小学校一年、中耳炎になって、住んでいた街の耳鼻科にかかりました。あんなに痛かったことは初めてでした。あれ以来、時々中耳炎が起こり、何度も耳鼻科通いをしてきました。『仙台に、鼓膜再生で腕の確かな医師がいる!』と、あるblogger が教えてくれたのです。その人に連絡して、どこの医者かを聞いたのです。
度重なる中耳炎と、教師をしていた時に、生徒とバレーをしていて、右耳にボールを当ててしまって、鼓膜を損傷してしまったのです。そんな経過があって、「杜(もり)の都」の玄関口・仙台駅で地下鉄に乗り換えて、そのお医者さんを訪ねました。もちろん前もって連絡をしてありましたので、左右両方の鼓膜再生手術は無事終わり、2日後には退院、帰宅できたのです。
そんなことが、仙台と宮城県との自分との関わりとなりました。退院した日に、碧眼の将・伊達政宗の居城の青葉城(仙台城)を訪ねました。市内遊覧バスに乗ってでした。城壁しか残されてありませんが、ここから、ローマを中心に、当時のヨーロッパに使節団(慶長遣欧使節団)が訪ねたことを学んでいましたので、ことのほか興味がありました。
慶長18年(1613年10月28日)に、その遣欧船は、石巻の港から出帆しています。支倉常長(はぜくら)が団長で、実際はアメリカ大陸のメキシコに上陸し、そこから太西洋を航行して、1615年1月30日に、スペイン国王に謁見しています。そして1620年に帰国したのです。それ以降は、キリシタン禁制、鎖国政策で、日本は内に籠ってしまうのです。
石巻は、東北地方で有数な漁港で、10年前の東日本大震災の折には被災して、多くの犠牲者を出しています。津波が、北上川を遡上していく様子が、ヘリコプターから中継されていて、驚きのうちに、その映像をテレビで見たことがありました。下る川の勢いではなく、逆流する水の力の強大さに息を呑んだのです。
この仙台に、東北学院があって、進学を考えましたが、学びたい学科がありませんでしたので諦めました。また、今の東北大学医学部の前身の仙台医学専門学校がありました。そこで、中国の紹興の人、魯迅が学んでいます。魯迅の影響でしょうか、今でも東北大学には、中国からの留学生が、千二百人もいるそうです。私の教え子も、ここに留学していました。
仙台は、伊達政宗が街作りをしていますが、特異な街作りをしていて、調べてみると興味深いものがありそうです。どなたであったか忘れましたが、この街を探索して、テレビの番組で comment しておいででした。
宮城県は、現在、228万人の人口で、ほぼ半数の102万人が仙台市民です。最も有名な観光地は、「松島」でしょうか。芭蕉が訪ねて、感無量だったようです。
『抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず。』
と、書き残しています。中国一の景観と言われる、杜甫が「岳陽楼に登る」で詠んだ湖南省の「洞庭湖」、白居易(はっきょい)が詩に取り上げた浙江省杭p州市の「西湖」に比肩するほどの名称が、この松島なのだと言うのです。芭蕉は自分の足で、大陸を訪れたことはありませんでしたが、伝え聞いていたのでしょう。
私たちが住んでいた華南の街にも、人造池の「西湖」がありましたが、多くの街に作って、そう呼ぶ池があるほど美しく、有名な湖のようです。
芭蕉は、自分では俳句を詠むことはしませんで、同行の曾良が詠んだ俳句が有名です。
松島や鶴に身をかれほととぎす
ここ栃木市にある大平山からの眼下の眺めが、まるで「松島」のように思えたと言う、上杉謙信の故事から、実に美しいと言われて、「陸の松島」と呼ばれています。そう見えなくはないのですが、実際の松島に行ったことがないので、「謙信平」から見下ろす風景で、想像する以外になさそうです。
どうして名物になったのか、「牛タン」が美味しいと言われて、入院した帰りに、お土産に買って帰ってしまいました。そのほかに「笹かま」も美味しいのですが、ただ化学調味料の旨味が強くて、自然のままのかまぼこを食べてみたくなりました。
(石巻にある遣欧船の復元船、復興なった女川町、ミヤギノハギです)
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