手術

 

 

開け放った北側の窓から、南のベランダのある窓を通り抜けて行く風が、涼しく感じられる朝です。南のベランダの寒暖計は、午前7時の時点で、25℃でした。矢張り"いよいよの秋"です。買ったり貰ったりの巨峰のぶどう、柿、りんご、ボンタン(こちらでは柚子youziと呼びます)、龍眼(こちらでは龙眼longyanと呼びます)、オレンジなどが、冷蔵庫や食卓の上に、秋が溢れています。

次兄が明日、「心臓ペースメーカー」の植え込みに手術を行い、明後日は長女の主人が、「肩脱臼」のために手術を行うと、言ってきています。色々なことの起こる人生ですが、二人の主人の執刀に手が祝されるように願っているところです。何度も手術体験にある私は、痛みに耐えて回復するようにと、願っています。

手術が終わったら、兄も婿殿も、秋を楽しんで欲しいものです。今朝咲いた三輪の朝顔も、そんな願いの素振りを見せています。

.

海の浪漫

 

 

島崎藤村が、「椰子の実」を作詩したのが1898年でした。民俗学者の柳田邦男から、その椰子の実が流れ着いた、愛知県伊良湖での話をもとに、詩作したと言われています。それに大中寅二が作曲をしたのです。

名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

故郷の岸を 離れて
汝(なれ)はそも 波に幾月(いくつき)

旧(もと)の木は 生いや茂れる
枝はなお 影をやなせる

われもまた 渚(なぎさ)を枕
孤身(ひとりみ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

実をとりて 胸にあつれば
新(あらた)なり 流離(りゅうり)の憂(うれい)

海の日の 沈むを見れば
激(たぎ)り落つ 異郷の涙

思いやる 八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか 国に帰らん

南洋の島から黒潮に乗ってやって来て、漂着した椰子の実って、どんなものなのだろうか、私も興味津々でした。周りを海に囲まれ、海洋民族の末裔であり、日本海軍の家系の父から生まれた私は、海の浪漫に憧れていました。そして、一度、椰子の実を割って、そのジュースを飲んでみたくて仕方がなかった日を覚えています。

四年ほど前に、ショッピングモールが近くにでき、日本料理店の店長と知り合って、わが家にもやって来る様になりました。この人が、引き抜かれて、「椰子营yeziying」という海南島で飼育された鳥肉の鍋の店の店長になったのです。彼に誘われて、そこで食べた鳥肉鍋が美味しく、「椰子の実」のジュースもサーヴィスしてくれて飲んだのです。

もちろん紙パック入りのジュースqが売られていて、飲んだこともあったのですが、皮を綺麗に剥いた実物に、小さな穴を開けて、ストローで飲んだのは初めてでした。先週、やって来た息子夫妻と、そこに昼食に行ったのです。二人とも喜んでくれました。椰子のジュースの中に、鶏肉や野菜などを入れ、炊き込みご飯もついているのです。

そういえば、柳田邦男が拾った椰子の実が、流れ出した元かも知れないシンガポールで、椰子のジュースを飲んだこともありました。南方では、子どもたちが木を揺すって、実を落として、鉈で割ってもらって、そのジュースで渇きを癒していたのでしょうか。この歌を思い出してしまい、口ずさんでみました。

.

いよいよ

 

 

昨日は「秋分の日」、今日は「中秋節」、日本では、あまり盛んではありませんが、ここ中国の華南では、《二十四節気》の伝統的な行事が守られて、生活の節目となっています。この季節は、「月餅」を、家族や仲間でいただく様です。

次男夫妻が来た先週、何時も好くしてくださる方が、歓迎の宴を設けて下さったのです。子どもたちが来る度に、この様にしてくださるわけです。息子たちが帰国する前の晩に、「生きたアワビ」を、たくさん届けてくれ、夕食のおかずにとくださったのです。結局食べずじまいで、息子たちは帰ってしまったのですが。

それでも、「伊勢エビ」の料理をいただいて、彼らは満足だった様です。《もてなし上手》の国民性でしょうか、一度懇意になると、とことん好くしてくださるのです。《お返し文化》の中に、トップリつかって育った日本人の私たちは、どう応えてよいか悩むばかりです。

今宵は、満月が見られるでしょうか(追記;7時半ですが、雲が多くて月は見上げられないのは残念!)。猛烈な勢力の台風が心配で、沖縄の方に北進しつつある様です。無事を願う夕べです。

.

