作詞が丘灯至夫、作曲が上原げんと、初代コロムビア・ローズが歌った 「東京のバスガール」は、昭和32年(1957)年に発表され、一世を風靡したヒット歌謡曲でした。

1 若い希望も恋もある
ビルの街から山の手へ
紺の制服身につけて
私は東京のバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

2 昨日心にとめた方
今日はきれいな人つれて
夢ははかなく破れても
くじけちゃいけないバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

3 酔ったお客の意地悪さ
いやな言葉でどなられて
ほろり落としたひとしずく
それでも東京のバスガール
発車オーライ 明るく明るく走るのよ

今運行されている路線バスは、「ワンマンバス」で、運転手が車内案内をし、カードで乗車賃を払うので、もうその姿を知る人も少なくなったのが、「バスガール(和製英語)」です。ここで歌われている「バスガール」は、東京都内を走る、「都バス」のバスガールだったのでしょう。当時は、女性にとっては、憧れの職業だったそうです。

ところが、私の胸をときめかせてやまなかったのが、「京都のバスガール」でした。3泊4日の関西への中学校の「修学旅行」で、観光案内をしてくれたバスガールの方に、淡い恋心を覚えたからです。坊主頭のニキビの男子中学生校の我々にとっては、4日も一緒に時を過ごせる女性は、母以外にいなかったのです。

ことばの抑揚が「京都弁」で、ポッチャリ体型のお姉さんは、生意気盛りに私にとっては、憧れ以上でした。男兄弟四人、父を入れて五人の中で育だった反動でもあったからでしょうか。この〈旅する中学生〉の私にはヒゲも生え出して、いっぱしの「男」だったわけです。その憧れが昂じて、大学受験の折、『京都の同志社!』と、学校の進学志望校欄に記入したほどです。女人禁制の中学・高校で、汗男臭さの男の中で過ごした私は、東京弁の彼女よりも、京都弁のお姉さんがよかったのです。

現実は、京都への進学は叶わず、東京に落ち着いてしまったわけです。こう言うのを、「思春期コンプレックス」と言うのでしょうか。「京女性への思慕」だけではなく、「京都への憧れ」を引き摺っている自分が、まだいるのです。そこは、父と母が、新婚時代に暮らした街だと言うこともあって、身近に感じてしまうからでしょうか。

先日、その京都からの男性のお客様が、4日ほど、我が家に滞在されました。あの京女性ではなく、京男のこの方のことばの端に、中学の時に聞いた、京ことばを思い出させてくれたのです。お土産に頂いた、「ストーレン(ドイツ製で輸入の菓子パン/この季節に北欧などで必ず食べるのだそうです)」とコーヒー(ウガンダの豆を京都の店で焙煎した物)で、アフリカとドイツ、そして「京」を、とても美味しく味わった朝でした。

ちなみに家内は、大阪の泉州・堺で誕生していますが、東京で育って、〈北多摩弁〉の女性です。

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