轍を踏むことなく

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 国家建設に、「スローガンslogan 」がありました。明治以降のそれは、「富国強兵」だったのです。繭を育てて絹糸を作り、それを輸出して「外貨」を稼ぎ、工業機械と軍備増強、欧米列強諸国に倣い、追い越そとしてでした。その試験場は、より良い絹糸を作るための研究所で、私が小学校を通った街に、その名残のように残されてあったのです。群馬の富岡や長野の諏訪などは、その基幹工場のあった街でした。その「蚕糸試験場」に、蚕(かいこ)を拾いに行き、桑の葉をやって育てたのです。

 国を強くすることの方が、国を形造る人々の生活の直接的な向上ではなかったのです。国が富まなければ、生活の向上もありえないから、〈いけいけどんどん〉で強兵に走った結果、広島と長崎への原爆投下だったとも言えるでしょうか。

 同じ戦争に悲惨さの違いなどなく、どの戦いも悲惨極まりありませんが、今回、G7の広島サミットが開催されるにあたって、参加国の首脳たち一行が、広島市内の平和記念資料館を見学したそうです。それに前後して、外国人観光客が、この記念館を訪れて、写真や遺物を見て、涙する光景が、ニュースに取り上げられています。

 『二度と許すまじ原爆を!』と言うヒュプレヒコール(ドイツ語のSprechchor(英語のspeaking choir)から)を、子どもの頃から、何度聞いたことでしょうか。今のウクライナ戦争で、ロシアがこれを使うと威嚇していますし、北朝鮮の指導者も、国威を示すために、歴史が完全否定する爆弾を使う、と脅しにかかっています。

 聖書に次のようにあります。

 『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(マタイ2448節)』

 主イエスさまが、再びおいでになる前兆について言及している箇所です。「戦争・・・と戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。二戦後、あんなにひどい戦禍に出会ったのに、その歴史の事実に学ばない国や民族が、あの戦争を、すぐに繰り返しています。子を失ったお母さんの泣き叫ぶ声は止まないままです。

 平和を享受していた日本が、再軍備、自衛隊の軍隊化、「軍事大国」を政府が掲げ始めようとしています。憐れみ深い神さまから頂いた「平和」のありがたみを忘れたか、軍事産業を起こすためにか、そんな姿勢を取ろうとしている今です。私は、孫たちを戦場に送りたくありません。国防と言う国家目標のために、彼らを殺されたくありませんし、相手を殺させたくないのです。

 欲望と名誉、野心と侵略、私たちは尊い値を払って学んだのではないでしょうか。「外交努力」に徹していくべきです。与謝野晶子が、弟の出征にあたって詠んだ歌が思い出されます。明治の軍事大国化の怒涛ような波に中に、飲み込まれていく日本と日本人の衷心からの心の叫びの代表の思いだったのでしょう。

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを・・・

(さかひ)の街のあきびとの
舊家
(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻
(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月
(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 「弟」が死ぬことを願わない姉の叫びでした。まさに、どの戦争も同じで、銃後にある父母兄弟姉妹の思いでもあり、ありました。この美しい国土が、再び焦土と化すことなどだれも願いません。それは、どの国も、どの民族も、どの国家も同じです。

 一つ思い起こす、中国人留学生の言葉です。地方都市の工学部の博士課程に留学して、帰国してから、北京の政府関係の要職についたご婦人です。広島を訪ねた時に、被爆体験を残そうとして建てた記念館を訪ねられて、被害者の立場で被った悲劇を、日本が残しているのを見て、『同じように、中国大陸やアジア諸国で行った侵略の〈加害者の記念館〉を作ってほしい!』と、彼女は思ったそうです。穏やかな方でしたが、厳しい口調で話されたのが驚きでした。

 真っ白な繭玉を手にした小学生の私には、同じ繭玉が、国を富ませ、軍事大国化していくために果たした役割は、微塵も感じませんでした。隣国に行き、天津の街の博物館に、日本軍の侵攻時の写真が、壁一面に大々的に掲げられてありました。華南に行きました時も、大きな河川の堤防の壁に、日本軍の爆撃による死者数の刻まれた記述を見た時に、〈加害者の子〉なのだと言う意識が強烈に思わされた日を忘れません。