敬意

 

「船頭さん」という童謡があります。歌詞は戦中版と戦後版があるのです。戦時色の強い歌詞は、戦後にふさわしくなかったので、詞が変えられたわけです。

村の渡しの 船頭さんは                                                                                                                         今年六十の お爺(じい)さん
年はとっても お船をこぐ時は
元気いっぱい櫓(ろ)がしなる
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて船こぐ お爺さん
今朝(けさ)もかわいい 仔馬(こうま)を二匹(にひき)
向う牧場(まきば)へ 乗せてった
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

川はきらきら さざなみ小波(こなみ)
渡す にこにこお爺さん
みんなにこにこ ゆれゆれ渡る
どうも御苦労(ごくろう)さんと いって渡る
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

《補作前の二番と三番の原詞は次のとおり》

雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて船こぐ お爺さん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 船をこぐ
ソレ ギッチラギッチラ ギッチラコ

私は、五十九になった時に、この歌を、実感を込めて歌いました。独身を楽しんでいて、子どもたちが晩婚だったので、ちょっと遅めに「お爺ちゃん」になったからです。きっと父も上の兄に子どもができて、自分が「お爺ちゃん」になった時に、そう感じたのでしょう。そして六十になった時には、「船頭さん」の歌詞の替え歌を自分一人で口ずさんだのです。

子どもの頃にお会いした「お爺さん」は、ずいぶんと年寄りの感じがしたので、自分も、そう見られているのだと感じてしまったのです。どうすることもできなかったのは、こちらに来まして、バスに乗ったた時、若者や中年の方が、スッと立って、席を譲られる時でした。『不要buyao』と断ろうとしたのですが、これは《敬意》なんだと分かって、『谢谢xiexie!』と感謝して、その席に座ったわけです。

最近、この「六十の船頭さん」に比べて、この<万年青年>を嘯(うそぶ)く私は、少々元気が足りなくなってきているかも知れません。先週の木曜日、実家のない私の次男夫婦が、木曜日の夜から、《生きてる実家》である私たちを、三泊四日で訪ねてくれ、今朝の国際便で、日本に帰って行きました。昨日、息子夫妻は、知人が昼食に招いてくれ、高級中華料理をご馳走になり、その後、「古街」を案内してもらっていました。息子は5回目、嫁は初めての中国訪問でした。とても好い印象を、中国と中国のみなさんに、この二人は持った様です。

こんなことを書き込んでいたら、雷が鳴り始めて、雨が降り始めました。暑い一日の夕べ、少し涼しくなってきそうです。明日は「中秋節」、子どもたちは、三連休で大喜びしています。もう涼しい秋になるでしょうか。でも、<台風24号>が、台湾と大陸とに来つつありますが、沖縄にも向かいそうです。(9月22日夕べ記)

.

今頃咲く花

 


 

広島県神石郡神石高原町で咲く「ヤブラン」と「ハグロソウ」です。この様な花を、山に分け入って、見つけて撮影するのは、大変でしょうね。私達に生活圏から離れたところで、ひっそりと咲くのですが、実に美しいものです。[HP里山を歩こう]の配信です。

ただ、台風24号が台湾、中国大陸に向かって西進しています。かなり強烈な勢いに発達しているようです。

 

 

今日は日曜日、好い1日でありますように。

.

