若き盛りの美

 

 

この写真は、広島県庄原市・国営備北丘陵公園で、[HP/里山を歩こう]が、小学生の総合学習(自然観察教室でしょうか)の講師で出かけられ、そこで撮影されたものを、配信してくださったのです。今では、挙式の前に、花嫁を、プロのカメラマンがいない様に見受けられるので、友人たちによって、撮影がなされているのでしょうか。庄原市での慣例なのでしょうか。花婿の姿が、ここには写り込んでいませんが、花嫁だけなのでしょうか。

この私たちの住む街でも、結婚式が挙げられる前に、省内や市内の名所旧跡を、プロの写真家、着付け係、案内人が、二人を車で移動しながら撮影し、ものすごく豪華な写真集を作るのです。芸能人の写真集の様な私家版です。それが結婚式の一部なのでしょうか。そう言った流行りなのでしょうか。どなたも、それをするのです。写真集をいただいたことがありませんから、親族やご本人たちの記念なのでしょう。

これを「前撮り」という様です。花嫁にとっては人生の《若き日の盛り》のもっとも綺麗な時の記念となるのでしょうね。水を差す様ですが、あんなに綺麗だったのに、歳をとると、美貌が外面ではなく、内面に移って行くのでしょうか。跳ねる様に美しかったオードリーヌ・ヘップバーンの晩年の写真を見た時に、その落差の大きさに驚いたことがありました。彼女は、そんな美貌の衰えた自分を恥じることなく、晩年を生きた女性で、素晴らしいなと思ったのです。やっぱり、女性の美しさとは、内面なのでしょうか。

.

銀漢

 

 

漢詩といえば、李白と杜甫と白楽天です。この二人に匹敵する詩人は、宋代の詩人の「蘇軾(SuShiそしょく)」でしょうか。国語で学んだ漢詩には、次の有名な二首があります。

「春夜」

春宵一刻値千金  春宵 一刻 値千金
花有淸香月有陰  花に淸香有り月に陰有り
歌管樓臺聲細細  歌管 樓臺 聲細細
鞦韆院落夜沈沈  鞦韆 院落 夜沈沈

春の宵は一刻が千金に価するほどすばらしい
花は芳しく香り月の光がさやかだ
先ほどまでの歌舞管弦もいまはひっそりと静まり
中庭ではブランコがゆったりと揺れ、夜が更け渉って行く

「中秋月」

暮雲収盡溢清寒   暮雲(ぼうん)収まり尽きて清寒(せいかん)溢る
                                   銀漢無聲轉玉盤   銀漢 声無く  玉盤を転ず
                                                                             此生此夜不長好   此の生 此の夜 長(とこしなへ)に好(よ)からず
                             明月明年何處看   明月 明年 何れ(いずれ)の処にか看(み)ん

日暮に雲は消え去り爽やかな涼気が溢れている
                                                                               音も無く流れる銀河(天の川)に宝石で作られた皿のような明月が現れた
                          これほどに素晴らしい人生、素晴らしい夜だが、決してそれは永遠に続くことはない
来年はこの月を、果たして何処で眺めていることだろう。

 

 

その言葉の無駄のない漢詩に、中学生の私は圧倒されました。多く表現したい気持ちが、言葉として溢れてくるのでしょうけど、それを削ぎ落として、詩を詠む気持ちが、何となく分かったからなのでしょうか。

一人の友人が、わが家を訪ねてくれた時に、一冊の小説を持参してくれたのです。先年亡くなった葉室麟の「銀漢の賦」でした。この小説に中に、この蘇軾の「中秋月」が引用されていたのです。上級武士、下級武士、農民の子の三人の身分を超えた友情が、大人になっても変わらない様子が描かれていて、秀作でした。

きっと、日本情緒に浸りたい頃だろうと、友人が考えてくれたのでしょう。それで、題名の「銀漢」がよく分かりませんで、ネットで検索すると、「銀河」のことだと分かったのです。秋になって、小高い山からなら、この銀河が見えそうな季節になってきました。何十年の前に、内モンゴルにいた時、夜空は満天の星が輝き煌(きら)めいていました。あの壮大な光景は、また見上げて見たいなと、そう思う華南の街の夕べです。

.