(広島市の市花の「夾竹桃(きょうちくとう)」富岡製糸場跡です)

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あの人もこの人も

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 隣町の教会のM牧師さんが、『準さん、サキソフォンを吹いたらいいよ!君にはぴったりですよ!』と、まだ学校に行っていたころに勧めてくれたことがありました。宣教師が留守の間に、水曜日の聖書研究を担当してくれた方でした。彼から教えていただいた聖書のレクチャーは、何1つ覚えていないのですが。

 実は、教会に行っても、当時は女性ばかりでした。教会に行くことも、そして楽器をやるということも、《軟派なこと》だと決め付けてきた私は、『はい!』と言って、その勧めに従うことをしませんでした。もちろん、母が毎晩、毎日曜日、せっせと教会に通っている姿を見て、『この母を夢中にさせているのだから、何か真実なものがある!』とは認めていながら、自分の心を向けることをためらっていました。それでも、教会で歌われていた賛美を聴くのは大好きでした。クラシックの曲を、ラジオで聞いて育ったからでしょうか。

 私の母がハミングしていたのは、讃美歌でした。でも私にとって、歌は、「流行歌」に限っていました。今で言う「演歌」です。日本的なと言うか、アジア的と言うのでしょうか、あの旋律と歌詞とに共感を覚えていたのです。大人への入り口にさしかかっていて、その歌詞の意味も深みも理解できないでいる私でしたが、父や母の青年期に歌われた歌に、たいへん興味を持ったのです。

 ある時、母に無理強いをして教えてもらった歌がありました。『諦めましょうと別れててみたが・・』と言う歌いだしの恋歌です。

あきらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身をやく 恋ごころ

喜び去りて 残るは涙
何で生きよう 生きらりょか
身も世も捨てた 恋じゃもの
花にそむいて 男泣き

 母の多感な十代のころに流行った歌だったのでしょうか。そんな〈身も世も捨てた〉、〈男泣きするような〉恋に憧れたほどでした。何度も歌ってくれている間に覚えたのですが、高校生の私には、その節回しが難しくて歌いこなせませんでした。それでも、あの歌のメロディーが時々、今でも思い出されるのです。そうしますと、当時の母や父や兄弟たちの様子、自分の生意気な姿が彷彿とさせられるのです。

 母の郷里に、江田島の海軍兵学校に行っていた若者がいたそうです。そうこれも無理に、私が聞き出したことでした。恋する乙女時代の憧れの漢(おとこ)が、凛々しい兵学校の軍服を着た青年だったのでしょう。そんな母の十代の話を聞いて、何かホッとしたのを覚えています。

 もう何年も前ですが、高校の同級生と、20年ぶりに食事をしていました。しばらくたつと彼が、「上海がえりのリル」を歌い出したのです。切なく、実に哀調を帯びて歌っていました。大陸で戦死したお父さんの帰りを待ちわびた、彼の数十年のすべてが、その唄声に込められていたのです。

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 私を育ててくださった宣教師さんが、事あるごとに歌っていた讃美がありました。ヨハネの黙示録512節を歌詞に、彼が作曲した「ほふられた小羊」でした。

ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい(お)方です

 ジョージアで生まれ、彼の人生を急展開に変えてしまったイエスさまが、ご自身を十字架にささげられた主であることを思いながら、感謝と希望を込めて歌っていたのです。私たちの子どもたちは、これを賛美する宣教師さんを強烈に記憶しているのでしょう。この方の信仰の “ Thema song ” だったからです。

 人の心の中には、「歌」が宿っています。人は様々な思い出の中で、時々、口ずさむのです。ダビデは、『私はあらゆる時に主をほめたたえる(詩篇341節)』と言って讃美した人でした。順境の日も逆境の日も、主をほめ歌ったのです。

