ありがとう!

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 『 あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言2325節)』

 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。 (申命記516節)』

 『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。  あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。 (詩篇1391316節)』

 『私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ15節)』

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 私たちは、主なる神のご計画と祝福の中で、母親の胎に宿り、手と腕に抱かれ、膝にまとわりつき、背におぶわれ、乳房に養われ、手で食事を受け、手を握られて歩んで、わたしたちがあります。さまざまな事情で、母の愛を受けなかったとしても、人は胎内での温かさ、心臓や血流の音の記憶が残されていると言われています。

 肺炎で死にそうになったわたしを、献身的に世話してくれた母、「エホバ・ラファ(出エジプト1526節)」でいらっしゃる神に、平癒を叫び祈ってくれた母がいて、今日のわたしがいます。癒えて健康になって、悪戯小僧になって、バスケットボールやハンドボールやテニスボールができるようになっていきました。跳び箱もクラス一でした。

 結婚して、4人の子が与えられ、仕事も与えられ、伝道の業にも携われ、海外にも出掛けられ、今は静かな時を、家内と共に過ごしています。母業を終えた家内は、それでも一人一人の様子が気になって、今では、息子に買ってもらったスマホで、チャットを使って、毎朝、聖句を送信しています。

 昨日は、家内を母のように慕ってくれる中国人のご家族が、ご夫婦と二人のお子さん連れで、蘭花をお祝いに持参して、中国漢方薬や食材や果物をお土産にして、訪ねてくれました。お昼は、洋麺屋五右衛門という店で、食事までもご馳走してくださったのです。

 とても楽しい時を過ごすことができ、家内は大喜びでした。彼らの華南の会社の工場の応接室で、聖書研究会を持っていました。彼らは三代目のクリスチャンで、美しい海浜の村で育って、何度か彼らのふるさとにお連れいただきました。

 「母の日」に、母を思い出しました。家内は、昨日、駅に置かれ、自由に弾けるピアノの前に座って、讃美で駅頭を満たしたいと、夕方出掛けて行きました。四人の子供たちからは、『ありがとう!』の message が届きました。若い中国人のお母さんからも、『母情节快乐muqinjiekuaile!』とチャットがあり、感謝していました。

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立夏の花三昧

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 巴波川の流れの中で、まぶしいほどに黄色く咲いていた「キバナショウブ(黄花菖蒲)でしょうか、散歩途中に見かけました。大水が来て、流されないように願って撮った一葉です。家の中に咲く、「カラー( calla/オランダカイウ属科の花 )」と「胡蝶蘭」です。また球根を植えた覚えがないのですが、「アマリリス」が、鉢の中で咲きました。黄、赤、白と、内も外も鮮やかな初夏(昨日は「立夏」です。

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乾いたパンと平和

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 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは(私訳:一椀のオジヤやスイトンがあって、赦しがあるのは)、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 「家庭」とは、『夫婦・親子など家族が一緒に生活する集まり。また、家族が生活する所。(広辞苑)』だと言われます。神さまが、私たち人の保護、安息、関係作り、学習の場として与えてくださった《祝福の世界》ではないでしょうか。

 ご承知の様に、今日の世界中で見られるのは、家庭が崩壊して、機能を働かせていないばかりか、幼稚園や学校の世界に、家庭から出て行った幼い子どもたちが、心理的にも肉体的にも傷つけられているという悲しいニュースが、多く報じられていることです。今では、家庭に中にも、そう言ったことが、事件として起こっているとの報道が多くあります。

 一日の出来事を、親子で語り合い、ホッとできる交わりのできる場が、今、なくなりつつあります。神さまが意図された時間的な心理的な余裕が、心にも家庭にもなくなっていることは、悲しい事態であります。学校でも同じでしょうか。『もし祈ることができたなら!』、とわたしは思ってしまうのです。誰も祈らなけれならない課題を満ちながら、どう祈るか、だれに祈るかを知らないでいるのです。

 わたしは、この時代の大切な課題は、「家庭の回復」だと思ってやみません。4人の子育てで、家内と心掛けてきたのは、冒頭に掲げた、聖書のことばのような「家庭」でした。そこに記された家庭は、物質中心の集団ではなく、愛とか理想とか幻とかの「精神中心の場」であるように、示唆されています。そこには喜びが溢れていて、物を持ち、お腹がいっぱいにされる満足ではなく、精神の高さによる満足に違いありません。