決断

 

 

これまで、いろんなことのために、「決断」をしてきました。それらは、進学、就職、結婚、転職、退職、海外渡航などです。まさに人生の節目での大切な決断でした。振り返って想いますに、それらの決断は、自分の意思だけではなく、何か人生全体に働き掛けている大きな力や意思の介入によった様に思えるのです。ですから、それらの決断は、的確で正しかったと思えます。

でも、ずいぶん短い人生だと思えてなりません。力のあふれていた時期に子育てをし、与えられた仕事や事務や責任を果たせたのです。現役から退いて、悠々自適な時を過ごしながら、瞬きの間の出来事で、その都度出会った人々や機会や場面が、思いの内に蘇ってきます。二度と帰ってこない日々が、いや〜懐かしいものです。

中学の一級上に、若山牧水の孫がいました。話をしたことがありませんでしたが、国語を教えてくれた教師が、彼の担任で、よく牧水の短歌を紹介してくれました。その一つが、

白鳥は哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ

です。この短歌は覚えていて、空で誦むことができるのです。もう一つは、

白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり

ですが、これは、中学生には好ましくない教材で、清んだ日本酒の旨さを教えたのですから、この教師は、生臭坊主だったのです(本当に、隣町の住職でした)。驚くのが、この短歌は、牧水二十四歳の時のものです。人生の晩期、六十か七十でもあるかの様な、そんな年齢で詠んだと思われてしまいますが。そんなに若い頃から、酒の旨さに心を酔わせて、短歌を詠んだのですから、驚かされます。

牧水は、四十二歳で没しています。心を酔わすことができても、身体は受け付けなかったことになります。この牧水は、漂泊の歌人で、景色や人を求めて旅をしたのでしょうけど、その土地その土地の銘酒を認めての旅だった可能性は大きそうです。この私は、この短歌を詠んだ牧水の年齢のもう一年上の<二十五歳>で酒をやめることができました。自分の意思だけではなく、人生にに働きかける大いなる力に助けられてだった様に思えてなりません。

あの年齢から、ほぼ五十年が経ちます。ちょっと単純計算をしてみましょう。一年が、365日で、毎日ビールを二本ずつ飲んだとしますと、<36500瓶>になります。現在、ビール一瓶の値段を<300円>とすると、《21900000円》になります。いやー、この《2000万円》の数字には驚かされてしまいます。『塵も、いえビールも飲まれれば山となる!』、と言ったところです。

最近、酒害で苦しむ人が、地球上に、数億人もいらっしゃると聞きました。そんな中で、酔わなくても、心が痺れなくても、自分が生きて来れたことは、ただ感謝に尽きません。あの《二十五の決断》は、確かに正解だったのです。酔って中野坂上駅や阿佐ヶ谷駅や高尾駅のプラットホームや、あの中洲の街、柳ヶ瀬の街をフラフラしていた日々も、しっかり覚えています。

(青空を漂う「白鳥」です)

.

快復

 

 

これは、今年最大の台風24号の「台風の目」を撮影したものです。この台風に次いで、25号も襲来したのですが、重大な被害がなかったのは、幸いでした。これで収束するのでしょうか。熊本の本渡という島にいた時に、台風に見舞われ、泊まった宿屋の窓ガラスが壊れ、襖を背にして、台風の過ぎ行くのを待ったことがありました。本渡の案内所で、一番宿泊料金の安い宿屋を探したのですが、安さが、危険を体験させたのでしょうか。あんな怖い目にあったのは、初めてでした。

やはり、祖国の様子が大いに気になります。このままで終わって欲しいものです。ここ大陸の華南の空は、真っ青になってきました。日中は暑くとも、秋を楽しめそうです。山に出掛けてみたい気持ちがしてまいりました。兄と娘婿が手術を終えたばかりです。また結婚したてで、長男が生まれる頃に、大変お世話になった恩人が、今、病に伏しているとの知らせもあります。快復を心から願う十月の華南です。

.

魚市場変遷史

 

 

江戸初期、徳川家康の要請で、多くの業者が、江戸の街に招かれて開業しています。それで「越前屋」とか「越後屋」とか「備前屋」などの屋号ができた様です。とくに江戸の食生活のためには、新鮮な魚、魚介類が求められ、日本橋界隈(かいわい)に「魚河岸」ができます。その当時の様子を、「HP日本橋の歴史」が、次の様に記されています。

『「魚河岸」は日本橋と江戸橋の間、日本橋川の北岸に沿って、本船町から本小田原町一帯(現在の日本橋本町1丁目、日本橋室町1丁目)にあった魚市場。17世紀の初めに開設され、1935年に築地市場への移転が完了するまで300年以上にわたって、江戸と東京の人びとの食生活を支えつづけた。

市場への集荷は江戸の近海をはじめ、房州・上総・下総(千葉県)、相州(神奈川県)、遠州・豆州(静岡県)などの海の魚や淡水の魚が集められ、江戸の住人-武士と町人たちの腹中におさまった。

最初に魚市場を開いたのは、江戸幕府を開いた徳川家康に従って大坂から江戸に移住した森孫右衛門一族とその配下の漁民たちだった。彼らは幕府や大名に鯛※などの御用魚を優先的に納めるかわりに、残余の魚介類の市中商いの許可を得たと言われている。