 もし私が。あの時からサックスを吹いていたら、今頃は渡辺貞夫の後継者になっていたでしょうか。友人が教えてくださって、一曲吹けるようになったままで休止状態です。

 まだ3歳くらいの孫を連れて、次女が里帰していた時に、サックスの代わりにハーモニカを吹いて上げましたら、手を打って喜んでくれたことがありました。今も引き出しの中から、3本あるハーモニカを出して、時々吹いています。一つは、隣国で出会った教え子が贈ってくれた物なのです。今、大阪で仕事をしています。また、その孫兵衛が、今秋には大学生になるのです。老けゆくジイジと、至るところ聖山ありの孫です。

(イラストAC、キリスト教クリップアートのイラストです)

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弁護してくださるお方

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 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル41516節)』

 出会いと別れは、一対の人生の出来事でして、人の一生も、出会いと別れを繰り返す drama  のようです。あのこともこのことも、まるで「一場の夢」の舞台なのかも知れません。会うと別れの予感がするのも、人の世の常なのです。振り返ってみますと、人生って、実に短いものだとつくづく思うこの頃です。

 中国語に、「邯鄲之夢(かんたんのゆめ)」と言う言葉があります。同じ様な意味で、「一炊の夢」とか「盧生の夢」とも言います。この「邯鄲」は地名で、私の教えた学生さんの中に、この街の出身の方がいました。故事辞典に、次の様にあります。

 「唐の時代、廬生(ろせい)という人が邯鄲(かんたん)の土地で呂翁(りょおう)という老人から不思議な枕をかりて茶店でひと眠りした。すると、自分がたくさんのお金と高い地位を得て、一生を終える夢を見た。夢から覚めると、自分がねる前に茶店の人が煮ていたものが、まだできていないほど短い時間の夢だったということを知る。廬生(ろせい)は、このことから人生のはかなさをさとったことから、この語ができた。(枕中記)」

 この一生の短さが、歳を重ねるほどに現実味を増してくるわけです。戦国の世を駆け上がって「天下人」となった秀吉が、『露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢』と、越し方を思い返して、「儚さ」を歌に詠んでいますが、秀吉の六十年余りの一生も、避けられない「死」を迎えて終えています。どんな成功者も、また名のない人も、同じように終わりを迎えるわけです。

 『また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。(黙示録2012節)』

 人は死ぬだけで、一生涯を終えるのではなく、〈どう生きたか〉が問われる日が、誰にでも来る、と聖書は言っています。いのちの付与者は、「いのちの書」や他の記録文書をお持ちで、そこに人の一生が克明に記録されているのです。それが、厳正な審判者の前で、紐解かれ、記録されたことに従って、「裁き」がなされるのです。人生の出来事は、朧げになったり、あやふやにされて、忘れ去られることはないのです。

 どなたにも、隠して秘密にしてある過去の行状や思いがおありでしょうか。その日、それが露わにされ、露見されるのです。それこそ、私が一番恐れたことでした。赤恥だらけの日々でしたので、それが露見されるのを恐れたのです。そんな私が、落胆し、自己嫌悪に陥らないですむのは、次の様な聖書のみことばがあるからなのです。

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 『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。 1ヨハネ21節)』

 請われて一度、長く過ごした街の地裁の法廷に出たことがありました。東南アジアにある国から、出稼ぎで来られて、交通違反と不法滞在で検挙された方のためでした。法定弁護人がいました。審判の結果は、強制送還で結審したのです。

 ところで、この私には、「大祭司」でいらっしゃる、イエス・キリストが、〈裁きの座〉で弁護してくださると言うのです。キリストを信じた者は、「キリストの座の裁き(2コリント510節)」に立つようです。恩師の宣教師さんは、それは「報酬の座」だと教えてくださいました。そこで、様々に誘惑を通られたイエスさまは、贖った者のために、憐れみによって、弁護してくださると確約しておいでです。

