこで臨時に留守番をしていたアメリカ人の婦人の家にも出入りしていました。そこには、同級生が何人か、お邪魔して、交わりをしていました。

彼が、島崎藤村が好きで、「初恋」や「惜別の歌」をよく歌っていました。

まだあげ初(そ)めし前髪の
林檎(りんご)のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛(はなぐし)の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきの
その髪の毛にかゝるとき
たのしき恋の盃を
君が情(なさけ)に酌(く)みしかな

林檎畑の樹(こ)の下(した)に
おのづからなる細道は
誰(た)が踏みそめしかたみ
問ひたまふこそこひしけれ
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私たちが学んだのは、この藤村が学んだ同じ学校でした。そういう先輩後輩のよしみで、彼は、藤村を好んでいたのです。この友人が、高倉健も好きで、何度か一緒に、映画を観る羽目になったのです。自分では観たいとは思わない、「任侠物」だったのですが、一緒に見ているうちに、映画に引き込まれてしまい、一緒に活動してる錯覚に見舞われた様でした。

浅草が舞台の「唐獅子牡丹」という題で、シリーズ物の最初の映画で、新宿で観たでしょうか。彼の父君は博徒ではありませんで、旧陸軍の陸大卒の佐官の将校でした。戦後、中国の北支に残留して、軍命で国民軍に加わったのですが、事情が変わって、処刑される部下たちの責任をとって、自刃してしまったのです。上級の上官は、終戦と同時期に、無事に帰国したのですが、残留組は辛い目にあったのだそうです。

彼の話によると、ベルリンオリンピックには、彼の父君は、乗馬の補欠で参加もしたほどの乗り手だった様です。互いの結婚式に、行き来をした後、疎遠になってしまって、今になってしまいました。父君の戦友だか、叔父さんの戦友だかの会社に勤めていましたが、重役をしていました。そう言えば、法学の教授が、父君の部下で、彼の結婚式の仲人をされていました。

どうしたのでしょうか、彼のその後が気になってしまいました。疎遠の友に会いたいとの思いも、「終活」の一つなのでしょうか。『呆けてしまう前に、何かするように!』との内なる声なのでしょうか。今度、帰国したら連絡をとってみましょう。

(山西省太原氏の街中の様子、林檎の花です)

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