政(まつりごと)

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歴上の人物は、小説に描かれる時に、ずいぶん脚色されて、つまり作者の思い入れが強くなって「実像」からかけ離れてしまって、「虚像」が描かれるのです。読者へのもてなし、ご機嫌取りなのです。幕末に活躍した坂本龍馬も、土方歳三も、司馬遼太郎が描いたのですが、やはり小説龍馬、小説歳三になってしまっています。

私の同級生に、土方くんがいました。武士以外が、苗字が許されたのが、明治になってからであって、その時に作り出された姓が、多くの人の私たちが使っている物です。山奥から東京の郊外に越してきて、土木工事に携わる力仕事人を「ドカタ」と読んできていますが、それを〈ヒジカタ〉と読む「土方」には、驚かされました。” Dokator “ なら格好いいのですが、『♭ 朝の四時半だ、ベント箱下げて家を出て行く土方の大将 ♯』と言う戯れ歌を、歌ってた小学生の私には、おかしかったのです。

この土方歳三は、江戸から離れた、多摩川と浅川の間に位置する石田村の出身で、裕福な農家に生まれたそうです。喧嘩が強く、利発だったそうです。家は、「石田散薬」を製造して販売していたので、青年期には、これを背に担いで行商をしていたそうです。時間があると剣術の稽古に励んで、天然理心流の腕達者だったのは事実です。

栃木県下の壬生の城下の剣術道場で、腕自慢の萩藩士の高杉晋作が、壬生剣士に打ち負かされて、一本も取れなかったと言う実話を聞き、土方歳三と戦う機会があったら、どちらが強かっただろうかといらぬ心配をしてしまいます。

幕末の京都の防備のために結成された新撰組の副長として、幕府側の任務に当たったのです。美男子だったそうで、洋装の写真が残されています。時代の流れに抗することができず。蝦夷の地、函館まで転戦して行っています。途中、宇都宮では、負った怪我の治療のために停留していたそうです。

2017年の秋に、函館を訪ねた時に、五稜郭前で、市電を降りて人を訪ねたことがありました。函館戦争の激戦地だったのですが、その雰囲気は全くしない、平和な佇まいでした。土方歳三は、任務に忠実で、部下思いの指導者であったそうです。激戦の末に、戦死して行きます。百姓の子が、旗本になる夢を追いかけて、34年の生涯を終えています。

激変していく時代の只中で、多くの若者が、主義のために、任務にために散って行ったのです。歴史とは面白いもので、今回の指名で、岸田文雄氏が、第100代の内閣総理大臣となりましたが、第1代は伊藤博文でした。この人が選ばれた理由が、然るべく就任を期待された逸材が、担うべき器が、みな騒乱の中で、また病気で死んでいなかったから、と聞いた時、人や国家の歴史、人の選出とは実に不思議で、面白おかしいものを感じてしまうのです。

多くの人が願い、期待する人物が選ばれずに、消えていくのですが、これは時の運では片付かないものがあります。「公明正大」、「謙遜」な人ではなく、人や組織の思惑で選ばれるのは、釈然としません。いつでも同じなのですが、でも私の個人的な願いは、

『主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。(ミカ6章8節)』の聖書を体現できる人なのです。

そして新しい、政治指導者のために、私ができることがあります。『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。(1テモテ2章1節)』、神を恐れて政(まつりごと)をしてくださるように、神の祝福を願い、知恵と判断力とを、神が指導者にくださるように祈ることです。

(“goodday hokkaido ” の函館五稜郭です)

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