 

よく、『あの方は心のある人だ!』と言います。その方の生き方が、愛とか親切とか優しさに溢れていて、善人や義人なので、そう言った表現をします。そうでない人は、『心の欠けた人!』と言ったりします。ユダヤの格言に、『顔が、水に映る顔と同じように、人の心は、その人に映る。』とあります。人の心にあることは、顔にも生活にも雰囲気にも現れてしまい、隠したり、誤魔化しができないので、そう言うのでしょうか。一体、人には、どんな「心」があるのでしょうか。

「向上心」 今よりも、少しでも、好くなろうとする思いです。これは年を加えてきた今でも、忘れまいとして、心がけております。`

「克己心」 自分の内にある<可能性>を信じて、昨日よりも今日、今日よりも明日に、自分を高めたいとする思いです。なぜなら自分の<弱さ>が、やっと分かり始めてきたからです。

「向学心」 どなたでしたか、ある文学作品を、原典で読もうと決心して、老境に達しながらも、その言語を、新しく学習し始めた人の話を聞いたことがあります。また老学者が、若い学徒に、『最近、やっと分かり始めた事が、多くあります!』と言っていました。

「執着心」 諦めないことでしょう。危機に直面した首相が、決して諦めなかったので、その国は敵の潰滅作戦に耐えて、国を守り抜く事ができたそうです。

「独立心」 謙遜は大切ですが、隷属する思いはいけません。従順は大切ですが、自分の力で立つ事もまた、人には必要です。

「競争心」  競ろうとする思いのない友情では足りません。好き競争相手としての友を持った人は、切磋琢磨されて成長します。老境に至って、その相手を眩しく見る時、好い人生だったと思い返せるに違いありません。

「自尊心」 卑下ばかりしててはいけません。それは謙遜ではなく、自己不信だからです。自分が、どんなに尊い存在であるかを知ったら、自分を大切に保とうとするからです。

「好奇心」 人、物、機会など、新しく出会うことへの関心を失ってはいけません。収容所を生き抜いた人たちの心には、新しく迎える明日への期待がありました。『ここを出られたら!』と。

「義侠心」 これは博徒の志の事ではありません。「正義」のために願い、行う原動力です。弱者を守ろうとする心意気を言ってるのでしょう。

「老婆心」 近所のおじさんやおばさんが、老婆の様な心で、bいたずらをしていると注意してくれたことが、よくありました。それで事の善悪を学べたのかも知れません。今は、他人の子への無関心が普通になっていますね。

「探究心」 どうしてエンジンのない地球が自転して、太陽の周りを動いてるのか不思議でなりませんでした。みなさんは答えを得たでしょうか。私は、分かったのです。きっと私の知りたいという思いが通じたからなのでしょう。

「競争心2」 脚が遅くて運動会が嫌いでした。それでも負けん気が強かったので、バスケットボール、ハンドボール、テニスをしてきました。でも今現在の最強の競争相手は、自分です。楽をしようとする私、欲をかこうとする私です。なかなかの強敵です。

「平常心」 時々慌ててしまうことが起こります。落ち着いていられないのです。何を食べたかを遡って思い出すといいと言われますが、なかなか思い出せません。でも上を向くことに気づきました。地上ばかり見てると、落ち着かないからです。

「愛郷心/愛国心」 魯迅は、同朋への強い思いを持った人でした。同国民が強い精神性を持つようにと、医学を捨て、文学に生きました。そう言った魯迅に共鳴するのが日本人なのだそうです。彼は、故郷や国を思う思いが強かったからだそうです。

「敵愾心(てきがいしん)」 敵に対する憤りや負けまいとする気持ちだそうです。相手への闘争心は、それが昂じてしまうと、民族間や国家間の戦争になってしまいます。<敵を愛する心>があったら、地上に争いはなくなるのですが。そんな心を持ちたいものです。

「猜疑心(さいぎしん)」 騙されるかもしれない、と人を疑う気持ち。自分が不利になるのでは、と相手を信用できない気持ちだそうです。私の父と母には、この心がなかったのです。それでよく騙されていましたが、平気でした。