 地球上の最高の「堡塁(ほるい)」が家庭です。親子喧嘩、兄弟喧嘩が繰り返された父の家でしたが、あれって recreation(レクレーション/気晴らし)だったように思い出すのです。あの時、住んでいた街で、一番賑やかな家だったのではないでしょうか。自分が、家に帰って来るたび、『お母さんいる?』と言って家に入るというわたしに、近所のおばさんが、〈 mother  complex 〉だ、と言ったようです。

 夫と四人の男の子が、『無事であるように!』との願いを祈りで表し、神のいますことを示してくれた母でした。信仰を強要しませんでしたが、クリスチャンを生きていた母の生き方に、強さをみていたのです。何度か病んで、死線を彷徨っていた母の無事を確かめたかったのでしょう。やがて、家族は、母の信仰を継承したのです。

 喧嘩ばかりの家庭でしたが、母が父の家を回復したのです。だれも、理想的に、成功的に人生を歩むわけではないのでしょう。成功者の陰にも、辛い経験があって、それを乗り越えて生きてきたのでしょう。恵まれない環境に中で生まれ、生きてきても、素晴らしい出会いがあったり、懐かしい出来事があって、力付けられる時あって、『生きていてもいいんだ!』と、得心して生き抜いた人だっているのでしょう。

 それは、全能者、創造者の元に帰るための切っ掛けになるに違いありません。『継母のヨシエに、蔑ろにされたことがあった!』と、母と一緒になる時に、父が自分の過去を語ったのだと、母に聞きました。弱さも、自分の妻となる母に漏らしたのでしょう。その継母が亡くなって、自分も老境に差し掛かった頃、『ヨシエさんは、あの時代、シュークリームを作ったり、いろんなものを作って食べさせてくれ、料理が上手な人だったよ!』と言って、継母を懐かしんでいたことがあります。

 腹違いの弟や妹の弁当と、自分の弁当に差別があったのだそうですが、きっと思い込みや拗(す)ねた思いがあったのでしょう。子どもだった父にありそうなことです。実際、辛いこともあったのでしょう、でも歳を重ねて、それを忘れたり、赦したりして、イエス・キリストを、救い主と信じて、父は帰天したのです。

 豊かな食卓で育っても、貧相なおかずを食べて大ききくなっても、神のいます事を信じられたら、万事は益になるのでしょう。オジヤもスイトンも、懐かしくって、時々無性に食べたくなってしまいます。母は作っても、自分では食べなかったのです。子ども頃、そればっかりで育ったからだそうです。二人っきりのわが家は、「病と果敢に闘う妻」と伴にいて、今日も「平和」でおります。

(中近東で食べられる「パン」です)

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秘訣

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 『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。  あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 (申命記241920節)』

 1960年代の終わり頃でしょうか、それまでリール式のテープに録音する大きなものでしたが、左手で掴めるくらいの大きさの「カセット・テープレコーダー」が発売されました。当時、わたしの初任給が、25000円で、その半分ほどでしたから、ずいぶん高額で買ったのです。何か高額な「若者のオモチャ」のようでした。

 Sonyの製品で、後になって知るのですが、井深大(まさる)という方が、この会社の創業者の一人で、この方がクリスチャンだったのです。大少年は、機械いじりが大好きだったそうで、時計などを見ると、親戚の家に行っても分解をし始めてしまうほどで、親戚は、彼がやって来ると、家の人は機械類を隠してしまったそうです。

 このわたしも、ドライバーとかペンチを持つと、機械を開いてみたくなってしまったのです。どうして動くのかが不思議で、科学する子どもだったようでした。そんなわたしを、父は叱らないで自由にさせてくれたのです。一番の不思議は、父の机の上に置かれてあったモールス信号機でした。どうして、線で繋がっていない遠方の地に、信号を送れるのかが不思議でならなかったのです。
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 あのままだったら、Jiny という企業を創業できたかも知れませんが、飽きっぽいわたしでしたから、だめでした。この井深大は、世界的な企業人ですから、cream cake が似合いそうですが、あんころ餅が好きだったのだそうです。わたしたちの住む街の北にある日光の出身で、会津藩士の流れを汲む家柄だったそうです。

