小菊

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この数日、北側のベランダに、西日が当たる様になってきています。9階建ての棟にも、日が高くなってきて、夕方の一時、明るさが戻ってきました。そこに置いた「小菊」が咲いたのです。ちいさな花で、まさに「小さな菊花」が見られます。家内が、学生さんにプレゼントされたものです。やっと北側のベランダにも、春がやってきた様です。
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土木工事

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「丹那トンネル」、「黒部ダム」、「東海道新幹線」、「青函トンネル」などは、日本の土木事業としては、その価値、規模、技術、経費、従事者数、年月なからしますと、実に大変な難工事であったと聞いております。それらが竣工した時には、その困難を克服した事もあり、世界の注目を浴びました。《世界初》だった工事もあって、誇れるものだったのです。今もなお、運用され、利用されているのを知るにつけ、父や祖父の世代の使命感に溢れた業績には頭が下がります。

その工事の様子を調べて見ますと、東海道新幹線は、217名もの工事担当者の犠牲があったそうです。どれほどの困難な工事であったかを思い知らされます。利用する度に、重いものを感じさせられ、ただ感謝が溢れてまいります。犠牲になられた方のご遺族は、亡き夫、亡き父、亡き子の殉職の上に、今もなお運用されているのをご覧になって、悲しみと共に、貢献への誇りも覚えておられる事でしょう。

ただ犠牲者の数を取り上げるのは、ご遺族には、甚だ申し訳ないのですが、津軽海峡の海底に、トンネルを掘る工事の方が、さらに難工事だったに違いなかったのですが、新幹線に比べて、24年を費やした工事期間での犠牲者が、36名と少なかったそうです。自然相手ですから、予測できない事態に見舞われる事も多々あったわけです。最大限の注意を払いながらの工事にも、事故は避けられないで起こりうるのでしょう。

高校入学当初は、将来、「土木工学」を学んで、トンネルやダムを作って見たい願いが、私にあったのですが、根性無しで、その願いを諦めてしまいました。骨っぽくて男っぽい仕事ですよね。「海峡」という映画がありましたが、あの工事の準備段階から携わった工事関係者の様子を、映画に観ますと、台風の襲来で遭難した、青函連絡船の「洞爺丸」の事故が、工事従事者のトンネルの必要性の思いを高めていたよ様ですね。

昨年入院を終えて、札幌から東京に戻ろうとした時に、北海道新幹線の利用を考えたのですが、まだ肩が十分に動きませんでしたし、リハビリ中でしたので、空路帰京してしまいました。北海道福島町には、新幹線の工事記念館があるそうです。そこも訪ねてみたかったのですが、叶えられませんでした。

江戸時代に、ノミなどの手道具で作られた、「青の洞門(現在に大分県の耶馬渓にあります)」の話を、子どもの頃に聞いた事があります(菊池寛著「恩讐の彼方に」をご参照ください)。これは江戸時代の個人的な土木工事と言えそうです。"ウイキペディア"に次の様に、歴史が記されています。

『諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚が、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進によって掘削の資金を集め、石工たちを雇ってノミと槌だけで30年かけて掘り抜いたといわれる。1750年(寛延3年)の第1期工事の完成後には、通行人から人4文、牛馬8文の通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路ともいわれている。』

禅海和尚の志は素晴らしいものがあります。同じ様な志で、そう言った工事が、よく、この日本で成されてきているのです。次回、北海道を訪ねる機会がありましたら、ぜひとも北海道新幹線を利用し、記念館を見学し、また念願の「モヨロ遺跡」にも行ってみたいな、と思ったりしております。

(歌川広重の『六十余州名所図会』には、「豊前 羅漢寺 下道」と題し、この洞門が豊前国の名所として描かれている。下は、現代の拡幅整備された「青の洞門」です)

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ユダヤ民族が受け継ぐ書に、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。」とあります。多くの人は、《偶然》が支配していると考えているのですが、《何事にも定まった時期》があり、《すべての営みには時がある》と言っているのです。

