轍を踏むことなく

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 国家建設に、「スローガンslogan 」がありました。明治以降のそれは、「富国強兵」だったのです。繭を育てて絹糸を作り、それを輸出して「外貨」を稼ぎ、工業機械と軍備増強、欧米列強諸国に倣い、追い越そとしてでした。その試験場は、より良い絹糸を作るための研究所で、私が小学校を通った街に、その名残のように残されてあったのです。群馬の富岡や長野の諏訪などは、その基幹工場のあった街でした。その「蚕糸試験場」に、蚕(かいこ)を拾いに行き、桑の葉をやって育てたのです。

 国を強くすることの方が、国を形造る人々の生活の直接的な向上ではなかったのです。国が富まなければ、生活の向上もありえないから、〈いけいけどんどん〉で強兵に走った結果、広島と長崎への原爆投下だったとも言えるでしょうか。

 同じ戦争に悲惨さの違いなどなく、どの戦いも悲惨極まりありませんが、今回、G7の広島サミットが開催されるにあたって、参加国の首脳たち一行が、広島市内の平和記念資料館を見学したそうです。それに前後して、外国人観光客が、この記念館を訪れて、写真や遺物を見て、涙する光景が、ニュースに取り上げられています。

 『二度と許すまじ原爆を!』と言うヒュプレヒコール(ドイツ語のSprechchor(英語のspeaking choir)から)を、子どもの頃から、何度聞いたことでしょうか。今のウクライナ戦争で、ロシアがこれを使うと威嚇していますし、北朝鮮の指導者も、国威を示すために、歴史が完全否定する爆弾を使う、と脅しにかかっています。

 聖書に次のようにあります。

 『そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(マタイ2448節)』

 主イエスさまが、再びおいでになる前兆について言及している箇所です。「戦争・・・と戦争のうわさを聞くでしょう」とあります。二戦後、あんなにひどい戦禍に出会ったのに、その歴史の事実に学ばない国や民族が、あの戦争を、すぐに繰り返しています。子を失ったお母さんの泣き叫ぶ声は止まないままです。

 平和を享受していた日本が、再軍備、自衛隊の軍隊化、「軍事大国」を政府が掲げ始めようとしています。憐れみ深い神さまから頂いた「平和」のありがたみを忘れたか、軍事産業を起こすためにか、そんな姿勢を取ろうとしている今です。私は、孫たちを戦場に送りたくありません。国防と言う国家目標のために、彼らを殺されたくありませんし、相手を殺させたくないのです。

 欲望と名誉、野心と侵略、私たちは尊い値を払って学んだのではないでしょうか。「外交努力」に徹していくべきです。与謝野晶子が、弟の出征にあたって詠んだ歌が思い出されます。明治の軍事大国化の怒涛ような波に中に、飲み込まれていく日本と日本人の衷心からの心の叫びの代表の思いだったのでしょう。

ああ、弟よ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ。
末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、
親は刄をにぎらせて
人を殺せと教へしや、
人を殺して死ねよとて
廿四までを育てしや。

堺の街のあきびとの
老舗(しにせ)を誇るあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを・・・

(さかひ)の街のあきびとの
舊家
(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。

君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思
(おぼ)されむ。

あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。

暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻
(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月
(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。

 「弟」が死ぬことを願わない姉の叫びでした。まさに、どの戦争も同じで、銃後にある父母兄弟姉妹の思いでもあり、ありました。この美しい国土が、再び焦土と化すことなどだれも願いません。それは、どの国も、どの民族も、どの国家も同じです。

 一つ思い起こす、中国人留学生の言葉です。地方都市の工学部の博士課程に留学して、帰国してから、北京の政府関係の要職についたご婦人です。広島を訪ねた時に、被爆体験を残そうとして建てた記念館を訪ねられて、被害者の立場で被った悲劇を、日本が残しているのを見て、『同じように、中国大陸やアジア諸国で行った侵略の〈加害者の記念館〉を作ってほしい!』と、彼女は思ったそうです。穏やかな方でしたが、厳しい口調で話されたのが驚きでした。

 真っ白な繭玉を手にした小学生の私には、同じ繭玉が、国を富ませ、軍事大国化していくために果たした役割は、微塵も感じませんでした。隣国に行き、天津の街の博物館に、日本軍の侵攻時の写真が、壁一面に大々的に掲げられてありました。華南に行きました時も、大きな河川の堤防の壁に、日本軍の爆撃による死者数の刻まれた記述を見た時に、〈加害者の子〉なのだと言う意識が強烈に思わされた日を忘れません。

(広島市の市花の「夾竹桃(きょうちくとう)」富岡製糸場跡です)

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