「功名心(こうみょうしん)」 立身出世、名を上げ、身を立てる思いのことでしょうか。自分の生涯に欠けていたものです。でも、これで好かったと思います。低い所にいると、倒れても軽い怪我で済む様です。誰にも覚えてもらえなくても好いのです。自分が走るべき行程を走りきれば、それで好いに違いありません。

「射幸心(しゃこうしん)」 まぐれ当たりによる利益を願う気持ちのことだそうです。失敗の多い人生でしたが、人生に、運の良し悪しがあるとは思って生きてきませんでした。怪我をしたのだって、運が悪かったのではなく、不注意だったり、慌てたりしていたからに違いありません。人生は、サイコロやトランプカードの目の様に、良い悪いで、決まらないのです。一回きりの人生を、悔いなく生きたいだけです。

「虚栄心」   自分をよりよく見せようと、見栄(みえ)を張りたがる 心のことだそうです。自分の周りにある物を、見回すと、金銭的な価値のあるものは、全くありません。ただ、愛の籠った頂き物があります。精神的な価値のことでしょうか。持ち物の誇り、暮らし向きの自慢ができる物や人脈やタイトルや称号がないのは、身軽で好いものです。痩せ我慢でしょうか。

「依頼心」 人に頼ろうとしてやまない思いのことでしょう。これまで多くの人に助けられ、励まされ、強められて生きてきました。でも、彼らの持ち物や立場にすがろうとする思いはありませんでした。また自分を頼ってきた人には、貸したり、上げたりしてきました。特にお金を借りに来た人には、私に借金をして私の奴隷にならない様に、差し上げてきました。私には、信頼するお方がいるからです。

自分の心が、生き方に反映されると言うのは、ちょっと怖いことですね。でも正直に生きているなら、人生のどこを切られても、その切り口は、非難されることはないのでしょう。ユダヤの格言に、『力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。 』とあります。自分の心は、見張り、見守る必要があるのですね。

恥じず

 

 

中国語には、多くのことわざがあります。例えば、「不耻下问(不恥不問)」です。

この意味は、『年令や地位が下の者に教えを乞う事は、恥ずかしいと思わない!』という意味です。解説は会話や会議の中で、自分がわからない時は、体裁を気にせず素直に聞くことが大切であるという戒めのようです。このことわざの出典は、「論語」の中に出てくるそうです。次の様な解説があります。

孔子の弟子の子貢(しこう)が、師の孔子に次の様に質問をしました。『衛(えい)の国の儀式を行う芸人のおくり名に、文という字が ありますが、これはなぜなのですか?』と聞きますと、孔子は、『彼は頭がよく学問が好きで 、自分よりも目下の者に質問することを恥ずかしいと思わなかったら!』と答えました。

日本で会議すると、若輩な経験の浅い人の意見を、聞こうとしない傾向が見られます。『嘴の黄色い者は黙っておれ!』という不文律があるからです。ほとんど無いですが、求められれば、言うことはあっても、率先して具申などしたら、《生意気》とか《でしゃばり》というレッテルをつけられてしまいます。

ところが、中国での会議では、年配者が、若者にも、進んで聞こうとするのだそうです。そう言った場面に出会ったことはないのですが、一般的に、子どもでも、大人の会話に割って入って、自分の考えを、堂々と述べているのを、よく見かけます。小学生が、自分の意見を話し始めても、『まだ子どもだから黙っていなさい!』と静止することは、ほとんどありません。

「長幼の序列」の社会の様にみられますが、そんな素晴らしい社会なのです。学校を出たばかりの私は、どこの県だったか忘れてしまったのですが、研究所の代表者として、研修会の準備の会議に行ったことがりました。会議の間に、『研究所の意向はいかがですか?』と意見を求められた私は、何か言ったのです。それは、研究所を代表した者としての発言でしたから、受け入れられたのでしょう。

