[街]シンガポール

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 マレー半島(旧インドシナ半島)の南の突端に、中華系の客家の出の、リ・クワンユウが建て上げた、585万人ほどの人口を擁する国です。長女が10年ほど、この街の会社で働いていましたので、何度となく訪ねたことがありました。

 アジアでは、実にきれいな街で、厳しい法律のもと、街の美化が保たれているのです。ゴミを捨てると、罰金刑が課せらているほどで、ポケットに手に突っ込んでいて、それを出す時、紙切れでもすり落としてしまうと、キョロキョロ辺りを見回して、拾わなければなりませんでした。

 人口構成は、中華系が74%、マレー系が14%、インド系が7.9%、その他が1.4%で、スーパーやコンビニに入ると、中国語や福州語や閩南語が飛び交っていますが、公用語は英語です。

 もともとは、マラッカ王国があったそうで、1500年代に初めに、ポルトガルが、マラッカ(航路だったマラッカ海峡で重要地でした)を占領し、1824年には、イギリス統治の時代がはじまっています。イギリス人のラッフルズという商人が、商館を建ててからの関わりです。1942年に、北から日本軍の自転車部隊が、この街に侵入し、占領してしまいます。海峡の近くには、その屈辱の歴史を記す石碑が残されてありました。

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 中国でも東南アジアでも、ここまで日本軍が侵攻したのかと思うと、平和の時代に育った私には、驚きの他ありませんでした。マレーシアの一部の島嶼部が、国家として、1965年に独立しています。

 この街の中心部に、Chinese town があって、移民の歴史を語り継ぐ記念館があって、そこに入ってみたことがありました。上海が、そうであったように、アヘンを吸っていた歴史も、生活振りの再現の展示で、忘れないようにしているのでしょう。そこに、蘭州ラーメンの店があって、麺を手延べする作業を、店主が実演していて、娘は贔屓筋で、両親の同行を喜んでくれました。撮っていただいた家内と娘と私の写真が、壁に貼られてあります。

 いつでしたか、船に乗って渡った島で、自転車を借りて、家内と娘と3人で、島巡りを楽しんだことがありました。ジャングルのような中を、走ったのですが、家内はまだ元気だったのです。美味しい食事を食べて、家に帰って、シャーワーをして、ぐっすり寝てしまったのです。朝起きたら、娘が騒ぎ出したのです。スマホも財布も身分証明書も銀行カードもパスポートもなくなっていて、私の愛用の帽子もなくなっていたのです。

 玄関の施錠を忘れていたのです。十分に注意して生活していた娘が、疲れて、確認を忘れてしまったわけです。シンガポール警察が、やって来て現場検証をしましたが、犯人は出ませんでした。ただ、いのちの無事を感謝したのでした。どうも夜中に、玄関のノブを回しながら、機会を狙っているドロボーが、このシンガポールにもいたのです。

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 ある訪問の時でした、街を歩いていて、家内が具合悪くなったことがありました。あの時もemergency car を呼んだのです。そして病院に搬送され、そこで手当を受けたのです。回復して、入院することもなく、帰る段になって、医療費の精算をお願いしましたら、旅行者だったからでしょうか、日本人だったからでしょうか、娘が働いてる街で親が具合が悪くなったからでしょうか、なんと治療費の請求がありませんでした。それが、この街での驚きの二段目だったでしょうか。

 そこには、「シンガポール植物園(Singapore Botanic Gardens)」があり、とくにシンガポール国立蘭園 (National Orchid Garden 」もあって、多種多様の蘭の花が見られるのです。今も、わが家の室内では、胡蝶蘭の白と赤の花が、晩期を迎えても綺麗に開いています。中華系のみなさんは、とくにランの花が好きなのでしょう。わが家で、こんなに長く咲く花は、今まで見たことがありません、第四期目の花なのです。

 チキン・ライスも飲茶も蘭州ラーメンも伊勢海老も、食べ物が美味しい国、街でした。滞在期間延長で、マレーシアのジョーホールバルに連れて行ってもらった、国境付近も、懐かしく思い出されます。マーライオンも、大小が港にあって、また行ってみたいなと思い返しています。忘れていたのは、娘の言っていた教会の牧師さんのお母さんが、夜景の実にきれいな海辺の高台にあるレストランにご招待いただいて、食事をご馳走してくださったことです。高校の校長をなさっていた方で、柔和な方でした。好い思い出ばかりにしておきます。

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