 父より一学年上の同世代でしたし、父もあんこのきんつばが好きでしたから、何とはなしに親近感があった人でした。この井深大が書き表した、1946年の Sony「設立趣意書」には、次のようにあります。

 『・・・技術の力で祖国復興に役立てよう』、『不当なる儲け主義を廃し、・・・・徒(いたずら)に規模の拡大を追わず、』とあります。早稲田に学んだ人でしたが、恩師の影響でキリスト教会に導かれ、信仰を持たれたのです。「祈る企業人」だったのでしょうか、世界的な企業になっていったわけです。

 聖書には、「弱者保護規定」が多く見られます。Sony は、心身上に障碍を負われた方たちを多く雇い入れ、働く機会を提供してきた企業です。ここにも、世界的に名を馳せて、《良い物作り》にしてきた秘訣がありそうです。

(「カセットテープレコーダー」、「落穂を拾うルツ」です)

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京都府

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 祇園とか鴨川、御所や二条城などを代表とする京都は、長く日本の首都であった街です。この京都は、第三高等学校が置かれた学都でもありました。その三高の寮歌は、1905年、澤村胡夷によって作詞されたものです。次の様な歌詞の歌で、京都が、どんな街であったかが歌われています。澤村は、1903年に三高に入学しており、在校時に作詞していますが、その七五調の歌詞の文才に驚かされます。

1.紅萠ゆる丘の花
早緑匂ふ岸の色
都の花に嘯けば
月こそかゝれ吉田山

2.緑の夏の芝露に
残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつゝ
我等が胸に湧返る

3.千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通へる夢は崑崙の
高嶺の此方戈壁の原

4.ラインの城やアルペンの
谷間の氷雨なだれ雪
夕は辿る北溟の
日の影暗き冬の波

5.鳴呼故里よ野よ花よ
こゝにも萠ゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯き見ずや古都の月

6.それ京洛の岸に散る
三年の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐

7.左手の書にうなづきつ
夕の風に吟ずれば
砕けて飛べる白雲の
空には高し如意ヶ嶽

8.神楽ヶ丘の初時雨
老樹の梢傳ふ時
檠燈かゝげ口誦む
先哲至理の教にも

9.嗚呼又遠き二千年
血潮の史や西の子の
栄枯の跡を思ふにも
胸こそ躍れ若き身に

10.希望は照れり東海の
み富士の裾の山桜
歴史を誇る二千載
神武の子等が起てる今

11.見よ洛陽の花霞
櫻の下の男の子等が
今逍遙に月白く
静に照れり吉田山

 三高(京都大学)には関わりがありませんが、この京都は、何と言っても、父が母が結婚して、最初に住んだ街であることを知ってから、自分では、そこに住むことは考えたことも、願ったこともありませんでしたが、どんな街か興味を持ち続けてきました。父母の暮らした、昭和も戦争前の時期の京都は、どんな風情の漂う古都だったのでしょうか。市電が走ったり、生活はゆったりとして、落ち着いた街だったに違いありません。今でも、高い建造物が規制された街なのです。
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 華南の街を飛び立って、関西空港に着いて、特急電車で京都に行き、そこからバスに乗って、どうしても訪ねたかったのは、京の風物詩を学んだことのあった、洛北の「大原」でした。京の街に、山道を下って、炭や薪を頭に乗せて、売り歩いた街道を歩いてみたかったので、家内と一緒に念願の投宿を、帰国の度、2回続けてしてみたのです。

 どこにもある山村でしたが、思い入れがあると、特別なのででょうか、一泊を二泊に延ばして、民宿の宿に泊まりました。中華の味に慣れていたわたしたちは、そこで夕食に出された、「味噌仕立ての鍋」が、ことのほか美味しかったのです。夕食後、壺の様な個人用の湯船に浸かっていたら、はらはらと雪が待っていたのも日本情緒を満喫させていただいた夕どきでした。

 村の喫茶店に入ったら、話好きな女主人に気に入られ、『次に来たら、家の方の玄関に訪ねていらっしゃい!』と言われたのですが、訪ねずじまいで去ってしまいました。歌で歌われるほど、寺院で有名ですが、家内も私も、お寺には関心がなく、人や人の営みにありましたので、街歩きをして、道の駅に寄ったりして、大原の静かな佇まいを楽しんだのです。

