バラ

 

 

この写真は、3週間も前に、長男が、卒業する生徒のご両親から、感謝でいただいた《黄色いバラ」を、先程、iPoneで撮ったものです。家内の入院先に、持って行きたかったようですが、病室に生花は持ち込めず、私の留守番先の家の玄関に、飾ってくれたのです。

大きな花が3輪残っていて、まだ綺麗なのです。やっと記念にしたくて、結婚記念日に撮ったわけです。もう直ぐ、入院先の家内の所に、出掛けようと思います。一昨日、家内に記念品を買ったのですが、これを持参します。今日も風が強いのですが、気温は17℃です。

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芳しさ

 

 

きっと、「ふるさと」って〈匂い付き〉なんだろうと思います。目に残る景色や生活だけではなく、そこには、梅や桜、遠くから運ばれてくる桃や葡萄や林檎の花、畦道の流れの淵に咲いていた草花、両親や兄や弟の汗や涙、そんな多くのことに、懐かしい匂いや香りがあったのでしょうか。きっと〈懐かしさ〉が、匂いを付けてしまうのかも知れません。

中部山岳の山から流れてくる沢の淵の旅館の離れで生まれ、沢違いの山奥で育って、就学前に、兄たちの後を追って山の林に分け入り、木通(あけび)を採ったり、栗を拾ったり、沢の流れを泳ぐ山女(やまめ)を追ったりしました。小学校の入学式に、病んで出られず、通学もできませんでした。ただ兄に連れて行ってもらった教室で、兄の横に椅子をおいて未来、一緒に飲んだ脱脂粉乳の匂いと味は覚えています。

巡りくる季節にも匂いがありました。東京に出て来て住んだ街の里山や川や貝塚、近所の広場や旧国鉄の引き込み線の操車場が、遊びの舞台でした。多摩川の鉄橋の下で泳いだり、潜ったりして、ハヤを手で掴んだり、魚影を眺めたりしていました。お寺の庭のイチゴや木イチゴやグミ、通学路の無花果(いちじく)、こっそり食べて美味しかったけど甘酸っぱい香りがしていました。

姉や妹がいなかったからでしょうか、柔らかそうな女の子の身体に触れたくて、そばにすり寄り、もどかしく手で触わろうとする衝動に駆られた、幼い日がありました。上の兄の同級生のこぐ自転車の荷台に乗せてもらって、耳鼻科に連れて行ってもらった日、この手で触れた、電気店のお姐さんの腰の感触、そして匂いを、かすかに覚えているのです。中耳炎で痛いのに、その気持ちよさが、痛みを敗走させてしまっていたのかも知れません。ちっとませた小学生なのか、幼いなりにも男だったのでしょうか。

やっと妻を得て触れた、彼女の柔らかな唇や乳房や肌、その感触は匂い立つような、まさに真性の《乙女の芳しさ》でした。赦されて再生された者にとって、何と素晴らしくも、歓喜できることなのだと感謝したのです。後ろめたく触ってしまい、誘惑の嵐の中を彷徨い、迷いながら青年期を過ごし、その罪を悔いて、やっと妻を得て、疚(やま)しさなしに触れることができたからです。

数えきれない匂いの記憶が残されています。  健康的で、夢や希望を生み出すものです。人を元気づけ、生きる意欲を沸き立たせてくれます。この家の庭に降り注ぐ陽にも、生い出る草や花にも、土にも《創造の匂い》のあるのが感じられます。「春一番」も吹き、「桜」の花が満開になりましたが、48年前も、同じ様に桜の時期でした。かすかな春の匂いがして来ました。

今日

 

 

この花は「二輪草」です。春の花なのですね。風雪を越えて来た〈夫婦愛〉を、この二輪草になぞらえて歌った歌がありました。

あなた おまえ
呼んで呼ばれて 寄り添って
やさしくわたしを いたわって…
好きで一緒に なった仲
喧嘩したって 背中あわせの ぬくもりが
かようふたりは ふたりは二輪草

ほうら ごらん
少しおくれて 咲く花を
いとしく思って くれますか…
咲いて清らな 白い花
生きてゆくのに 下手なふたりが さゝやかな
夢をかさねる ふたりは二輪草

おまえ あなた
春がそこまで 来たようだ
よかった一緒に ついて来て…
雨よ降れ降れ 風も吹け
つらいときにも 生きる力を くれるひと
どこに咲いても ふたりは二輪草

この花は、「Anemone(アネモネ)」の一種だそうで、ギリシア語の「anemos(風)」を語源とし、春の初めのおだやかな風が吹き始める頃に花を咲かせるからとも言われます。和名で「二輪草(ニリンソウ)」なのです。ひとつの茎から二輪ずつ花茎が伸びることから、そう命名されています。英語では「Soft windflower(柔らかな風の花)」と呼ばれるそうです。

今日、4月4日は、家内と私の結婚の「四十八周年」になりました。風雪も嵐も、そして何度か〈死の危機〉もあった年月を、二人で超えて来たかな、の今日です。あの日にも、この二輪草が咲いていたのでしょう。4人の子が与えられ、彼らも結婚をし、それぞれ家庭人となりました。

今年の記念日は、それぞれの居場所で、過ぎた年月を、家内は家内なりに、私は私なりに思い出すことにしましょう。そして、これからの日々にも思いを巡らせて行きたいと思っています。多くの人たち、父や母、兄弟姉妹、友人、恩師、隣人たちがいてくださって、私たちの今日があります。

1980年の初夏、住んでいたアパートの上階でガス爆発があって、家族全員、次男は家内のお腹にいましたが、火をくぐり抜けて生き延びたのです。胸がキューンとするほど懐かしく思い出されてくる、時と日と出来事の年月でした。たまに食べたバイパス沿いの店のラーメン、何軒か向こうの店で買って食べた焼き鳥、みんなで出かけた相良の夏の海、そんな日々があっての今日です。病む日もありましたし、あります。

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