海の向こうから、『3試合連続ホームラン!』と、今季、MLBのエンゼルスに入団した、大谷翔平選手の活躍ぶりが伝えられてきました。滝を昇ろうとする「鯉」の様に、天昇る龍の様な勢いを見せています。若干23才、並み居る大リーガーに引けを取らない体格、動じない落ち着いた性格、私たちの世代では考えられない、天賦の才能を与えられているのでしょう。

同じ様に、天賦の才能に恵まれ、MLBで、その名を馳せたイチロー選手は、今季は、古巣のマリナーズに復帰して、活躍が期待されています。大谷選手より20才の年長でありながら、その挑もうとする意欲は素晴らしいものがあります。どれほどの精進を積んできているのか、門外漢の私たちには想像できないほどです。今季の活躍を、楽しみにしています。

この二人には、職業野球選手として、「定められた時」があります。今まさに、上昇気流に乗る大谷選手に対して、現役選手でありますが、かつて驚異的な活躍を見せた、イチロー選手は下降気流の中にあるわけです。父と子ほどの年齢差を考えるなら、それは当然の《時の違い》と言えます。活躍でき、記録を作る《定められた時》が、それぞれにあるわけです。

この「ユダヤの書」には、どんな人も出来事も、生まれ起こるべくして、生まれ起こるのだと断言しています。自分の人生を顧みますと、若い日の思いや願いは、今もあります。でも、私たちの世代の社会的責務を果たすべき「定められた時」は、もう過ぎたのが分かります。後進のみなさんが、主たる立場を取り、責任をお持ちになって励んでおられるのです。順次、次の世代に時は委ねられていくのです。

これまで、《死にかけた時》が、私には、6度ほどありました。肺炎に罹った時、落雷時、台風で荒れる海での遊泳時、 高速運転時、上階の家がガス爆発した時、自転車で転倒した時です。これらの時は、「死ぬべき時」ではなかったので、 生き延びて今日を迎えられています。何か大きな力に押されたり、引かれたりしているのを感じてきています。まだ「生きるべき時」を通過中の自分を意識して、大陸の端っこにるところです。
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野の花の如く

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春が来ると、こんなにも美しい?が、山や里に咲き出すのですね。そして、こんなにも多くの種類の?があるのにも、驚かされてしまいます。さらに、色彩の豊富さには圧倒されてしまいます。昨日配信いただいた、「里山を歩こう」には、広島県三次市の高谷山に咲く、紫色が鮮やかな「コスミレ」と「センボンヤリ」と言う?の写真がありました。

きっとこちらの里や小山にも、数々の?が咲き始めていることでしょう。人に褒められたくてではなく、天に向かって咲く姿が、潔いのが素晴らしいですね。『野の花の如く!』と、色紙に書いてくださった恩師を思い出します。
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花束

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今週、私たちは、《結婚47周年》を迎えたのですが、若い友人であるご夫妻が、大きな中華レストランで、お祝いの席を設けてくれたのです。お二人のお嬢さんと息子さん、この11年来、何くれとなくお世話くださっているご婦人(大学の法学部の先生)、そしてよく知ってる小四生が同席してくれました。

会食を終えて、このご夫妻の家に行って、交わりをしたのです。市内の有名なパン店のケーキを、みなさんで食べて、茶菓をとりながら話を交わしたのです。そして、その席で、夫人の友人で、時々、一緒になる方が、同席できない代わりにと、《花束》を家内にくださいました。それが、この写真に写っている花です。家に帰って、花瓶に挿して、客間に置いたものです。

毎年、覚えていてくださって、こんなに好くしてくださるのです。老夫婦が、異国の空の下で、仲良く、助け合って生活してる姿を見て、わが事の様に喜んでくれるからでしょう。何時でしたか、前に住んでいた小区に入ろうとした時、通りすがったご婦人が、『好夫婦哪!(好い夫婦だよ)」と言ってくれました。時々見掛ける外国人の老夫婦が、仲良く歩いてる姿、生活している様子は、好い印象を与えているのでしょうか。