 久しぶりの日本を満喫して、バスで、京都駅に出て上京したのですが、乗る予定の電車を遅らせて、しばし京の街歩きをしてみたのです。その街中で飲んだコーヒーが美味しかったのです。京都人は、古都に住みながら、舶来の珈琲を、よく飲むのだそうで、軒を連ねて喫茶店があって、東京では見られない光景でした。modern な街でもあるのです。

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 中学の修学旅行でも、訪ねたことがありました。歴史で学んでいる京都や奈良は、教科書の挿絵では感じられない、実際の様子に、日本人の〈心のふる里〉を感じさせるものがあった様でした。それよりもなによりも、バスガイドの笑顔と京言葉に、男子だけの学校の中坊のわたしたちにとっては、窓外の景色どころではなかったのを思い出して、苦笑いの今です。

 京都府は、日本海にも面していて、戦後の大陸からの66万もの引き揚げられた方々の帰港の港「舞鶴」があります。また日本海沿岸の港に寄港して、物資を運んだ北前船の主要な寄港地で、若狭街道の宿場町でもありました。京の都にも近くて、大変に栄えた商都でした。何よりも京都は、平安京の都であったことで、かつての日本の中心であったわけです。今住む下野国は、さらに「陸奥(みちのく)」の東北地方の入り口で、京都からは、随分と遠隔の地だったのでしょう。

 人口が255万、府都は京都市、府花は枝垂れ桜・嵯峨菊・撫子、府木は北山杉、府鳥はオオミズナギドリ、県の75%は山地なのです。府の北に、福知山という地があり、母の故郷に帰って行く途中に通過駅がありました。旧国鉄の福知山線の駅なのです。八歳の時の旅での駅名や駅舎の記憶が、なぜか鮮明なのです。丹波の地あって、藍染で古来有名な街です。

 明治を迎えて、首都機能を東京に譲った後、画期的な出来事は、わたしにとっては、「同志社」の誕生なのです。アメリカに密航し、請われて使節団の通訳をした新島が、帰国してから、維新政府の外務に携わるのではなく、着手したのは「キリスト教主義の教育」でした。その開校する英学校を、京都に求めたのです。名だたる寺院や神社の多い街で、長く禁教されて、その時も激しい反対のあった時代、キリストの旗印を、恐れずに掲げたのは、驚くべきことだったと思うのです。

 新島のことばに、『教育と宗教を併行せしむるにあり。』があります。神を知り、神を畏れ、神に従う人を養成することを掲げて、信仰と教育を一つにしようとした同志社は、今も関西私学の雄であります。有為な人材を、この学校は輩出しますが、新島自身は、46代で没してしまいます。私は、そこで学んでみたかったのですが、叶いませんでした。

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 わたしたちの住む栃木の隣県の安中には、同志社開学前に、新島が伝道して建て上げられたキリスト教会が、今もあります。戦後に、revival があったそうで、たくさんの人たちが救われ、受洗をしたのですが、江戸期よりもなおも激しい弾圧の中での、新島襄の挑戦的な宣教への志は、大変なものだったに違いありません。

 わたしを教え導いてくださったアメリカ人宣教師は、日本の「要の街」と、京都を捉えていて、この地で、生涯の最後の宣教をされました。九州、北海道、関東、中部と宣教に働きをして、最後は、この京都でしたが、病を得て、大阪の病院から東京に移られて、66歳で帰天されたのです。日本人を愛されて、日本人に仕えた尊い器でした。

 終戦間近、アメリカ軍が、焼夷弾を落とさずに、この京の街を戦火で焼かなかった決断は、流石だと思います。ロシアのプーチンが、無差別攻撃を仕掛けている今、《良心》があるかないか、《人の命の重さ》を意識するかしないかの違いが鮮明です。九世紀の後期に、住み始め、主要な街として、都市機能を果たしてきた「キーウ(キエフ)」を、遥か西に思って、また悲しさがつのります。

(「嵯峨菊」、「舞鶴港」、京名物「八ツ橋」です)

