マシュマロのような手で

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 『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト1526節)』

 先ごろ、救急車に乗っている家内を、女性の消防隊員が、その柔らかな手で冷たくなっていた手を握り続けてくれていました。血圧が低下している危険さを、同乗の隊長に知らせ、高速道路に入ったこと、間も無く病院であること、無事に着いたことなどを家内に、その都度話しかけてくれていたのです。仕事意識以上の心遣い、気遣いが、家内は嬉しかったようです。

 生きているとは、死と背中合わせにいるのを、家内の乗った救急車に同乗して、つくづく感じたのです。『人生至る所聖山あり!』で、若さの中を生きてきたのですが、今は、『人生至る所危険あり!』のように感じてしまうのです。そんな救急車の中で、婦人隊員の《マシュマロのような温かな手》が、家内を応援してくださったのでしょう。

 でも、いつも神さまの守りがあります。先日、聖書のみことばを、娘が送ってくれました。

 『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ639節)』

 母におぶわれたことや、父の仕事を手伝っていた予科練帰りの屈強なシゲちゃんが、山道を泣きながらおぶってくださったことを思い返すのです。まだ十代半ばだった方です。

 人生、おぶわれ、おぶい、そしてまたおぶわれていく道なのでしょうか。自分独りで生きて来たように思っていた時に、そうじゃなかったのに気づいたのです。私を、目に見えないお方がおぶってくれていました。生まれてからずっとです。あの何度も出会った危険の最中に、気づかない間におぶわれ、手を引かれ、覆われていたのです。今も、同じく背中の温もりが、心臓あたりに感じられているではありませんか。

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