 これこそ救いの一部なのでしょうか。滅びても当然な者なのに、一方的なご好意によって、この救いに選び、永遠の命をくださったのです。ただ感謝し、ただ喜ぶだけであります。

( ”キリスト教クリップアート“ のイラストです)

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襟も頭も

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 1957年に、「青春サイクリング」と言う歌が流行っていました。 3番だけをコピーしてみます。

夕焼け空の あかね雲
風にマフラーを なびかせながら
サイクリング サイクリング
ヤッホー ヤッホー
走り疲れて 野ばらの花を
摘んで見返りゃ 地平の果てに
あすも日和の
虹が立つ 虹が立つ
ヤッホー
ヤッホーヤッホーヤッホー 

 3年ほど前に、自転車用のヘルメットを、通販で買いました。時々かぶり忘れをするのですが、たまたまかぶっていない時に、近くのドラッグストアーの駐車場から出てくる車に、正面衝突されたのです。

 夕陽が落ちて、運転者の目に入ったのでしょうか、自転車に乗っている私に、運転手は気づかずにでした。強かに左足とお尻を、道路に打ちつけたのです。左足のふくらはぎに鈍痛が走りました。瞬間考えたのは、『このまま救急車で運ばれたら、帰りを待っている家内が心配してしまう!』と言う思いでした。

 慌てて降りてきた運転者が、大丈夫ではない私に、『ごめんなさい!』でもなく、『大丈夫ですか?』と、商用車を運転する疲れ気味の営業マンが聞きました。その事態の鉄則は、警察に連絡をすることなのですが、それを守らずに、運転者の名刺を要求し、家内に頼まれた買い物を済ませて、足を引きずりながら帰宅したのです。

 驚かせてはいけないと黙っていたら、家内に見破られて、『医者に診てもらわないといけないわ!』と言われ、タクシーを呼んだのです。水曜日で、一度診てもらったことのある医院は休診日で、もう1箇所も同じでした。それで、タクシーの運転手さんが、『箱森に外科がありますので、そこはどうですか?』と、親切に紹介てくださたたので、そこに連れて行ってもらったのです。

 エコーで見てもらうと、左ふくらはぎの筋肉断裂で、全治1ヶ月の負傷とのことでした。丁寧な診察をしていただいて帰宅してから、間も無くして、あの営業マンから電話があって、『警察に届けたので、検証に立ち会ってほしい!』との連絡で、夜9時前に現場に行きましたら、30分ほどの現場検証が行われたのです。自転車持参とのことで、パンパンに腫れていた足でペダルを漕いで出かけたのです。

 『免停になったら困るだろう!』と優しく考えて、被害者の届出はしないでおきました。結局1ヶ月の間、医師の指定日に通院して、治りました。後遺症はありません。一度、自転車にぶっつけた過去のある私は、ちょっと甘かったのですが、車輪が歪んでしまいましたので、保険で中古の自転車も手に入れたのです。

 痛い目に遭いましたので、それ以降は、そのヘルメットをしっかり被って運転中でおります。着用が〈努力義務〉ですが、年配者は義務履行してる方が多いのですが、多くの人は未着用のようです。頭部を打たなかったのは幸いしました。

 この街に住み始めて、三度目の自転車転倒で、空を仰いだのです。『ヤッホーヤッホーヤッホー !』なんて言ってられない、鉄の塊を動かすのですから、今度は加害者にならないように、注意に注意をして乗らないといけないと自戒しているこの頃です。同世代のお爺さんが、『それ幾らぐらい、5000円くらいするんですか?」と、今日も聞かれ、『三年前に三千円ほどで買いました。今は、けっこう高めでしょうか。』と返事をしたのです。

 襟だけではなく、〈頭〉も正す時代になって、努力義務などの不明瞭な決まりではなく、不着用は罰則にするほど、頭部は大事にしないと、被害者にならないためですが、加害者にならないためにも、やはり〈襟〉も正すべきでしょうか。意識上の決心かも知れません。

 親切なタクシー運転手の会社宛、ことの次第と、とくに『お大事なさってください!」と言われ、最後の通院の折にも同じ運転手さんでしたので、巡り合わせの良さにも感謝しまして、手紙を出したのです。そうしましたら、社長さんから丁寧な礼状が届き、とても喜ばれたのです。いろいろとあるこの頃です。

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〈こわい〉でなく平和を

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 沖縄県沖縄市立山内小学校2年、徳元穂菜さん(7)の詩「こわいをしって、へいわがわかった」の詩です。(2022年6月)

びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった

おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ

たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?

きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった

 『こわい!』、沖縄の小学生が、正直な気持ちを詩によんでいました。77年前に、沖縄が戦場になって、その時の悲惨な光景を撮影した写真や被爆した様々な物を展示した展覧会に、家族で出かけてみた時のこの女子小学生の感想なのです。

 上の兄は、山の中から、真っ赤に空を焦がしている街の上空の光景を覚えていると言っていました。昭和20778日にわたる、米軍機の空襲で、街が焼けていたいたからです。” B-29 “ の爆撃機139機が飛来し、死者740名、重軽傷者1,248名、行方不明者35名、被害戸数18,094戸の被害を与えたと記録されています。

 これは、学校に上がる前の年の兄の〈こわい〉経験でした。ウクライナ戦争が、2022224日に、ロシアの軍事侵攻によって始まっています。両軍の犠牲者は、20万人もいると、米軍トップが伝えています。戦争に意味を付け加える前に、避ける努力をせず、泥沼化している現状が、〈こわい〉のです。〈過去の失敗に学ばない〉、これほど怖いことはないのではないでしょうか。

 聖書に次にようにあります。

 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9章6〜7節)』

 「平和の君」の介入なくして、「平和」はあり得ません。「荒らし憎むべきもの(マルコ13章14節)」の到来が、聖書で予言されています。暴虐や破壊や殺戮を、このものが行うのですが、「万軍の主」が、最終的に平和をもたらせてくださるのです。それは、「和解」でもあります。神さまは、十字架によって、そこで流された血によって、「平和」、「和解」をもたらされます。

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1章20節)』

 十字架の福音は、「和解の福音」でもあります。あらゆる離反、不和、争い、遺恨を持ったままでは、救いに入ることができません。まず赦し、出かけて行ってお詫びをし、和解に努めるなら、平和が帰ってきます。国と国、民族と民族、人と人との間で、一番難しい課題が、そのように解決し、氷解することが先決です。

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[memory]罪の呵責と精算

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 『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌322節)』

 義兄が転勤した街が、長野県下にありました。招いてくださって、生まれて間もない長男を連れて、家内と三人で、結婚後、初めて特急列車に乗せてもらって訪ねました。

 綺麗な、落ち着いた街でした。そのような街の中央を、遠い山から流れ下る綺麗な川があって、その流れのほとりに、教会がありました。週日の夕べに、伝道集会があって、そこに連れて行ってもらい参加したのです。大きな教団の教会で、お名前を存じ上げていた牧師さんが、その集いの講師で招かれて、お話をされていました。

 今では、聞き心地のよいお話で、繁栄や祝福について語られることが多い中、流石、この年配の牧師さんは、「罪」の問題を取り上げ,「十字架」を語っておいででした。行為だけの問題ではなく、動悸や背景について、罪の根についてお話しされておいでだったのです。

 校長先生が万引きで、逮捕されたと言う挿話をされたのです。当時、それは衝撃的な話として、マスコミに取り上げられたのです。どうして、そんな罪を犯したのでしょうか。取り調べをしましたら、まだ大学に通っていた時に、万引きの経験があったそうです。その時は、捕まらずに済んだまま、教員試験に合格し、学校に勤務したのです。

 つい最近、学校の教師が、知り合いの男性を殺すと言った、衝撃的なニュースが報じられていて、「聖職」と言われていた職業が、ずいぶん大きな damage を負ってしまったのです。自分も教職の経験がありますので、〈けしからん教師〉のw同僚にいましたから、驚きませんが、残念な事件です。

