わが dandyism について

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 男子の〈丸刈り〉が嫌われていて、『野球部員になりたくない!』と思ってる少年が増えて、部員数の少数化が起こって久しいのだそうです。自分の中学の三年間は、校則で〈丸刈り〉、坊主刈りでした。中2頃の生意気盛りには、夏休みに入ると、スソ狩りをして、長髪の真似を、反抗的にしていたのです。

 クシを持ち歩かなくていいし、第一、ジャバラの制服に帽子を被らなければならなかったのです。あの3年間の後に、慎太郎狩りでしょうか、短髪が流行っていて、上の兄がしていたので、いつも別名で〈スポーツ刈り〉をしていました。就職後は、長髪で、整髪剤をつけて、跳ね上がった箇所を、蒸しタオルまでして直して、出勤していました。

 その職場を辞めて、宣教師のお手伝いをした後、その教会の責任を負ったのです。初期に、県立高校でラクビーをしていた高校生が、問題児で、彼のお世話をし始めたのです。その間に、彼が問題を起こして停学になり、罰で『丸刈り」になりました。彼の監督者としての責任を感じた私は、床屋に行って、〈丸刈り〉になったのです。停学が解けて復学したあと、彼のクラブ連中が、大挙して、〈丸刈りになってくれたおじさん〉って、どんな人か、首実験に来たことがありました。そんなことがあって、中学以来の〈丸刈り〉だったのです。

 ある時、自転車で転倒して、左肩の鍵盤の断裂の怪我をしてしまったのです。その縫合手術で、ひと月ほど入院しましたら、同室に、教会のメンバーの方のお兄さんが、一緒でした。 両手を使えないほどの重症の怪我をされていたのです。私の手術後の左腕は、アメリカンフットボールのプロテクターのような道具で、縫合した腕を固定していましたが、右の利き腕が使えましたので、この方の食事のお世話をしたり、お手伝いをしていました。

 同じ年齢で、彼は、同じ県の私の生まれた山あいの沢の二本ほど西にある沢の山の中で、同時代に産まれていましたので、仲良しになってしまいました。彼が〈丸刈りで、看護婦さんに髪を切ってもらったので、彼の真似をして、同じように切ってもらったのです。あんなにさっぱりしたことはありませんでした。それ以来、今日まで、牧師なのに〈坊主狩り〉をし続けて、今日に至っています。

 中国に参ります時には、〈日本兵〉が、丸刈り頭だったことがあって、悪い記憶を呼び覚ますことにならないか、実は迷ったのですが、〈ごめんなさいの気持ち〉で、バッグにバリカンを入れて、海を渡ったのです。同じ大学の先生の中にも、坊主頭の方がいましたので、それを十三年間通して、今や三機目の電気バリカンを、一人で使って髪を切り続けていのです。

 もう長髪にすることはないでしょう。長髪にしても、もう髪の毛が薄くなっていて、どちらでも同じで、ポマードやチックを使うようなことはなさそうです。で、考えているのは、〈鬘(かつら)〉です。でも、そんなものを買うよりは、季節の果物を食べた方がよさそうです。ざんねんながら、もうダンディーとは縁がなさそうです。背広も、ネクタイも、ワイシャツも、黒革シューズも、一応ありますが、着る機会がなくなりました。

 あの同年齢の方は、私が中国に参ります直前、別の病院に入院されていた時に、バプテスマをさせていただきました。通常は、浸礼でしていましたが、滴礼で式を、入院先の病室で行なったのです。あれ以来、お会いする機会がありませんが、どうされてておいででしょうか。気にかかる、同じ〈丸刈り仲間〉です。

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