.
.
私は、青年期に、「浄(きよ)い生活」に憧れていたのです。自分が、随分汚れていると感じていたからです。でも、実現できずに、悶々としていました。そんな私に、衝撃を与える人物を知ったのです。よく"アッシジのフランチェスコ"と呼ばれている、中世のイタリア人です。青年期に放蕩三昧に生きていた彼は、ある時、劇的な《回心》を経験して、在り方や生き方を全く変えてしまうのです。そして同じ様に変えられた若者たちと、女に触れない独身者の集団生活(「小さき兄弟団」です)を結成します。人々を助け、世の中の必要に届こうとして、生きていくのです。しかし独身生活をする事で物欲、性欲、名誉欲を抑え込む事など、誰もができるものではなかった様です。
このフランチェスコを主人公にした、映画ありました。その中に、次の様な場面があったのです。きっと事実に基づいた出来事だったのでしょう。ある時、「小さき兄弟団」が、道を歩いていました。その内の一人が、洗濯をしていた女性を、凝視していたのです。乳房を露わにした胸に見惚(みと)れていたのです。"フランチェスコ"は、その様子を見て、彼を咎めませんでした。
この青年に、集団から離れ、「聖なる結婚」をする様に、彼に勧めたのです。<禁欲>と言う戒律で、人を縛り付けずに、一人一人の心の動きが違う事を認め、生まれ持った欲望を、健全に正しく消化する方法を勧めたわけです。この様に、独身主義に、耐えられない人の情動を許容し、《結婚の健全性》を勧めた"フランチェスコ"に、私は親近感を覚え、感動したのです。
.
.
生まれつきの人がどういう者で、どうあるべきかを教えられた私は、ありのままで自分を認め、受け入れ、これで生きて行こうと決心したのです。そして"フランチェスコ"の様な《回心》を経験したのです。自分の内側には、マグマの様に湧き上がる誘惑に、抵抗し勝てる力がなく、全くの敗北者である事が分かった私は、《私を強くしてくださる聖なる方》と内面的に出会って、解放と安心を得たのです。
もちろん今もなお、老いた者には、老いた者への誘惑があり、戦いの渦中で、マゴマゴしています。人として、男として、老人としての内的な葛藤があるのです。生きとし生ける者が持つ葛藤です。でも自分を責めなくなったのは、よかったと思っています。<弱い自分>のままですが、《内なるお方》は、強いので、助けてくれ、励ましてくれ、また叱ってくれるのす。この方は、様々な誘惑を通られても、虚偽や偽善のない《勝利者》なのです。そう言うお方なら、付き従えそうです。
それにしても、女性が上がるだけで、「土俵」が汚れるという事が、取り沙汰されています。そうなら、相撲をとる力士は、誰もが女性のお母さんから生まれています。また、土俵が「聖域」なら、その上で、殺意を込めて相手を打ち倒そうと、禁じ手を使ったり、「八百長」を演じたり、さらには、土俵下の生活では、愛人を隠し持っている人が、その上に上がるのは大丈夫なのでしょうか。風呂に入ったり、塩を体に擦り付けたら、「浄く」なれるのでしょうか。塩をふんだんに撒くだけで、汚れた者が上がっている「聖域」が、即、浄くなるのでしょうか。矢張り、<形式主義>に過ぎないのではないでしょうか。
(イタリアのアッシジの街の風景、清楚な「むくげ」です)
.