出現

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「混乱」、さまざまな所見、意見、考察が溢れかえって、収集がつかなくなった状況を、そう言うのでしょうか。また為す術がない状況を、そう言うのだと思います。〈新型コロナウイルス〉による新型肺炎が、世界中に蔓延していて、人々の心の中に、「不安」が生まれています。

1347〜1353年に、人類史上、最大規模で流行したのが、「ペスト」でした。当時のヨーロッパ全人口の約 3 分 の 1 が、その疫病によって亡くなっています。それは、想像を超えた規模と数の災禍でした。このヨーロッパでの拡大の背景には、当時の世界の覇者・蒙古軍がヨーロッパに侵攻したのと、人の行き来が頻繁になった背景がある様です。

1334年(鎌倉幕府の最末期)に、中国大陸で、激しい旱魃があって、農産物の生育に大被害がありました。それで飢饉が起こった中で、杭州で疫病が発生しています。それが「ペスト」であったと考えられています。当時の通商路の「シルクロード」によって、ペストの媒体である〈ネズミ➡︎蚤(ノミ)〉、あるいは〈人➡︎ノミ〉によって、ヨーロッパに病原菌が運ばれたと、原因が考察されています。
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この「黒死病」とも言われるベストは、18世紀に至るまで、何度もの流行期を経ています。日本に、このペストが入ったことについて、次の様な記事があります。

『日本では、1899 年(明治 32 年)に流行地の中国から侵入したのが初のペストである。翌年から東京市(現在の 23 区)は予防のために一匹あたり 5 銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオピスネズミノミは生息せず、したがってそれ以前には日本にはペストはなかったとされている。ペストが日本に侵入してから 27 年間に大小の流行が起こり、合計ペスト患者 2,905 人(死亡 2,420)が発生した。しかし、日本がペストの根絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎や、彼の指導下でダイナミックに動いた当時の日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズミの撲滅作戦)にある。』(加藤茂孝)

私たちは、日本が観光地として、世界から注目されて、おびただしい数の外国人が、日本に出入りする時代を迎えました。そのお陰で、経済効果が上がっている様ですが、メリットとともに、〈デ・メリット〉もあります。このグローバル化は、どうすることもできない社会的な現象ですが、経済優先、商業重視に偏ってしまううことで、〈糠喜び〉するだけではいけません。被る〈被害〉をも考えておかなければならないのではないでしょうか。
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「・・・地上では、諸国の民が・・・不安に陥って悩み・・・恐ろしさのあまり気を失います。」と、この時代の出来事を、私の愛読書は看破しています。「混乱」や「不安」の時代の只中で、私たちは、徒(いたず)らに恐れなくてもよいのです。慌てなくともよいのです。「流言蜚語(るげんひご/世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。 根拠のない扇動的な宣伝。 デマ)に惑わされないことです。《21世紀の北里柴三郎》の出現を期待しましょう。『恐れるな!』

(「ハーメルンの笛吹き」の影絵、実験中の「北里柴三郎」です)

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踏切

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この写真に写っている箇所は、「踏切」です。日本中に、かつては何万(2018年度で33,098か所)もあった、踏切の内の一つです。みなさんにとられては、何の郷愁もないのでしょうけど、私にとって、実に懐かしい写真なのです。

ここは、江戸五街道の一つ甲州街道が、多摩川の渡しを渡って、日野の宿場を後にして、八王子に至る台地の坂の途中なのです。明治になって、そこを交差する様にして、開業した「甲武鉄道」の線路が設けられ、踏切が設けられた箇所です(実際に、お茶の水家から八王子を結んだのは1889年でした)。2両親と兄弟たちとが住み始めた頃には、中央線(1906年には中央本線に改名され、国有化され、都内の線路を「中央線」と呼んでいます)と呼ばれる様になっていて、そこを通勤や登下校や買い物のために出かけるたびに、行き来したのです。

父は、この踏切の中程から、駅のプラットホーム(写真の左端に最後部が写っています)を上り下りをして通勤していました。どうしてかと言いますと、旧国鉄に車輌の部品を作る会社を、父が持っていましたので、改札を通らないで、顔パスだったのです。その息子の私たちは、そうはいかずに、この坂を降って、世紀に改札を通っていました。
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この道は、新道ができた関係で「旧甲州街道」となり、近年ではバイパスが通る様になっています。今では、この踏切は閉鎖されてしまっています。渋谷のスクランブル交差点の比ではありませんが、数限りない人が、泣いたり笑ったりして交錯した〈交差点〉であったことは確かです。

(下の写真は山手線の渋谷駅の古写真です)

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