多分、『生意気な若造め!』と思っていた理事たちが多かったのでしょう。それなのに、<親方日の丸>の私は、臆面もなく話したのを覚えています。日本の社会は、年齢的な序列社会でしたが、今でも同じでしょうか。三十代や四十代の学長や社長など、経営者の息子娘以外は、ほとんどんど知りません。

私の知り合いの方は中卒で、仕事のできる人でしたから、管理職になっていました。大卒の自分の部下に、『この字、何て読むの!』とか、『どういう意味?』と平気で聞ける人でした。『辞書を引くよりも、その方が早いから!』と言っていました。学歴の低さに臆することのない、潔さがあって、素敵な人でした。高学歴の部下にも、よく慕われていました。こう言うのって、日本では例外なのでしょうね。

.

一路平安

 

 

9月20日、午前6時半のベランダの寒暖計は、26℃を示していて、最高気温は36℃の予報が出ています。今朝は、七輪の朝顔が咲いて、今夕、訪ねて来る次男夫婦を歓迎しています。家内の若い友人が、車で出迎えてくれると、言ってくれましたので、三人で海浜の空港に出掛けます。

夏が戻って来てしまったので、金木犀が香らなくなってしまっています。秋と夏とがせめぎ合っているかの様なこの頃です。旅の無事を、《一路平安yilupingan》と願う朝です。良い一日であります様に!

.

戻りの夏

 

よく聞かされ、覚えてしまった歌謡曲に、作詞が佐藤惣之助、作曲が古賀政男の「男の純情」がありました。このレコードが売り出されたのは、1936年(昭和11年)でした。

男いのちの 純情は
燃えてかがやく 金の星
夜の都の 大空に
曇る涙を 誰が知ろ

影はやくざに やつれても
訊いてくれるな この胸を
所詮 男のゆく道は
なんで女が 知るものか

暗い夜空が 明けたなら
若いみどりの 朝風に
金もいらなきゃ 名もいらぬ
愛の古巣へ 帰ろうよ

ナンパな男になりたくなくて、『男は純情!』と志を立てたのは好かったのですが、世の中の誘惑は、そう甘くなかったのです。と言うよりは、<くすぐったい誘惑>に、自分を晒(さら)してみたい思いが強かったからでしょうか、そんな大人の社会に飛び込んでしまったのです。

勤め始めた職場で、仕事はきっちりしたのですが、上司のお供で、バーやクラブやキャバレーに連れて行かれました。また、地方へ出張すると、理事長が芸者を呼んだ酒席に招待され、立ち飲み屋では、角に塩を盛った一合升で、お酒を飲まされたりでした。いつの間にか、一端(いっぱし)の〈呑み助〉に仕上がっていました。

「純情」など忘れてしまって、〈薄汚れた男〉になってしまいました。まさに「人生の海の嵐に揉まれ」てしまった私だったのです。この世の風も波も、けっこう強くて、小童(こわっぱ)な自分を吹き飛ばし、押し流してしまうほどでした。大人の世界を、ちょっと覗(のぞ)こうと思ったのですが、とっぷり浸かりつつありました。『こりゃあヤバイ!』と思って、引き返そうと決心するのですが、その力が、自分にはありませんでした。

そんな時、元ボクサーの中近東系のアメリカ人と出会いました。当時40代後半でしょうか、斜視で、口髭を生やし、歌の上手な人でした。ニューヨークの学校で教えておられて、アフリカに赴任した教え子を訪ねる旅の途中でした。その途次に、この方は東京に寄ったのです。実に明るい性格の方で、物の考え方が積極的でした。すっかり魅せられた私は、自分の師匠になって欲しいほどの惚れ込み様でした。

でも私の弟子願望は叶えられませんでしたが、この方の感化で、生きる方向と路線を切り替えられる様になったのです。酒もタバコも遊びも、きっぱりと離れることがーできたのです。翌年、三年勤めた職場の所長の紹介で、都内の高校の教師に招聘されたのです。女子校でした。同じ敷地に併設されていた短大も専門学校も、教員から学生まで<女性一色>でした。

