hug

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 日本社会の上下関係、主従関係の典型的な姿が、この写真に違いありません。織田、豊臣、徳川の時代ではなく、令和になって、まだこんな写真を見て、日本って根本的には、まったく変わっていないのだと言うことが分かります。

 江戸時代の狂歌に、「織田が搗(ひ)き 羽柴が捏(こ)ねし天下餅 座りしままに食うは徳川家康」がありました。信長の性急ぶり、秀吉の学歴や家柄の劣等感ぶり、家康の冷淡ぶり、いえ、この三人はみな、同じような〈ぶり〉の専制者だったかも知れません。総理大臣というのは、王様ではなく、国民に serve する、公僕の頭であります。

 政府の大臣のみなさんが、首相の前に、低頭している様子は、尊敬よりも、何か上下関係が露わで、好きになれません。欧米だったら握手、21世紀の日本でも、握手でいいのではないでしょうか。相手の体温が伝わってきて、平身低頭するよりは、友好的な挨拶になるのではないでしょうか。そうしないで慇懃な顔をして、それを受けている旧態依然さが、気になります。

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 私は、アメリカ人宣教師と8年間、この方から多くを学んで、共に働きました。この方は、ご自分を「先生」と呼ばせませんでした。母教会を開拓された方も、「Jack さん」と呼ばれるのを喜んでいました。もちろん教会は上下関係ではなく、友愛の横関係であって、互いが、赦された罪人同士で、兄弟姉妹なのであって、握手やhug をし合うのです。

 何かの落度があって、ビンタをされた若い方が、『牧師先生は僕を愛してくださっているからだ!』と思ったそうです。彼は、お父さんから関心を寄せられなかったのでしょうか、父的なものを、その暴力で感じてしまったのです、そう思わせたなら、ビンタした者は牧者ではなく、相当なおまけをして言っても調教師、訓練士、そう愚か者ではないでしょうか。オリンピックでしたか、馬術で、走らない馬の横っ面を殴ったことが、大きな騒ぎになっていました。馬だって愛は感じなかったに違いありません。

 いやー、教会の中に鉄拳や平手がとんでしまうとしたら、それは日本の旧軍隊やタコ部屋、さもなければ博徒の集団に間違われそうでなりません。平和と赦しや和解の世界にあってはいけないことが、かつての一部の教会では、弟子訓練の名で、まことしやかに行われていました。まさに愚の骨頂です。まさか今はないでしょうね。

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 それは日本精神、上位下逹の慣行が、愛にすり替わって入り込んでしまっています。私は中学の運動部で、鉄拳制裁を、教師や上級生、OBから受けたことが何度かあります。〈ヤキを入れる〉、〈制裁〉、〈連帯責任〉ででした。今は人権問題になってしまいますから、ないと信じています。

 弟子のペテロが、剣を抜いて、耳を切り落とした記事が聖書の中に出てきます。血気盛んなとか、若気の至りとか、正義感からとか言って、その行為を弁護できるでしょうか。イエスさまは、ペテロの剣を収めさせて、耳を治されています。「平和の君」でいらっしゃるからです。

 今度の首相には、顔を見合わせ、微笑みながら、ねぎらい合いながら、歓迎し合いながら、hug や握手をして欲しいのです。できるかなの十月です。

 好い指導者を私たちは願うのですが、私たちも好き国民、部下、学生でなくてはなりません。

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