意見の衝突や、習慣や趣味など、様々な違いと場面を通り越しながら、ごく並みに、一緒に生きているのが好いのでしょう。同じ価値観や人生観や世界観を持ちながら、相手を認めながら、生きていられるのは、感謝なことです。『若いご夫婦に、好い模範になれたらいいな!』、『日本人だって好い夫婦ができるんだよ!』と思ったり、願いながら、《共に白髪の生えるまで》は経験してしまっていますから、《暇乞い(いとまごい)するまで》、もう少し共に支え合って行こうと念じたところです。

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辺鄙

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この地球上には、数多くの道があります。思い返すと、子どもの頃は足で、その後は自転車、運転免許証を取ってからは車、こちらに来てからは足と<的车deche/タクシーです>とバスで、名高い道から名のない道まで、どれほどの数と距離を歩き、ペダルを踏み、ハンドルを握りながら歩き、移動した事でしょうか。

そんな道の中に、「哲学の道」があります。京都市内の一劃に、多くの哲学者が住んでいたからでしょうか、また、哲学しながら歩く人が多いからでしょうか、そう呼ばれる道があるのです。<京都おもしろスポット>に、その歴史が次の様に記されてあります。

『南禅寺から銀閣寺に至る疎水は、桜がたくさん植えられ春は桜、秋は紅葉で散歩する人を和ませてくれます。京都の哲学者、西田幾多郎がこの道を思索にふけりながら散歩していたことから「思索の小径」と言われていました。その後、西田幾多郎の愛弟子田辺元や三木清らも好んでこの道を散策したことからいつしか「哲学の道」とも言われるようになり、1972年に正式に「哲学の道」と銘々されました。哲学の道のなかほど、法然院のそばには西田幾多郎が詠んだ歌が石碑に刻まれています。』

日本屈指の哲学者の西田幾多郎が、その《遊歩道》を、自然をめでながら散策していて、『こんな時は、何も考えないで、孫や夕食のおかずの事を思っていよう!』と、そんな思索しかしなかったのだろうと、凡人の私などには思えるのです。孫やおかずも、哲学者の思索は、やっぱり「哲学」の内なのでしょうか。まだ歩いた事がない道ですが、いつか哲学しながら(?)歩いてみたいものです。

この西田幾多郎が、ある時、『水沢の如(ごと)き辺鄙(へんぴ)』と言ったのだそうです。京都に住む西田から見たら、この「水沢」は、確かに東北・陸奥の岩手の町ですから、「辺鄙」だったのは確かです。西田とて、北陸の石川県河北出の人でしたから、そんな事は言えないはずです。ところが、この水沢(今は合併して「奥州市」となっています)には、一人の天文学者がいたのです。[Z項]と言う天文学上の法則を作り上げ、世界の天文学会では名だたる、「木村栄(ひさし)」が、観測に何十年も没頭した街だったのです。

そんな偉業を、陸奥の片田舎で果たしたので、『そんな辺鄙な街で、そんな偉業を遂げたのだ!』と、木村栄と水沢をたたえて、そう言ったのです。人類の貢献者は、「辺鄙な村」の出身者が、意外と多いのではないでしょうか。私も、鹿や熊の出る山奥で生まれているのですが、それと自分とは関係なさそうです。

先日、立命館と早稲田で「哲学」を修めた若き学者が、お二人、わが家を訪ねて来られました。こちらの大学で教えておられる日本人です。家内が、カレーと野菜サラダとおひたしで夕食をもてなしましたら、とても喜んでおいででした。あれって「哲学の喜び」なのかと思っていましたら、久し振りの日本食が食べられた、<単なる喜び>だった様で、安心しました。

(水沢駅ホームの「南部鉄器風鈴装飾」です)
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親子

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<親が子の過失を詫(わ)びる>とか<借金を返済する>という事がよく聞きます。この事について、何時も、『おかしい!』と思ってしまうのです。十八歳未満でしたら、親が詫びたり、返済するのも好いかも知れません。しかし二十歳を過ぎ、また三十歳にもなって、親が出てくるのは、おかしいのです。もう大人なのですから、本人が責任を負うのが当然です。またマスコミが、親を公の場に引き出すのも、行き過ぎに違いありません。

