山形県

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 戦時中、自分が生まれる前に、両親と兄たちは、山形にいたようです。鉱山関係の仕事をしていた関係でです。父は、戦時中のことについて、子どもの私たちには、ほとんど話しませんでした。国策の仕事に従事した人たちや軍関係者は、戦時下のことに口をつぐんでいたのです。父然りでしょうか。ですから憶測する以外にありません。

 この県も訪ねたり、旅行をしたことはありませんが、学校の同級生が、この県(本庄市)の出身で、机を並べて一緒に学びました。穏やかな性格の人で、自分とは違ったものを持って生きていました。何度か手紙のやりとりのまま今になってしまっています。

 山形県には、江戸期には、鉱山があったそうで、金や銅などの採掘が行われていたそうです。父が戦時中に働いていた軍需工場の会社名が分かっていますので、戦前、戦時中に操業していたのは、山形県下で2箇所ほどありました。きっと、そのどちらかの鉱山で仕事をし、戦火が激しくなった段階で、国策事業の従事で、鉱石の増産のために中部山岳の現場を任され、赴任したようです。

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 この山形県は、芭蕉が歩いていまして、ここには芭蕉の弟子が多かったそうで、芭蕉を囲んで句会が多く開かれたようです。芭蕉自身も旅の途上で、多くの俳句を読んでいます。最上川の大石田を訪ねた時には、次のように詠んでいます。

 五月雨を集めめて涼し最上川(五月雨を集めて早し最上川)

 芭蕉が訪ねた大石田と言う村は、私たちが今、住んでいる家の横を流れる巴波川と同じ「舟運」が盛んで、その「河岸(かし)」があって、賑わっていたそうです。最上川の流れを利して、同じように物資の輸送が行われていたそうです。北前船が運ぶ荷を、酒田の港で、小型の舟に載せ替えて、最上川を登って、新庄、米沢と物資を運んでいたのです。下りは、米や紅花や青苧や大豆などが、京都や大阪、年貢米は江戸にまで運ばれたそうです。

 江戸期から明治まで、日本中で、河川を利用した舟運が盛んでした。在華中、友人が誘ってくださって、ユネスコの世界遺産である「武威山(wuyishan)」に行った時に、竹で作られた筏で、川下りをしたことがありました。船頭さんは、竹の竿を流れに竿さして、巧みに操ってくれたのです。日本の川と違って、流れが緩やかなので、悠長に流れる中を、静か下ったのです。船頭さんに、舟運について質問しておけばよかったと悔やんでいます。

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 芭蕉も、大石田から、川を利用して降ったのでしょうか。「出羽三山」と言われる羽黒山、月山、湯殿山が有名です。また米沢は、名君と謳われた上杉鷹山(治憲)の城下町でした。名君の葬儀が行われた時には、その死を悼む領民の葬列が、延々と続いていたほどだったと聞き、どれほど慕われていたかが分かりました。

 この山形県には、「飛島(とびしま)」という島嶼部があるそうで、今や人気の移住地になっているのです。漁業の行われる島だそうで、人気の観光地となっているのです。観光と住むこととは分けなければなりませんが、いくら美しい島でも、生活が成り立たなければ意味がありませんね。

 古来、紅花染が行われています。中近東原産の紅花が、日本には、3世紀ごろに入ってきて、栽培が徐々に盛んに行われてきています。山形では室町時代の終わり頃に植え付けが始まって、栄えていきました。芭蕉も訪ねている大石田は、この紅花の集積地だったようです。

 県人口が、100万人ほどの県ですが、政治家の緒方竹虎、法学者の我妻栄、軍人の石原莞爾、写真家の土門拳、作家の藤沢周平、歌人で医師の佐藤茂吉などの方々が世に出ています。

 口は重いのですが、勢いを得ると一気に話すような感じです。東北人は、訛りが強いので、話す時、それが出ないように、一瞬戸惑うのでしょうか。最上川は、NHK連続テレビ小説「おしん」の舞台でもありました。おしんが船頭の漕ぐ舟で、家を離れる場面には泣かされました。

(庄内平野の鳥海山、大石田付近の最上川、紅花染です)

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