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もう行かなくては

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 神よ聞いてほしい。 自分はこれまで一度も、あなたと語らったことはなかった。 でも今日、僕はあなたに語りかけたいと思う。 知っての通り、子どもの時から「神など存在しない」と言 われ続けて、僕は大きくなりました。

 そして、愚かにもそ れをまともに信じてきたのです。 これまで、あなたの造った被造物に目を注いだことはありませんでした。 でも今晩、手榴弾沿いにある塹壕の中から、僕は天を見上げてみました。

 頭上に光る星空。僕はそのまばゆさに驚いた。 そして、その時ーーきわめて突如としてーー、僕は分かっ たのです。 一つの嘘が、どれほど残酷なものになりえるかって。    自分にはわからない。

 でも神よ、あなたは僕に御手をのばしてくれますか。 こんな地獄の真ん中で、僕があなたを知るに至ったということ。 そして、その光を見たということ。 これは実に驚くべきことではないでしょうか。

 それが僕の打ち明けたかったことです。 それからあともう一つ。 あなたを知ることができて、僕はうれしかった。 今晩、僕たちの部隊は戦線に出ます。

 でも今ふしぎに、怖くないのです。 あなたが僕たちを見ておられるのだと思います。 あ、指令が来ました。もう行かなくては。 あなたと話せて本当によかった。 

 知っての通り、戦火は激しくなる一方で、それで、もしかしたら、今晩にも僕は、あなたの戸をノッ クすることになるかもしれません。

 これまで一度も私はあなたを友としてきませんでした。 それでも、僕を受け入れてくれますか。 今、僕は泣いています。 おお、わが神よ。 そして僕の目はあなたの光を見ています。 さようなら。

 もう行かなくては、、、そして、僕はもう二 度と、、戻ってこないでしょう。 でも不思議です。 今、僕の中で、死に対する恐怖がまったくないのです。

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 これは、第二次世界大戦中、対ドイツ戦で戦死した、ひとりのロシア人兵士のポケットから見つけ出された一編の詩です。今、戦時下にあるウクライナにも、ロシア兵もウクライナ兵が戦いの前線に立っています。しかもその多くは若者に違いありませんが、彼らは軍命に従い、或いは意を決して従軍して、銃器を手にし、戦車を操縦し、戦っているのです。

 戦没学徒の手記を読んだことがあります。戦死した若い予科練の兵士たちの遺書です。祖国の父や母や兄弟姉妹、恋人たちを守ろうと、戦地に赴いた若き兵士たち、そればかりではなく、妻や子を祖国に残して、大陸や南方の戦線で戦って、戦死した兵士たちがいました。

 数限りない魂の叫びが、この地球上には、谹(こだま)しているのではないでしょうか。専守防衛の戦いも、侵略の攻撃も、どんな大義名分があっても、過程も結果も、死と破壊です。このロシア兵の亡くなられた年齢の時節を、私も過ぎて、平和な年月を経て、今日があります。神から賜ったいのちが、こういった形で失われることを悲しむ、” golden  week 2022 “ であります。

(戦士が防弾にために被る helmet です)

駅中コンサート

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 雨の日曜日の午後、東武宇都宮線・栃木駅、JR両毛線・栃木駅のconcourse で、ピアノとクラリネットの演奏会があり、家内と聴きに行きました。文化的な街が、さらに前進していけたらと願い、そのピアノの常設を喜んだのです。

 このコンサートで、“ Amazing  Grace “ が演奏されていました。奴隷船の船長が改心して、クリスチャンとされて、その救いの喜びと感謝を歌った賛美なのです。栃木の駅の concourse で、そんな賛美が高らかに響き渡っていました。

 家内は、いつか、この置かれたピアノの前に座って、讃美歌や chorus 賛美を演奏したいと願いを漏らしています。

(駅前とホームの写真は次男が帰りがけに撮りました)

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遊び

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 プロ野球の試合中に、球審が、若い投手を、威嚇するかの様な行動に出たことが、話題沸騰してやみません。思い出したのは、若き阪神のエースだった江夏が、自分の投球の判定に不服で、体当たりして球審をひっくり返して、退場への道を自分で颯爽と進んでベンチに消えた一件です。

