いのち

 

 

中学校の国語教科書に、次の詩が掲載されています。「生命は」と言う題の詩で、吉野弘の作です。

生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい

花も
めしべとおしべが揃っているだけでは
不充分で
虫や風が訪れて
めしべとおしべを仲立ちする

生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分
他者の総和

しかし
互いに
欠如を満たすなどとは
知りもせず
知らされもせず
ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄
ときに
うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように
世界がゆるやかに構成されているのは
なぜ?

花が咲いている
すぐ近くまで
虻(あぶ)の姿をした他者が
光をまとって飛んできている

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

〈生命軽視〉の時代のただ中で、《命の重さ》、自分のも他者のも、同じ様に極めて重要なものであることを、とくに、若者は学ばなければなりません。どの命にも、意味と価値と目標、そして使命と義務とがあるからです。

孤独を噛み締めた時が自分にもありました。〈独りぼっち〉の寂寥感(せきりょうかん)に耐えられなほどでした。どこか賑やかな雑踏の中に駆け込みたかったのです。でも、群衆の中には、自分の孤独を紛らわせてくれるものも、忘れさせて、癒してくれることはありませんでした。

古来、人は孤独さの中で、己を鼓舞し、強め、高めてきたのでしょう。『荒野(あれの)」には、「声」がある!』と、若い時に読んだ本の中にありました。静まり返ることがなければ、聞き逃してしまう様な、《天来の声》があるのだそうです。《静かな細い声》と言うようです。

私は、『生きよ!』と語る声を、何度か聞いて今日まで生きて来ました。「高価で尊い」のだと言う、自分の命と存在の価値宣言を聞き、知らされ、生き直したのです。

(去年の春先に植えた朝顔の芽です)

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