再び、『こりゃあヤバイ!』とのことで、結婚したのです。いえ、《結婚してもらった》と言うべきでしょう。まさに、「♯金もいらなきゃ 名もいらぬ 愛の古巣へ 帰ろうよ♭」でした。その歌の文句のままの今です。帰って行く家がなくて、帰国する度に、<大陸寄宿人>の私は、"塒(ねぐら)”探しをするのですが、弟や友人は"塒"を提供してくれるのです。

これもまた、『こりゃあヤバイ!』なのです。一切合切を処分した身ですが、家内には、祖国に一部屋の家でも残して上げたいと思っているのですが、彼女は、『要らない!』と言っています。無鉄砲で、計画性に欠ける生き方の私に、呆れるでもなく悔やむでもなく、<大陸寄宿女>の様に、私に似た身に、不満なく甘んじていてくれるのです。

このところ、災害に遭って、一切を失ってしまうみなさんの様子を見聞きして、持っていけない物への執着を捨てて生きている自分が正しいような思いにさせられます。あの「空の鳥」と「野の花」の様に、自然に身を任して生きるのも、一つの選択と決断なのでしょうか。秋風が吹き始めたのに、「戻りの夏」の今日この頃です。

.

一葉の写真

 

 

これまで、数多くの人と出会い、そして「サヨナラ」をしてきました。最も身近なのは両親です。天の配剤としか言いようのない出会いでしたし、その恩に報いたいと思ったのに、それが果たせない、父との突然の別れだったのです。戦後の物資欠乏の時に、餓えさず、裸にせずに育ててくれたことには、感謝の言葉もありません。95で召された母が、老いて行く姿をしっか見納めて、こちらに戻りました。

子どもの頃に、よく喧嘩をした2人の兄と弟との出会いも感謝でした。四人兄弟で撮った写真が残っいます。上の兄が大学生、下の兄が高校生、私が中学生、弟が小学生の時に、それぞれが制服を着て、街の写真屋さんに行って撮ってもらったものです。その後、何度か四人で撮った写真があるのです。昨夕、訪問客があって、その最初の写真をお見せしたのです。

実は、その小中高大の四人兄弟の写真が、母の生みの親の臨終の床の枕の下に置かれてありました。母が送ったのではなく、母の故郷にいる、お世話になった方に、その一葉の写真を送ったのが、多分複写されて、奈良に住む母の生母の元に、何かの方法で届けられていたのでしょう。一度も会うことが叶わなかった孫たちを、時々、その写真を取り出しては、どんな思いで眺めていたのでしょうか。祖母は、十代で母を産んで、養女に出して、私たちの母を産んだことを隠して嫁いでいったのです。

この祖母なしには、私たち兄弟が生まれることがなかったのですが、人生の数奇さに翻弄された母にとっては、その別れは、辛い経験だったのでしょう。台湾に売られようとして警察に通報されて、すんでのところで保護された子どもの頃の経験を、母が話してくれたことがありました。もちろん私が大人になってからでしたが。

実母の葬儀の時に、奈良の父違いの妹から連絡があって、母は会葬したのです。その時、その経緯を聞かされ、その写真を手渡されたのです。実母が、自分の産んだ四人の子を認めて、思い続けてくれたことを知ったことは、母にとっては、大きな慰めや、子育ての報いになったのではないでしょうか。それもこれも、人生の現実ですね。親族の様々な思惑や進言で、人生が厳しいものにされるのですが、その辛い経験が、益となっていくことにも繋がるわけです。

17才の母が、奈良に生母がいると、親戚から初めて聞かされて、急遽訪ねています。しかし、『帰ってほしい!』と言われて、母は生母の元を辞したのだそうです。17才の母には、それも実に辛い経験だったのでしょう。そう言った経験が、子たちを産むことによって報われ、私たちを精一杯育て上げてくれたことに繋がったのです。

(母の故郷の島根県出雲市の近くの里に咲く「有明菫(すみれ)」です)

.