 1973年6月12日、甲子園球場での対巨人戦で、王貞治が打者だった時でした。江夏、若干25才だったのです。これも色々と言われたのですが、若気の至りだったのでしょう。野球を愛した父や次兄は、自分でもやっていて、次兄は、東京都予選の〈ベスト16〉で、甲子園への夢を終えています。みんな野球が好きな人、する人、審判する人、球場整備する人、売り子さん、そして見る人なのです。

 観ていて楽しいですし、贔屓選手の活躍は、この歳になっても気になって仕方がありません。Professional の興業、広告などの収益で運営されていて、球団も選手も審判も球場の会社も、それで生活をしているのです。それで、細かなルールが決められていて、娯楽を提供する方も、それを受ける側も、熱くなったり、冷めたり、喜んだり、残念がったりして、楽しむわけです。

 『人間がしてることですから!』と、この一件が厳粛なことにならない様な目で、判断している方が多いのではないでしょうか。角を立てては、Sports が提供する熱狂する思いに水をかけてしまうことになってしまいます。サラリーマンが、試合の展開に一喜一憂して、勝っても負けても、さまざまに批評をしながら、明日への英気を養っている、年寄りも一喜一憂して楽しむ、これがプロ野球の一面です。

 そんなには重大で厳粛なことがなされていない世界なのです。活躍できなくなったりして、お好み焼き屋をしたり、レストランをやったりして、次の人生が、野球人には待っているわけです。それが全てではない、戦争をしているのではなく、Sports をしているのです。達川光男という捕手が、広島にいました。戯(おど)けたり、おおぎょうな手ぶり足ぶりを全身でしては、広島球場を沸かした選手でした。

 悔しさでヘルメットやグローブやバットを、グラウンドに叩きつける様なことをして、自分の感情を表す選手もいれば、貴公子然として静かにベンチに引き下がっていく選手もいます。球審も人ですから、ちょっぴり感情を表現してもいいのでしょう。詐欺をしたり、麻薬に手を出したり、黒社会と交際したりしても、罰を受け、ミソギがすんだら、きっちりと首(こうべ)をあげて、解説者になったり、穏やかに話している元選手たもと監督やコーチを見ると、ホッとします。罰だけでなく、「憐れみ」が大切かなと思うのです。

 ヨハン・ホイジンガ( Johan Huizinga )と言う、オランダの歴史家で、「ホモ・ルーデンス」と言う本を著して有名な方が、その副題に、《遊ぶ存在としての人間》と付けているのです。この人の言われた「遊び心」は、生きていく上で、緊張を解いて、「息抜き」をし、無目的であったり、それほどに重要でも厳粛でもないことに、思いを向けて、しばしの時を過ごすことが、サプリメントをあれやこれやと飲むよりも、健康に好いに違いありません。

 駅から東武鉄道の電車に乗って、南栗橋駅、押上、横浜で乗り換えますと、目の前に横浜球場の見える日本大通り駅に着きます。そうするとプロ野球を観戦できるのです。中華街によって、美味しい中華だって食べられますし、横港観光だってできます。後楽園だったら、もっと近いのです。

 もともと、元気を回復させて、心も体も元気にするのが、「遊び」だからです。テレビやラジオやyoutubeで、試合の動きを知ることだってできます。緊張の現代人には、そう言った「遊び」がぜひとも必要で、プロ野球は、それを提供してくれているのです。だから、「遊び」の中で、とんがったり、つっぱったり、厳粛にならないで、楽しんだらいいのです。

 それは人を朗らかにします。東日本大震災で、お父上をなくしても、健気に生きてきて、才能ある投手になっている佐々木朗希は、「明朗」、「希望」と、好い名を、お父上にもらったのです。『ごめんなさい!』で、なおの期待に応えて、このスポーツを面白く、楽しくして欲しいものです。

(「立川光男選手」のイラストです)

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at Ashikaga flower park

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 五月、百花繚乱の季節です。世界は悲しい出来事で溢れていますが、この時代を慰めるかの様に、自然界は元気です。

 昨日、突然訪ねてきた次男夫妻が、柏餅や餡子饅頭やミックスナッツなどを持ってきてくれ、激励してくれました。その足で、県西の「足利フラワーパーク」に出掛け、撮影したものです。先程、送信してくれた写真です。このブログに転載しました。実に色彩も被模写体も綺麗です。

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