 この女校長ですが、社会的な立場があった時期には、その盗癖は表にあらわれずに、押さえ込まれていたのです。ところが、間も無く退職をする時期に、精神的に不安定になったのでしょうか、正しく処置されずに、長年覆い隠されていたものが、露出して、物に手をつけて盗みをしてしまったのです。

 ある罪は、社会的な立場や責任の重さを意識している間は、覆い隠されているのかも知れませんが、何かの心に不安が襲ってくると、蒸し返されてしまうのでしょうか。長く築いてきた信用を、一瞬にして失う行動に駆り立ててしまったわけです。罪の力に抗しきれず、意志の力だけでは防ぎきれなくて、再発する可能性があると言うことです。これが罪なのです。

 私が、学校に行っていた頃から読んできた聖書の中に、『盗んではならない(出エジプト20章17節)』とか『去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。(イザヤ52章11節、2コリント6章17節)』などと言う箇所があって、いつも罪に走ろうとすると、この聖句や、そのほかの聖句が brake になっていたのです。でも罪の誘惑が強くて、負けてしまっていたのです。

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 罪責観に苛まれながらも、罪に引きずられて生きていたのが少年期、青年期だったのです。そんな時期を過ごして、罪の呵責を覚えていた時、『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ19節)』と言う聖句が想いの中にやってきて、『赦されるのだ!』と言う思いが湧き上がったのです。

 その頃、宣教師が開拓し、母が導かれ、そして兄が牧師になっていた教会に、宣教師さんが、テキサスの教会の Conference で、共に励まし合っていて、後にニューヨークの聖書学校で教師をしていた方が、アフリカに行く途次に、この教会に寄られ、その方を講師に特別集会が持たれました。

 話が終わると、その説教者が、『祈りますので前においでください!』と招いたのです。私の思いには、強烈に『出るな!』と引き止める声があって、出られませんでした。翌晩、同じように集会があって、出ましたら、同じように祈りの時がありました。躊躇していた私の席に、兄が来て、出るように促し、フッとついて出てしまったのです。その説教者が、私ともう一人の年配のご婦人の頭に手を置いて、異言で祈ったのです。

 すると、突然、私が嫌ってきた「異言」を語り始めてしまったのです。そうしましたら、激しく泣いたのだそうです。私は覚えていないのですが、義姉が後にそう言ってくれました。悔い改めと赦しの感謝で泣いたのでしょう。同時に、『イエス・キリストの十字架の死が自分の罪の赦しのためであった!』と言う理解が湧きが上がったのです。驚くほどの喜びがやってきました。さらに伝道者への献身の思いが湧き上がってきたではありませんか。

 それが、いわゆる「聖霊のバプテスマ」を、私が経験させていただいた、一連の出来事だったのです。それから、いっぺんに生活が変わったのです。十二分に汚れた者でしたが、馴染んだことごとを捨てられたのです。汚れたものから距離を置けたのです。もう盗みませんでした。酔っ払うことも、おかしな場所に出入りすることもなくなり、赦された確信が溢れたのです。そして翌年の春に結婚をし、その翌年、勤めていた職場を退職し、五月に長男が生まれました。宣教師の開拓伝道の助手とさせていただいて、伝道者になる訓練を受け始めたのです。

 私に、新しい救い確信を与えてくれたのは、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人289節)』と言う聖書箇所でした。義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される救いの確信に入れていただいたのが、聖霊の働きだったのです。

 その後には、〈罪の精算〉に心が向かったのです。盗みを働いた、少年期を過ごした街の大通りにある店に、お金を持って行き、女主人にお詫びをしたり、ご免なさいをして、罪の償いをし始めたのです。捕まって、警察に補導されて、こっぴどく叱られていたら、よかったのですが、遅まきながらキヨちゃんにも詫びられたのです。最近も思い出した、通っていた学校での罪があって、それをどうするか、後期高齢期になってしまった私は思案中です。そうすべきことが多過ぎて困り果てているのです。すべきことがなお残されている今であります。