『もう大人なのですから、あれに聞いてください!』で、好いのではないでしょうか。社会的にも、法的にも、本人が責任を問われ、責任を負い、賠償を果たし、詫びるべきです。六十一歳の母親に、二十三歳の息子の犯した事件を釈明させたり、詫びを求めるマスコミの姿勢もおかしな事です。

よく公務員や社員の犯罪に対しても、上司が、『この度は、大変ご迷惑をおかけし、申し訳ございませんでした!』と、九十度に腰を折っての謝罪会見と言うのでしょうか、記者会見の様子が、ニュースで報じられますけど、それをしてる上司は、『どうして俺がこんな事をしなけきゃならないんだ?』と、きっと思っているに違いないと、感じています。世の中は、それを上司に求めるのです。

任命責任とか雇用責任はあるのですが、私人として犯した罪には、もう成人映画だって観られる年齢になっているのですから、本人が責任を取るべきです。いわんや選挙権を持つ年齢になったら、何をか言わんやです。

幼稚園児の息子が、薬屋の店頭のチューインガムを盗った事がありました。級友と二人でやったのです。それを見付けた私は、息子を連れて、その薬局に行き、本人に詫びさせ、親の責任において私も謝りました。盗む事が、いけない罪であるのを、園児の彼に教え、恥をかかせたのです。それ以降、息子は二度と、盗みをしなくなりました。

私は、子どもたちが大人になってからは、一人の社会人として、人様に迷惑をかける事なく生きるように願いました。過ちを犯したら、自分で処理をするようにも願ったのです。それこそが社会人として在り方だからです。子育て期にではなく、結婚し、子をなす年齢になっても、尻拭いをし続けてる親を見て、過保護も、ここまでいくと異常に思えてしまいます。

私の親は、私たち四人息子に、過干渉しませんでした。自分で生き、自分で切り開き、過ちがあったら自分で責任をとり、自ら処理するようにさせたのです。おかげさまで、随分独立的に生きてこれたのだと思います。大人になったら、自分も周りも、そうすべきではないでしょうか。
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家族愛

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昨日、今日、明日と、「清明節」の三連休です。やはり休みの雰囲気が、街中に溢れかえっています。さて昨日、家内は、何かにかぶれたのでしょうか、夕食会でご馳走になった後、進められて食べた海鮮料理で、そのかぶれが酷くなってしまい、友人二人に連れられて、市内の「皮膚医j院」に連れて行ってもらったのです。夜十時半過ぎでした。

酷かったので入院する可能性がありました。今日午後、同じ病院に行って、知人の知り合いのお医者さんに診察してもらいましたら、昨晩、処方して頂いた薬が効いたのでしょうか、腫れもおさまり、痒みもなくなったようで、入院治療の必要がなくなったところです。ちょっとしたハプニングでした。

昨晩も今日も、家内を、自分の姉のように世話を焼いてくださる方々がいて、助けられて感謝でいっぱいです。市内の多くの医院(中国では大病院も医院です)に顔の利く方が、一緒に行ってくださったのです。この方はご夫婦で、また息子さん家族で、私たちを、何くれとなく助けてくれているのです。まさに、実の家族の様です。

すっかり元気になった家内は、友達に呼び出されて、医院帰りに、横道にそれて、また街中に行ってしまいました。いろんなことがあって、それでも元気に、11回目の大陸の春を迎えています。嬉しいことです。

(中国山地の里山に咲く「桜」、「ミヤマカタバミ」、「タチツボスミレ」です☜「里山を歩こう」から)
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中部山岳の街に住んでいた時、春と秋になると、誘い出してくださって、山歩きにお連れ下さった方がいました。春には、この写真の様に蕨(わらび)などの山菜採り、秋にはキノコ狩りをしたのです。東京電力の技術畑の方で、送電線の設置箇所の見回りなどで、若い時に山歩きをされた方で、もう退職されておいででした。

それでも山歩きを止められず、腰に鉈を下げて、笹や藪を切り開いて、一緒に歩いていると、糞を見つけては、『もう鹿が出ていますよ!』と教えてくれ、いわゆる<獣道(けものみち)>を知っていらっしゃるのです。山の稜線から、山肌を斜めに下るのに、従っていました。翌日は、普段使わない筋肉が痛くて難儀したのです。