17世紀前期の魚河岸の様子は『江戸図屏風』に、19世紀前半の様子は江戸の地誌『江戸名所図会』に描かれている。朝夕、大量かつさまざまな魚介が荷揚され、店頭に並び、威勢良く取引された。『江戸名所図会』に見えられる魚を陳列している戸板状の台は「板舟」と言い、多くは有力商人が所有していた。「板舟」は一枚ごとに販売権が付帯しており、これを一枚から数枚借りて商いをする小規模商人も多かった。この板舟ははじめ河岸地の露天に設けられたが、市場の発展に従って河岸通りに魚を貯蔵する納屋が建つと、その納屋庇下を使用するようになり、さらに本船町から本小田原町までの店前街路を占用した。』

 

 

この魚河岸が、関東大震災で焼けてしまって、「築地」に移されて、今月、80年余り賑わった築地から、「豊洲」に移転したわけです。日本的な「競り(せり)」、「仲卸(なかおろし)」などの流通組織をそのまま引き継ぐのでしょうか。大きなスーパーマーケットは、市場を通さないで、漁協などから直接買い付けていますが、全部それでは賄えないので、どうしても「市場」は必要なのでしょう。

蔬菜や果物を商う「神田市場」や「多摩青果」などの市場(”やっちゃ場“って言ってました)で、学生の頃に、アルバイトをしたことがありました。競りの掛け声が、景気良くて、気風(きっぷ)の良さが売りものでした。ああ言った世界も、だんだん近代化して行くのでしょうか。一度築地の場外の食堂に行ってみたかったのですが、叶いませんでした。ちょっと残念な移転劇でした。

(江戸時代の魚河岸と、豊洲移転の様子<産経新聞撮影>の様子です)

.

渡り鳥

 

 

この鳥は、広島県呉市の灰ケ峰の上空を飛ぶ、「ハチクマ」です(☞HP「里山を歩こう」)。漢字では「蜂熊」と書きますから、随分こわそうな鷹の一種なのかと思ってしまいます。<サントリーの愛鳥活動>によりますと、

『ハチの巣を襲って幼虫を食べる刺されても平気(?)なタフなタカ、全長57cm(オス)、61cm(メス)、翼開長135cm。タカの仲間。体の大きさはほぼトビと同大で、体色はいろいろですが、背が黒褐色で下面は薄い褐色のものが多いようです。翼下面には黒褐色の横縞があるものが多いと思われますが、顔には小さな羽毛が重なって密に生えていて、蜂の針に対抗できます。アジア大陸東部やインドなどで繁殖し、冬期には南へ渡るものが多い。日本では夏鳥として渡来し、本州と北海道の低山帯の森林で繁殖しています。しかし、渡来が5月になってからだと遅い上に、9月になると秋の渡りが始まるので、繁殖スケジュールに余裕がありません。ヒナに栄養価の高いジバチ類の巣、スズメバチ類の巣を掘りだしてその幼虫を与え、成長スピードを上げているのだろうと考えられています。しかし、ハチの巣が大きくない時期には、親も子もカエルを主に食べています。蜂を喰うクマタカの意でハチクマです。最近の研究で、繁殖期の日本だけでハチの巣を狙っているのではなく、越冬地や渡り途中の東南アジア・台湾などでもハチの巣を狙って食べていることが、解ってきました。』

とあります。この季節に、中国大陸に渡って行くそうで、「渡り鳥」なのです。国境の制約のない鳥や蝶は、自然的本能で、季節に応じて住処を変えていくわけです。ものすごい体力を持っているのと、飛翔のコツをよく心得ていることになります。以前、ヒマラヤの上空を、鶴が飛んで行くという話も聞きましたが、動物が秘めている潜在能力は、すごいのですね。

私たち人間も、自分は気づいていないのですが、ものすごい能力と可能性を秘めているのだそうです。出し惜しみをしたわけではなかったのですが、まあこんなところが自分なのだと納得する、初秋の華南の朝です。

(広島県呉市灰ケ峰の上空を飛ぶ「ハチクマ」です)

.

渡り蝶

 

 

「アサギマダラ」が、広島県呉市・休山の上空を、南に向かって飛んでいく様子を、[HP/里山を歩こう]が配信してくださいました。この蝶について、次の様な記事が、"ウイキペディア"にあります。

『アサギマダラの成虫は長年のマーキング調査で、秋に日本本土から南西諸島・台湾への渡り個体が多く発見され、または少数だが初夏から夏にその逆のコースで北上している個体が発見されている。日本本土の太平洋沿岸の暖地や中四国・九州では幼虫越冬するので、春から初夏に本州で観察される個体の多くは本土で羽化した個体と推測される。』

私はまだ見たことがありませんが、このように「渡り」をする習性が研究されていますが、まだ研究途上にあるそうです。私は、飛行機や船で日本と中国とを往復していますが、連続して動く飛行機と船のエンジンの強靭さに驚かされています。一度は、台風の強風と大波の中を、船に乗ったことがありますが、大変難儀をしたのですが、それを乗り越えて上海の港に、無事に着くことができました。あの小さな体で、2000kmを渡る、アサギマダラの体力や習性には、驚かされるばかりです。

自然界には、神秘が含まれていているのが、よく分かります。この私たち人間は、こんなに賢く、ある時は愚かしく行動をするのですが、命や寿命や活力や思考力も、やはり神秘の中に含まれるのでしょう。

.