(女鳥羽川河畔、バスが向かう先の曲がったあたりに店がありました)

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マシュマロのような手で

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 『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト1526節)』

 先ごろ、救急車に乗っている家内を、女性の消防隊員が、その柔らかな手で冷たくなっていた手を握り続けてくれていました。血圧が低下している危険さを、同乗の隊長に知らせ、高速道路に入ったこと、間も無く病院であること、無事に着いたことなどを家内に、その都度話しかけてくれていたのです。仕事意識以上の心遣い、気遣いが、家内は嬉しかったようです。

 生きているとは、死と背中合わせにいるのを、家内の乗った救急車に同乗して、つくづく感じたのです。『人生至る所聖山あり!』で、若さの中を生きてきたのですが、今は、『人生至る所危険あり!』のように感じてしまうのです。そんな救急車の中で、婦人隊員の《マシュマロのような温かな手》が、家内を応援してくださったのでしょう。

 でも、いつも神さまの守りがあります。先日、聖書のみことばを、娘が送ってくれました。

 『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ639節)』

 母におぶわれたことや、父の仕事を手伝っていた予科練帰りの屈強なシゲちゃんが、山道を泣きながらおぶってくださったことを思い返すのです。まだ十代半ばだった方です。

 人生、おぶわれ、おぶい、そしてまたおぶわれていく道なのでしょうか。自分独りで生きて来たように思っていた時に、そうじゃなかったのに気づいたのです。私を、目に見えないお方がおぶってくれていました。生まれてからずっとです。あの何度も出会った危険の最中に、気づかない間におぶわれ、手を引かれ、覆われていたのです。今も、同じく背中の温もりが、心臓あたりに感じられているではありませんか。

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おかあさん

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 西条八十の作詞、中山晋平の作曲の「おかあさん」は、理屈なく母親が、「おかあさん」であることを伝えています。同じく「カタタタキ」もありました。

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい おかあさん

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんべんよんでもうれしいな
おへんじなくても うれしいな

 「肩たき」をしたりしたことあったかな、と思い返しています。オンブはしたことがあったのです。私たちの母は、兄二人を産んだ後、女の子が欲しかったのに、また男の子の私が生まれ、その後に、また男の子を産んでいます。戦時下、三人の男の子を産んだ母は、表彰者だったでしょうか。

 今や83 才、82才、78才、76才の後期高齢者の群の中に、四人ともいて、自分は父なし児、義父母に育てられ、義父は夭逝し、義母一人の手で、母は育ったのです。『兄弟姉妹が欲しかった!』と話してくれたことがありました。

 幼な友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会に行くようになり、そこで母が信じた神さまが、「父(ギリシャ語のabba、アラム語のabba )」であることを知って、自分が父なし子ではないことが分かってから、この父親のもとで、本物の父子関係を持つことができたのです。

 主イエスさまは,15回ほど、祈りの中で神を「父」と呼んでいらっしゃいます(マルコ1436)。この祈り以外にも、神さまを「父」と100回は呼んでいるのです。親愛の情を込めて、父親を呼ぶために、日常語であったアラム語の[abba]を使われたわけです。

 それは、主イエスさまは、父なる神との特別で、親密な関係をお持ちだったからです。ですから初代教会のクリスチャンたちは、神さまを「アバ」と呼ぶようしていたようです。またパウロも、その書簡の中でこの語を2度(ローマ815節、ガラテヤ46節)ほど用いてえいるのです。

 ですから私たちも、主イエスさまによって、神を「アバ,父」と呼べるのです。それは、ちょうど日本語の「おとう」、「お父ちゃん」、「ちゃん」といった親愛の呼び方です。人間をアバと呼ぶだけではなく,天におられる神さまを、「アバ」と呼ぶ信仰が与えられているわけです。

 「アバ」でいらっしゃる神さまに、母は必死に祈りながら、育ててくれたのです。学校に呼び出されては、息子の問題行動を、どう聞いて、どう接したのでしょうか。家に帰って来て、叱ることはなかったのです。そんなで、『よく立ち直りました!』と言う、私の担任のことばを、母はどう聞いていたのでしょうか。

