集まりに呼ばれた時に、家内がよく作って持って行ったのが、「手巻き寿司」です。酢飯に、キュウリ、人参、椎茸、ソボロなどをのせて、海苔巻きにしたものです。酢の効いたご飯や冷たくなったものは、敬遠して食べない中国のみなさんですが、アッと言う間に、この「手巻き」が、テーブルからなくなってしまうのです。
子どもの頃、事あるごとに、よくこの「手巻き寿司」を、母が作ってくれたことがありました。中国の街には見当たらないので、「干瓢(かんぴょう)」は家内は使いませんが、母はこれを甘辛く煮て使っていました。この栃木に参りまして、3ヶ月近く過ぎようとしているのですが、こちらの名産品がいくつかあるのに気付きました。
ここは、近年「いちご王国」で、日本一のいちご生産を誇っています。《とちおとめ》と言う品種は、抜群に甘く、「大福」に入れたものが売られていて、小豆の餡と餅とのコラボが合っていて、美味しいのです。行きつけの和菓子屋さんの店頭から、もう時期が過ぎたのでしょうか、今は消えてしまっています。
この栃木のもうひとつの名産品は、その手巻き寿司に入れる「干瓢」なのです。今から約 300年前、壬生藩主(下都賀郡壬生町にあった藩)の鳥居忠英(ただてる) というお殿様が、前任地の滋賀の木津村から「干瓢の種」を取り寄せ、この辺り「下野の国」に広めたと伝えられています。
この周辺は、「関東ローム層(黒色の火山灰土)」による土壌に覆われているため、排水が良いそうです。それに夏の暑い時期には、日光那須連山か ら発生する雷雨が地面を冷やし恵みの雨となり、水分が実を太らせ、この「干瓢」の成長を促します。 このように土壌や気象条件が、ともに栽培に適した地域であるこ ともあって、全国の97%の一大生産地となったのです。
この「壬生(みぶ)」と言う地名ですが、“ウイキペディア”には、『壬生は、もともと水辺、水生(みぶ)の意で泉や低湿地を意味し[1]、後に「壬生」の字を当てた地名、そこを出自とする一族や集団を指す。また、皇子の世話や養育を行う子代である「乳部(壬生部/みぶべ)」からの転化を含む。」とあります。
東武日光線に、この「壬生駅」があり、その2つ宇都宮に近いのが「おもちゃのまちえき駅」で下車して、10分ほどに徒歩で行かれるところに、家内が入院している「獨協医科大学病院」があります。「干瓢の里」で、「夕顔」から取った果肉を乾燥させて、「干瓢」ができるそうです。
大陸から渡って来た種が、滋賀の木津に植えられ、その種がこの壬生の地に蒔かれた経路に、大陸中国との深い関わりがあることが知らされます。そう言えば「かんぴょう」って、しばらくら食べていないのです。中国の皆さんは、この夕顔をスープにして、好んで飲むのです。夏の野菜ですが、いつか調理してみようかな、の朝です。
(夕顔の花と実です)
.