山歩きのプロに連れられての山行きで、山菜やキノコを採るというのは、実に楽しかったのです。あの葉や草の匂いが、何ともいいのです。最後は、信州の乗鞍にも行った事がありました。温泉にもゆっくり浸かったでしょうか。あのまま退職して日本に残っていたら、今頃は、山菜採りに、山に分け入っている事でしょうか。昨日、配信してくださった記事の写真を見ていましたら、懐かしく思い出してしまいました。

あの頃、熊には出会わなかったのは、幸いでした。寝たふりも、木に登って、熊を交わすのもダメだそうですね。ラジオを鳴らすのがいいのでしょうか。あの方は、熊対策をされていたのでしょうか。

(HP「里山を歩こう」から広島県東広島市黒瀬町市の溜池の近くで芽を出した「ワラビ」です)

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決心

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子どもたちの写真の中に、次男が、まだ5歳くらいに時のものがあって、ビジネスブックノートに挟んであります。事務所の階段の踊り場の床板の上で、あぐらを組んで、腕も組んでいるのです。<ボク>が<オレ>に変わっていく時期で、男の子の<背伸び>する思いが、その<腕組み>に現れていたのかも知れません。

高校生の時の事です。来客があった時に、お客さんの前で、その<腕組み>をしていた私を、母が見ていました。それを見過ごさなかった母が、則座に、『お客様の前で、腕組みなどしてはいけません!』と、叱ってくれたのです。まだ素直だった私は、恥じながら<腕組み>を解いた事がありました。それを《肝(きも)》に銘じたのでした。

だいたい、どこの国も、青年たちの集合写真を見ますと、結構、<腕組み>をしている人が、何人かいる様です。アメリカにいる外孫の友人たちの集合写真の中にも、一人いました。とくに、軍国主義や国家主義を縹渺(ひょうびょう)する国の青年たち、例えば、かつての日本やドイツやイタリヤの青年たちが、多く<腕組み>をしていたのです。こちらに来て、中国の青年のみなさんが、<腕組み>をしているのを見た記憶がないのです。

「腕組み」ということを書かれた、彫刻家で、東京芸大の名誉教授をされた舟越保武さんが、面白い事を言っておられます。『「心臓を守るかたち」、ひいては「心の動揺を相手に見せまいとする本能の働き」である。言い換えれば「防御の姿勢」や「反抗の姿勢」、「ときには自分の邪心を隠す形」でもある!』と言っています。人の姿を、石に刻む事を生業(なりわい)とする方ならではの観察眼です。

これまで多くのアメリカ人と出会ったり、一緒に働いたり、教えて頂いて来て、この方たちで、この<腕組み>をしていた方は、一人もいないです。私を<威嚇(いかく)>したり、<蔑視(べっし)>したりする人ではなかったからでしょう。私は、何かを考える時に、この<腕組み>を、自然にしているのです。若い頃によくしていた様です。それを見た家内に、『それ、やめて!』と言われたのを思い出します。

国会中継や、国会内の委員会の光景を映した映像を見た時、野党の厳しい質問攻めに、タジタジとした大臣が、自分の席で、頭を下げて瞑目して、<腕組み>をしてたりしています。あれって<防御の姿勢>で、『負けんぞっ!』、『やり込められんぞ!』と無言で、跳ね返す思いを表しているのでしょうね。

私の「写真倉」の中に、幕末に、来日した写真家が撮った、当時の日本人の写真がありますが、幾葉かは、侍の<腕組み>の物があります。やはり、欧米からに圧力が加えられていた時代の<不安>の表れだったのでしょう。若い私が、そうでした。大人としての確信にかけて、<不安>を感じた時に、よく<腕組み>をしていたのです。

私は、こちらのみなさんの前では、<日本軍人>を彷彿(ほうふつ)とさせてしまう様な<腕組み>を、『決してすまい!』と決心して生活してきています。でも、若い頃の習慣、いえ<不安>が出てきてしまわないか、もしかすると、ふとした事でやっていそうで気にしているのです。ここでの生活の一つの意味は、《和解の務め》だと思っているからです。そういえば、私の父もしていなかったなあ!

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