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 学校を終えると、兄弟たちは、父母の元を離れて行きましたが、私は、結婚するまで親元にいたのです。忠実に教会生活をし始め、クリスチャンの妻をもらおうとした時、父は、「ビルマの竪琴」を書いた、竹山道雄の仏教の勧めのような本を買って来て、『読め!』と言って手渡しました。私は読まないままにしていたのですが、父の方が、兄の勧めで信仰告白をして救われたのです。

 祈る母、聖書を読む母、礼拝を守る母、献金をする母、証しする母が、男五人の荒れた家庭の中にいたことの祝福こそが、私たちの幸の礎であったに違いありません。この日曜日は、「母の日」です。いろいろと母や、母の話してくれたことば、作ってくれた食べ物など、懐かしく思い出しています。

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あの経済成長期を越えての今

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 戦後、平和の時代が来て、戦地に行っていたお父さんたちが復員して来て、いわゆる baby boom で、子どもたちが産まれてきたのです。1946年に生まれた方たちからでしょうか。その時の子どもたちが、中学校を卒業して、京浜、中京、阪神の工業地帯で働き始めて、戦後の未曾有の経済成長期の担い手となります。お父さんは、鉄砲を担いで出て行ったのですが、その親の子たちは、ハンマーやドライバーを手にしたり、営業車を運転し、鞄を引っ提げて、いわゆる「企業戦士」になっていきました。

 1964年の秋に行われた、東京オリンピックの開催の準備のために、押し寄せてくる観光客を受け入れるためのインフラ( infrastructure /鉄道網、道路網、空港整備、ホテル建設など)の整備、増強がなされていき、われわれ世代の父や兄の世代は、その働き手でもありました。

 敗戦の廃墟の中にたたずんでいたのも束の間、朝鮮戦争の戦争特需、その後のヴェトナム戦争の戦争特需の中で、懸命に働いてくれた世代でした。われわれの父の世代は、スタルヒン(父の少し後に世代人)・栃木山・初代吉右衛門(歌舞伎俳優)、私たちは、川上・千代ノ山・古橋広之進(水泳選手)、その後の子どもたちは王・大鵬・卵焼き、息子たちの世代は、掛布・SMAP、今は大谷翔平・井上尚弥・シホンケーキでしょうか、どうでしょう。世代世代のスターや選手や歌手がいたし、今でもいるのです。

 その戦後のbaby boomer の世代の子どもたちが、第二次の baby  boomer になったのです。教会のそばに中学校があったのですが、校舎の隅にプレハブ校舎が建てられ、一学年1315学級もある時期を迎えていました。今や、彼らのお父さんやお母さんが、定年を迎えて、家に帰ってきて、すでに七十代、今や朝夕は、day care の送迎用のライトバンが、路上を東奔西走して、彼らを乗せています。退院後の家内も、そのバンに乗って、週一回の行われる、AEON mall に出かけているのです。

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 世の中は、景気後退ですが、福祉の世界は盛況です。ただ過当競争でしょうか、思ったほどの収益のあがる事業ではなくなってきているそうです。公費の福祉費の援助で経営が成り立っているのです。この業界に、初期に参入していた人たちの右肩上がりの好機は過ぎたのでしょう。

 人への福祉が、儲けの世界にすり替えられてしまってはいないでしょうか。残念なことです。福祉や社会事業に対する社会的な責任を果たしたり、基本的には人への労りではない事業者が、その意味や意義を失わせているのだと言われています。そんなおかしな時代に、ブレーキは効くのでしょうか。お金で、問題を解決していく行政に、納得できないのは、お金の価値が分かっている、一生懸命に働いて来た頑張り世代であったからかも知れません。

 我慢や責任を学び取らされた世代が、その影響力をなくしてしまう時代に起こっているのでしょう。成長と衰微も一対の出来事なのかも知れません。

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」と言われたのです)

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