生きる

 

 

生きる                          相良倫子(浦添市立港川中学校3年)

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。

この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。
草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃え尽くされた民家、火薬の匂い。
着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。
家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手を取り合っ
て生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの
日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島
の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争
を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、
宗教を超え、あらゆる利害を越えて、平和
である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。
平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだとい
うことを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

(2018年6月23日、沖縄県糸満市の平和祈念公園で行われた「沖縄全戦没者追悼式」で本人の相良さんが、この詩を朗読しました ☞「琉球新報」記事の転載)

[琉球新報]倫子さんは曽祖母(ひいばあ)さんから沖縄戦の体験をよく聞かされ、平和について考える機会が多かった。「私なりに考えて、自分の命を精いっぱい輝かせて生きていくことが平和だと思った」
その今年94歳になる曾祖母さんは、沖縄戦が始まる前は理髪店で働いており、日本軍を指揮した牛島満中将の散髪をしたこともあった。
牛島中将は他人への心配りができる人だったと曾祖母さんは思っているが、倫子さんにはこんなふうに話して聞かせてくれたそうだ。
「戦争は人を鬼に変える。絶対にしてはいけない」

(沖縄県の県花の「ディゴ」です)

.

チョコレート

 

 

最近、自粛していることがあります。ちょっと大げさな言い方で、申し訳ないのですが、"チョコレート"を食べるのを気を付けていて、その誘惑と闘っているところです。こちらには国産のものがあるのですが、昔、子どもの頃に、駄菓子屋で売っていた味と同じで、森永や明治のチョコレートの味を知っている者としては、一度だけ食べてから、手を引っ込めてしまうのです。

ところが、欧米系のスーパーマーケットには、有名メーカーのチョコレートが置かれていて、年々、その売り場の面積が広くなり、売られている種類も多くなってきているのです。「国慶節」の休みで、今朝は、バスに乗り継いで、アメリカ系のスーパーマーケットに行ってきました。"Earl Gray"の紅茶を買いにです。やはり、チョコレート人気ででしょうか、驚くほどの種類が、その店の棚に置かれていました。もちろん素通りでした。

日本では、森永製菓が、チョコレートを製造してから、今年で《100年》になるのだそうです。高校野球甲子園大会と同じですね。創業者の森永太一郎は、アメリカのサンフランシスコで、「伊万里焼陶器」の販売を始めたのですが、うまくいきませんでした。それで、お世話になったアメリカ人夫妻の影響で、菓子の製造をしようと、アメリカで修行して、帰国してから、東京赤坂で起業したのが、始まりでした。太一郎は、大変な苦労人だったそうです。

その太一郎が、"ミルクチョコレート"を製造販売したのが、1818年10月1日でした。今でも、このミルクチョコレートは、日本人の味覚に一番ぴったりで、スイス製もオランダ製も、そしてアメリカ製もみんな美味しいのですが、結局、『食べたいなー!』と思うのは、この"ミルクチョコレート"なのです。甘過ぎず、苦過ぎずに、ぴったりの微妙な味に作り上げられているのです。"チョコレート"と言えば、作詞が藤浦洸、作曲が万城目正の「東京キッド」の歌の歌詞の中で、歌われているのです。

歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

この子の右のポケットに、"チョコレート"が入っていると思っていましたが、どうも想像しているだけだった様です。"give me チョコレート世代"の自分としては、アメリカ兵に、そう言ってねだった、ほろ苦くて、恥ずかしい過去があるのです。あの味は忘れてしまいましたが、異国の空の下で、やはり食べたいのは、その"ミルクチョコレート"です。

木漏れ日

 

 

「木漏れ日」と言うのでしょうか、南側のベランダの今朝の様子です。7時現在の気温が22℃をし示しています。陽もちょっと傾いてきて、斜めに射してきつつあります。もう10月になったのですね。いよいよの秋です。今朝の「ベランダ会議」で、隣家のおばあちゃんと家内との会話は、5日間の「日本旅行」の話題だった様です。福岡と大阪を観光したそうで、街が綺麗で、落ち着いていて素敵だったそうです。好い印象を聞いて嬉しくなってきました。

.